【長編】 デス声少女は叫びたい

音乃色助

1.「私の名前を呼ぶ声」


五奏ごそうさん」


 声が聴こえた。私の名前を呼ぶ声。

 遠慮がちな、少しだけ何かを警戒しているような、不安定なトーン。


 放課後の教室、帰り支度を終えた私はちょうど自席から立ち上がったところで、

 声がする方に振り向くと、クラスメートの女子生徒が二人、困惑した顔つきで私を見つめている。


 目の奥がきゅうっと縮こまり、視界と意識が段々と離れていくような感覚に襲われた。

 呼吸が早くなり、急速に喉が渇いていく。


「あの、学園祭の出し物のアンケート、まだ出していないの、五奏さんだけだから」


 私に話しかけたのは、我がクラス、3年3組の学級委員長。……確か、名前は松谷まつやさん。柔らかい笑顔で私に微笑みかけてはいるが、その表情筋はやや強張っている。――その事実が、私の心臓をゆっくりと縛り上げていく。


「今日が難しいなら、明日でもいいんだけど……」


 彼女は、さらに言葉を続けた。

 気まずい沈黙の時間を、無理やり埋めているように思えた。


 ――あ、ごめ~ん。うっかり忘れちゃってて、明日朝イチで提出するね――


 そんな一言で、彼女達はホッと安心した表情を見せる。

 そんな一言が、日常というサイクルを無難に回していく。

 そんなこと、私だって知っている。わかっている。

 わかっては、いるんだけど――


 声が、飛び出してくれない。

 喉の奥が塞がれたみたいに、言葉が、出てこないんだ。


「ホラ、言ったじゃん……、この子、ちょっと『アレ』だって――」


 ビクッ。

 思わず、肩が震えた。

 松谷さんの隣、もう一人の女子生徒が漏らしたその言葉が、頭の中でグワングワンと反響する。


 「でも……」と、松谷さんが困ったような声をこぼした。もはや私には、それが現実世界に鳴っている音とは思えない。私の五感は私の五体から切り離されており、脳が、状況をうまく認識できなくなった。

 途方に暮れた二人組を目の前に、私はひたすらに押し黙っている。

 事態が勝手に収束してくれるのを、ただ、願った。


「――どうした? お前ら」


 ふいに、第三者の声。

 快活な、でもどこかひょうひょうとしたトーン。

 私たちの前に現れたのは、ジャージ姿の中年男性。クラスの担任、体育が専門の下田しもだ先生だった。年にしては健康的で無骨な肉体が、ぬりかべのように立ちそびえる。


「あの、学園祭の出し物のアンケート、五奏さんに出してもらおうと……」

「ああ、そうか。五奏は昨日、学校を休んでいたもんな。明日までに、出来るか?」


 女子の中でも小柄な私の背丈に合わせるようにと、先生はその大きな体をくの字に曲げて私の顔を覗きこんできた。私の眼前、不自然なまでに白い歯がニカリと光って――

 恐怖のバロメーターが限界点に達していた私は、一切の有無もないまま、コクコクと首を何度も縦に振っていた。


「そ、それじゃあ、五奏さん、よろしくね――」


 どこか、解放されたような、安寧のトーンの声が耳に流れて――

 松谷さんたちがそそくさと私の元を離れる。彼女たちの背中を目で追いながら、強張っていた全身から一気に力が抜け落ちる。私は思わず大きく息を吐き出した。

 私の五感が、私の五体に戻っていく。

 見えているようで、何も認識できていなかった景色が、私の視界に還ってくる。


「五奏、気にしなくていいぞ。喋りたくないなら、無理に喋らなくていい。……それよりお前、今、ちょっと時間あるか?」


 下田先生のそんな台詞、疑問符がクルクルと頭上を舞って、私は首を斜め四十五度に傾けた。


「ココだとなんだから、先生について来てくれ」


 言うなり、くるっと背を向けて、教室の外へ歩き出したのは下田先生で――

 疑問符をそのままに、私はペンギンのような拙い足取りで、先生の大きな背中についていった。

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