22.「よく見知ったクソジジィ」


 …………。

 …………。

 …………。


 ――はぁ~っ……。


 一切の音が届かない閉鎖空間。個室トイレの一室。

 ……別に、本来的な意味で用を足しているワケではない。一人きりになりたくて、思いついたのがココくらいだっただけ。

 両掌で顔を覆っている俺……、真手雷太の、心臓の音がさっきから鳴りやまない。足にうまく力が入らない。


 オーディションライブ当日。出番まで……、およそあと一時間。

 俺は、緊張していた。


 ……こんな俺の姿、他のメンバー連中に見せるコトはできない。見せられるワケがない。新や城井ならいざ知らず、五奏は俺の百倍は緊張しているハズだ。現に、今日のアイツはいつも以上に挙動不審で、何と声をかけても上の空。……そんな五奏の前で、俺が情けない姿を晒すワケにはいかない。


「……んがぁっ! クソがッ!」


 頭をぐしゃぐしゃとかきむしり、意味もなく大声をあげてみる。

 とりあえずパーンッと、両掌で両頬を激しく引っぱたいた所で、

 半ばヤケクソ気味に立ち上がった俺は、個室扉のドアノブを思い切り掴む。

 ――バキッと、軽快な音を立ててぶっ壊れるとは露知らず。



 個室トイレのしきり壁をねじ登るという荒業で、なんとか緊急脱出に成功した俺は、イラつきで緊張を吹き飛ばすという快挙を成し遂げていた。教室に置いてあったギターを回収し、ライブ会場である体育館へ向かうべく、ノッシノッシと別校舎への渡り廊下を闊歩していたトコロで――


「真手」


 ふいに、背後ろからの声。

 しわしわにしゃがれた、年季が入りまくったトーン。

 俺がクルリと振り向くと、


「お、オジーじゃん」

「……学校では金剛寺こんごうじ先生と呼べ」


 ハゲ面の、よく見知ったクソジジィが、眉間にシワを八本くらい寄せていたワケで。


「軽音部を辞めたお前が、なんで学校にギターを持ってきているんだ?」


 疑問符を含んだトーン、だけど、オジーの声はどことなく嬉しそうだ。


「学園祭ライブ、有志でメタルバンドをやるコトにしたんだよ、軽音部じゃない連中も入れて」

「……へぇ、このご時世、メタル好きの高校生がお前や大木以外に存在したとはな」

「メタル全盛の八十年代を知ってるジジイにゃ、泣ける話だろ」


 小ばかにしたように笑ったのは俺、「うるせぇな」と返しつつ、でもオジーの口元も幾分か綻んでいる。その後、他愛もない雑談をいくつか交わして、「じゃあそろそろ行くわ」と話を切り上げようとしたのは俺で――


「父親から、何か、連絡はないのか?」


 急に神妙な顔つきになったオジーの声が、俺の右頬をザワリと撫でた。


 沈黙が、轟いて。


「……ねぇよ、あるワケないじゃん。あるとしたら、オジーの方が先なんじゃねぇの」


 すすに塗れたおれの声が、飾り気の無い廊下の地面にポツリと落ちる。


「……そうか」


 オジーと俺は、しばらく黙っていた。

 肩に背負ったギターケースがやけに重く、何かから逃げるように視線を逸らした俺は、黙り込んだままオジーに背を向けようとして。


「真手……、いや、ライタ」


 しわしわにしゃがれた、年季が入りまくったトーン。

 およそ聞き慣れた、遠い記憶の声。


「良かったな。好きな音楽を、一緒にやれる仲間、できて」


 オジーが笑う。

浅黒く無骨で、凝り固まった顔面に、皺が寄っている。

 釣られたように、俺もヘラッと口元だけで笑って。


「……俺らの演奏聴いて、しょんべん漏らさないようにちゃんとオムツしとけよ、クソジジィ」


 今度こそクルリと背を向けながら、振り上げた片腕の先で中指を立てた。

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