黒い森のヴィオラローゼ

千夜野

第1話 出来損ないのマリアンネ

 ――黒い森には魔女が棲んでいる。

 だから決して、森に入ってはいけない。

 魔女の領分を、侵してはならない。


 くり返し諭していたおばあさまは二年前、死んだ。


          ◆


 マリアンネは貴族のお嬢さまです。

 鬱蒼と茂る黒い森に囲まれた、立派なお屋敷で生まれ育ちました。

 お父さまは優れた政治家で、お母さまも国で有数の名門貴族の出。

 お兄さまたちはそんな父を助け、お姉さまたちは育ちの良い殿方を宛がわれては次々に嫁いでいきます。

 そんな中で末っ子のマリアンネは、変わり者として家族に受けとめられていました。女の子らしいものに興味を示さず、社交よりも孤高を愛し、何にも流されない頑固者。そんな風に。

 マリアンネ自身も、そんな周りの反応を快くは思っていません。

 マリアンネは家族のことが大嫌いなのです。

 まともに口を利いた覚えのないお兄さまたちも、着飾ることしか頭にないお姉さまたちも、マリアンネにとっては苛立ちの対象にしかなりません。唯一マリアンネを理解し、可愛がってくれていたおばあさまも、二年前にあっけなくこの世を去ってしまいました。それからというもの、寡黙なマリアンネ、変わり者のこの末娘と心を通わせる存在は、屋敷の中には存在しませんでした。

 けれど、マリアンネは孤独ではありませんでした。彼女には二人だけ、話し相手が居たのです。一人はエルミーラ。貴族のお友達です。そしてもう一人は――ヴィオラローゼ。

 彼女は、黒い森に潜む〝魔女〟でした。


          ◆


 貴方って本当に変わった子ね、と。

 生まれてからこれまで、何度そんな言葉を耳にしてきただろう。何度そんな言葉を投げつけられてきただろう。なのに投げつけた方はいつだって〝変わった子〟は変わっているから、他人の言葉をいちいち真に受けたりしないのだと、いちいち傷ついたりなんてしないのだと、なぜだか信じている。だから他の人に向けるよりも鋭角な言葉を、平気でこちらに放り投げてくるのだ。悪意のない真っ白な刃を自覚のないまま突き刺して、〝自分とは違う存在〟に傷痕を残したことには気付きもしないまま。

 ――もっとも、彼女たちの世界から見れば、確かに自分は変わっているのだろうと、マリアンネは冷えた心で理解していた。異質で、異物。出来損ないの娘――それが自分だと。

 例えば、マリアンネは着飾ることに興味がない。苦しいだけのコルセットも、わずらわしいだけのクリノリンもまるで馬鹿馬鹿しいとしか思えないし、髪だって下ろしている方が好きだった。仰々しいドレスに身を包んだり、熱心に着飾って異性の気を引くことに、何の意義があるのかも分からない。

 女の子が好む、可愛らしいものやきらびやかなものが苦手で、甘い物だって大嫌いだ。いつまでも口に残るあのしつこい後味、お姉さまたちのように媚びた見た目。いつも、フォークを握りながら眉をひそめてしまう。

 そんなマリアンネを見て、お姉さまたちはくすくす笑い、お母さまは呆れきった顔をする。お父さまは娘に一瞥をくれることすら稀だ。

 マリアンネはマリアンネで、人を見下すために優秀であろうと必死なお兄さまたちも、ファッションや化粧や色恋沙汰にしか執心しないお姉さまたちも、私とは違う生き物なのだ、と思っていた。お父さまとお母さまも、同じ。マリアンネの求めるものは彼らとはどうしようもなく違っていて、マリアンネにとっては〝誰か〟や〝皆〟に合わせて自分を変えてしまうことは赦し難く罪深い行いに思えたし、見も知らぬ他人の醜聞や、流行りの色や、異性から見た自分の価値などよりも重要なものが、お姉さまたちの見ている世界とは別のところにある気がしてならなかった――けれどマリアンネ自身にもそれがどこなのかはまだ分からなくて、焦燥のような、苛立ちのような、もやもやした感情がずっと胸の奥にうずくまっている。

 ああ、どうして自分はこの家に生まれてしまったのだろう。

 何度も何度も、そう問いかけずにはいられない。聡明で寛容だった、唯一愛していたおばあさまだって、二年前に何の挨拶もなく、マリアンネを置いて神さまのところへ行ってしまった。

 それならいっそ、私もおばあさまと一緒に旅立ちたかった! 幾度もそう思い、もしかしたら本当の私の人生はおばあさまの死と共に終わってしまったのかもしれない、だから今の私は、おばあさまが死んでからずっと長い長い余生を過ごしているだけ――時折そんな想像にも囚われていた。もちろんそんな秘密は、誰にも打ち明けたことはない。たった一人、森のお友達を除いては。

「貴女はとてもしあわせな人だわ、マリアンネ」

 昼間でも陽の光の差さない暗い森。ほっそりとそびえる木々が立ち並ぶさまは、まるで無数の黒い墓標のよう。不用意に足を踏み入れればたちまち四方の感覚は失われ、帰る道を失ってしまう。ある日そこへ迷い込んだマリアンネは彼女と出逢い、以来毎日のように禁じられた森へと出かけていた。

「どうしてそんなことを言うの、ヴィオラローゼ。私の話を聞いていた?」

 マリアンネが口を尖らせても、相手は態度を変えることなく、

「あら、ごめんなさい。でもマリアンネ、私は森に一人で棲む〝魔女〟。家族のいる貴女は、それだけで私にとって眩しい存在なのよ」

 どこか儚げな笑みを浮かべ、遠い目をして木立の合間からわずかにしか見えない空を仰ぐのだった。

 マリアンネは、どきりとする。ヴィオラローゼはとても美しい少女なのだ。身にまとっているものこそ、ぼろのような黒いローブだが、そのみすぼらしさが逆に、彼女の匂い立つような美貌をいっそう際立たせている。

 陶器のように白くなめらかな肌、熟れた果実のごときつややかな唇、しかもフードからこぼれる髪は陽に溶けてしまいそうに淡い金色。濡れた双眸はマリアンネが見たこともなかった紫色をしていて、夜のヴェールをまとった黄昏の空を思わせる、その深遠なきらめきから目を離すことはとても難しい。

 初めて逢った時、マリアンネはすぐに彼女が魔女だと確信した。

 だってヴィオラローゼを見ていると、女の子だというのに胸がどきどきして、どうにかなってしまうのではないかと思う時さえある。ヴィオラローゼが普通の女の子だったら、そんな気持ちになるはずがない。

「……でも、私はちっともそうは思えないわ。お姉さまたちなんて、恋人のことしか頭にないの。着飾ってばかりで、そのくせ頭の中は空っぽよ。きっと頭がクリノリンみたいに張りぼてなのよ」

 マリアンネが不満げに反論すると、ヴィオラローゼはころころと愛らしく笑った。

「ふふ。でもマリアンネ、淑女のクリノリンの中にあるのは何かしら?」

 彼女は、悪戯っぽい瞳をマリアンネへ向ける。

「……クリノリンの中にあるもの? そんなの……下着だけじゃないの?」

「そうよ、マリアンネ」

 ヴィオラローゼは妖艶な笑みを浮かべた。見た目はマリアンネと変わらない、十四か十五くらいの外見なのに、彼女はぞくりとするような大人びた表情を浮かべることが出来るのだ。

「彼女たちの張りぼての頭の中にあるのは罪悪。だから貴女のたとえは実に的確だったの。人間はね、そういう生き物なのよ」

「ヴィオラローゼ……よく分からないわ」

「それでいいのよ、マリアンネ。貴女は私のおともだち。貴女は人とは違うのよ」

 ヴィオラローゼは時々、難しいことを言う。けれどマリアンネは、彼女に友達と言って貰えるのが何より嬉しかった。だから、その言葉を貰えれば何よりも満足だった。

「ありがとう、ヴィオラローゼ。私の森のおともだち!」

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