あなたの頭痛は世界の危機を報せるものです。

織倉未然

プロローグ

(Pro-01) 消えた上司とぼくの早退

 すべての物事には理由がある、とは上司の言葉だった。

 上司。ぼくが入った途端、その人は蒸発した。携帯も通じず、社内の諜報部が監視していたSNSにもログインした形跡がなかった。人事がその人の家を訪れると、空室だった。隣人への聞き込みによると、数ヶ月前にはもう物音がしなかったという。その人自身に家族はなく、両親も昔に亡くなっていた。兄弟姉妹はおらず、緊急連絡先もダミーだった。

「スパイだったんじゃないの」

「映画かよ」

「でもさあ」

「それにうち、盗まれて困るようなもの、何もないじゃん」

「まあ確かに……」

 そういう話が聞こえた。電話が鳴り、彼と彼女は仕事に戻った。

 お客さまの疑問にお答えするのがお仕事だ。始終電話が鳴り響く。営業時間内は鳴り止まない。営業時間外も鳴っているんじゃないかと思う。世界は眠らないからだ。

 ここに電話をかけて来る輩は、基本的に問題を抱えている。技術的な問題と、おそらくは精神的な問題もだ。極限まで好意的に捉えるならば、彼らはその技術的な問題とやらで、パニックになっているんだろう。インターネットに繋がらない端末をはじめて目にしたに違いない。そして、その新種の感情を処理する方法を知らないから、ぼくらのところに電話をかけてくる。錯乱しながらまくしたてる。ぼくらは謝罪する。それで賃金を得ている。

 ここに、科学の限界がある。厳密には、科学に対する信仰の限界だ。なんらかの事象Aが発生したとして、そこには必ず明瞭な原因があると、考える。彼らの釈義には、こう書いてあるに違いない――科学は万能である、と。ジャングルの奥地じゃあるまいし、都会の真ん中で圏外になるわけないだろう、今は21世紀だぞ、と。

 悪いのはいつだって、ぼくらだ。

 おそらく近いうち、雨が降るのも気圧が下がるのも、ぼくらのせいになるだろう。ぼくらは世界の遍く事象に頭を下げることになる。いつまで? この惑星に住む人間が、己が身に降りかかる全ての出来事を了解するまでだ。

 そんな日が来るとは思えない。万が一訪れるとして、その永遠をぼくは待てるだろうか。

 当然「否」だ。

 頭痛がした。

 朝からその気配はあった。例の、ねばっこい頭痛だ。背中から肩にかけてを固まらせ、こめかみの辺りをぐるっと締めつける。これがやって来ると、呼吸すら苦しくなる。吐き気もする。何かに抗うように、脈が強くなる、脳が大きな心臓になったみたいに、ドクンドクンと痛みが鳴る。幼い頃からずっとこうだ。原因は全くわからない。

 頭痛薬はすでに飲んでいた。使用上の注意には、用法・用量を守った上で、四時間の間隔を空けて――と書いてある。しかし、そんなものはいつからか無視していた。いろんな種類も試した。しかし、やがては効かなくなる日が来る。今朝、出社の際に買った一箱も、すでに二錠を残すだけとなった。 

 ぼくは新しい上司に、体調不良を告げた。

「帰らせてください」

 取り繕う余裕なんて、ぼくにはなかった。できるだけ頭を使いたくなかった。適切な言葉を探そうにも、一呼吸ごとに、頭痛が脳神経を分断していた。奥歯を噛み締めながら、謝罪するぼくを、果たしてこの上司はどう思っていたのだろう。

 頭のおかしなやつ、と呟いた気がした。

 ぼくだってそう思う。

「申し訳ありません」

 また言った。特定の誰かに向けたものではない。世界に謝るぼくなのだ。

 作業中のファイルを保存し、パソコンの電源を落とす。規定の棚にパソコンをしまい、オフィスを出る。背中に突き刺さる同僚の視線は冷たかったが、全身を隈なく駆け巡る寒気ほどではなかった。

「またかよ」

「あいつ、いつもああだな」

「仮病だろ」

 ぼくだって、そう思う。

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