其の四

   †4†


 霧雨きりさめ駅は高架化されてこそいるが、いかにも田舎の地方都市らしい、地味な駅だ。

 駅の北側には大型ディスカウントストアー『ランスロット』を中心とする商店街が広がっているが、車社会の群馬では閑散としている。

 雅紀まさき伊織いおりはそんな駅の前で合流すると、少し歩いたところにあるコンビニに入った。

 とりあえず百円のコーヒーを買うと、入り口脇の飲食コーナーに座った。


「今日が通夜で、明日葬式だとさ」


 開口一番、伊織はそう言った。


「そうか。それで、どうして俺には教えられないんだ?」

「それが集落の習わしなんだ。八尺様に狙われた人は何があっても集落に入れちゃいけないっていう」

「そんな風習がまだ残ってるなんてな」


 言いながら、雅紀は昨日のことを思い出していた。

 今となっては悪夢だったのではないかと思えるが、悪夢にしてはあまりにも感覚が現実的だった。


「俺も今時と思うよ。でも、集落の大人たちはみんなそれだからな。そうそう変わらないと思うぜ」


 伊織は自嘲じちょうするように笑った。


「かくいう俺だって、つい最近まで八尺様を信じてたんだからおあいこだけどさ」

「でも、もしかしたら本当にいるかもしれないぞ。妖怪とか、魑魅魍魎ちみもうりょうとか……」

「おいおい、今度はお前がそういうこと言い出すのかよ」


 ついていけねぇ、と伊織は首を振った。


「いやいや、俺だって別に信じてるわけじゃないし」

「じゃあなんで急に言い出したんだよ?」

「いや、別に……」


 雅紀は昨日のことを話そうかと思ったが、やめておいた。

 話したところで伊織には信じてもらえないと思ったのだ。


「なんだよ?」

「なんでもない。で、祖父ちゃんの葬式ってやっぱり集落でやるのか?」

「ああ、ふもとのお寺から坊さん呼んでな」

「坊さんか。……なあ兄貴、そのお寺ってどこなんだ?」


 雅紀はそのお寺なら助けになるかと思ったのだが、伊織は首を振った。


「俺は知らん。墓場は集落にあるし、法事だって家でやるから、俺はお寺に行ったことがないんだ。親父ならあるかもしれないが、今度聞いてみようか?」

「そうだな、頼む……」


 雅紀は伊織に手を合わせた。


「なあ雅紀、お前今日おかしいぞ。本当に何もないのか?」

「ああ、本当にない」


 胸の中の不安を見透かされたのかもしれない。

 雅紀はあわてて取りつくろったが、その作り笑顔も伊織には通じなかった。


「なあ雅紀。お前ひょっとして……」


 伊織が何か言いかけた時、雅紀のポケットでスマートフォンが振動した。


「ん、どうした? 彼女からか?」

「違うよ。そんなんいないし」


 答えながら、雅紀はスマートフォンを取り出した。

 チャットアプリが新たなメッセージを受信したという通知だった。


「ん?」


 通知されたアカウントに覚えはない。

 雅紀が首を捻っていると、勝手に画面がチャットに切り替わった。


『みつけた もうにがさない』


 受信したメッセージはただそれだけ。


「どうした? お色気サイトの広告か?」

「いや、そういうわけじゃなさそうだけど、なんだか不気味だな……」


 再びスマートフォンが振動して、同じアカウントから新たな通知が届く。


『こんや むかえに いく』


 あまりにも不気味な予告だった。

 それからすぐ伊織と別れ、一時間かけて家に帰ると、ちょうど喪服姿の両親が出ていくところだった。


「おかえり」

「兄貴から聞いたけど、祖父ちゃんが死んだんだって?」

「ああ、まあな。伊織くんから聞いたなら知ってると思うが、お前は連れていけないんだ。悪いが、明日には帰るから留守番頼んだぞ。戸締まり忘れんなよ。夜更かしすんな」

「おい、いくらなんでも……」

「わがまま言うな。古くからのしきたりだ」


 父親は短く答えると、車のドアに手をかけた。


「そうだ、飯は適当に済ましてくれ」


 雅紀はそれには答えず、黙って家に入った。

 二階の自室でかばんを降ろし、制服から部屋着に着替える。


「はあ――」


 思わずため息が出る。

 祖父の訃報ふほう

 八尺様の出現。

 小豆との出会い。

 杉集落で未だに続く風習。

 雅紀は、自分を取り巻く世界が昨日今日でガラリと変わってしまったような気がした。

 本棚から適当な漫画本を引き抜き、ベッドにごろりと横たわる。

 いつも通りの事をして気を紛らわせたかったが、機械的にページをめくるばかりで、内容はまるで入ってこない。


「なんだかな……」


 誰にともなくぼそり、とつぶやく。

 急激な変化に戸惑う気持ちと、それから自分の力ではどうしようもない無力感。

 そして、あの女の忌まわしい姿。

 八尺様という、あの忌むべき悪神は一体どうして、三年も経った今になって雅紀の前に現れたのだろう。

 答えのない思考が幾度も脳内を巡り、雅紀をからめ取る。


 そんな、無為むいで不毛な時間が流れ、気付けば七時近くになっていた。

 普段なら夕食の時間だ。それに思い当たったとたん、雅紀の腹が小さな音を立てた。

 こんな時でも腹は減る。現金なものだ。

 雅紀は漫画本を閉じ、ベッドから起きあがった。


「そろそろ、飯にするか……」


 買い置きのカップ焼きそばでも作ろうと階下に降りた時、玄関のドアががちゃり、と音を立てた。

 雅紀は一瞬、両親が忘れ物でもして帰ってきたのかと思ったが、すぐに違うと気付いた。

 両親が帰ってきたなら車の音がするはずだが、そんな音はしなかった。


 だとすれば一体誰が……いや、何が来たのだ?


 階段の途中に立ち止まったまま、雅紀は玄関の様子をうかがっていた。

 だが、五分経っても、十分経っても、それ以上のことは起こらなかった。


 耳の痛くなるような静寂が満ちている。

 雅紀は、ゆっくりと残りの段を降りた。

 階段を降りるとすぐに玄関だ。

 ドアの向こうからは、何の音もしない。

 だが、雅紀はそこに何者かがいることを本能的に察知していた。

 見てはいけない、何者かが。

 緊迫きんぱくした空間。

 下手に動けば張りつめた何かが切れてしまいそうな、そんな危うさの中で。


 不意に、右手に握っていたスマートフォンが震えた。


 着信音に設定していた『鋼鉄騎兵アイアンサイズ』の主題歌が静かだった玄関に響く。

 いつもは心を奮い立たせる熱い歌詞も、今はひたすらに空々しいだけだ。

 雅紀はおそるおそるスマートフォンの画面を見る。

 非通知だった。

 非通知の相手からの、突然の電話。

 とても出る気になれなかった。

 着信音はいつまでも続く。

 いつまでも、いつまでも。


 と、玄関のドアが再びがちゃり、と音を立てた。

 誰かが外からドアを開けようとしている。

 だが、幸いにもドアは帰ってきた時に鍵をかけてある。

 いくら開けようとしても、外からでは開けられないはずだ。

 だが、そうだとしても、次にどうすればいいか、雅紀にはまったく思いつかない。


 鳴り続けるスマートフォンを手にしたまま、その場に立ち尽くしていた。

 その間も、何者かはドアをがちゃがちゃと動かし続けている。

 スマートフォンもアップテンポで熱血な主題歌を流し続けている。

 いつまで経っても終わらない、抜き差しならぬ状況。

 その居心地の悪い時間が一体どれほど続いたろうか。

 スマートフォンの着信音が止まった。

 鳴り出したときと同じように。唐突に。

 それと同時にドアを開けようとする音も消えた。


 ――助かった。


 雅紀は大きく息をついた。


 なんとなくドアに目をやった雅紀の目の前で、ドアの鍵がひとりでに動いた。


 かちん。


 硬く小さい音とともに、ドアが解錠される。


「えっ……?」


 思わず、声が漏れた。

 そして、ドアがゆっくりと動き出した。

 ぎぎぃ……ときしみながら開いていく。


 ドアの向こうには、漆黒の闇が広がっていた。


 そこにあるはずの庭や、向かいの家はまったく見えない。

 それどころか、街灯の明かりすらないのは、やはりおかしい。

 おかしいのは分かっているのに、体が動かなかった。

 雅紀はその場に立ち尽くしたまま、ドアがゆっくりと開いていくのを見ていた。

 やがて、ドアは完全に開ききる。


 ドアの向こうの闇の中、白い人影が立っていた。


 白い着物を着た、おそらくは女。

 人影は玄関の前で立ち止まったまま、じっ、と雅紀の方を見ている。

 ややうつむいているせいで長い黒髪が体の前に垂れ、顔を覆い隠している。

 それでも、視線を向けられているのがわかる。

 女はすーっと滑るようにして玄関に近づいてくる。


 ――アレを家に入れてはいけない。


 急にそんな考えが雅紀の脳裏を走った。

 雅紀は勇気を奮い立たせ、ドアに向けて足を動かした。

 体が恐怖で麻痺まひしているのか、泥沼の上にいるかのように足が重い。

 それでも、雅紀は懸命に足を動かし、玄関を進んでいった。

 女も少しずつ、家に近づいてくる。

 一歩進むたびに足が泥に沈むような感覚を覚える雅紀と違い、女は滑るように動いている。

 それでも、雅紀の方がなんとか先にドアまでたどり着いた。

 最後の力を振り絞り、外開きのドアを全身で引っ張る。

 やがて、重々しい音とともにドアが閉じられた。


 かりかりかり。


 一瞬の間をおいて、外から何かをひっかくような音が聞こえてきた。

 それは、三年前に祖父の家で聞いたのと同じような音。

 おそらくは、女がドアをひっかいているのだろう。

 雅紀は心臓が止まりそうな思いをしながらドアにしがみついていた。

 今にもドアを開けて女が入ってくるかもしれない。

 それを少しでも引き延ばそうという抵抗のつもりで。


 かりかりかり。


 しかし、意外にも女はドアをひっかくばかりで開けようとはしなかった。

 それの音も、しばらくするうちに聞こえなくなった。


「え……?」


 雅紀はそっと外の様子を伺った。

 人の気配はしない。

 未だに微妙な緊張感の残る中、背後のドアを振り返る。

 ドアは、沈黙し続けている。

 そして、結局その晩はそれきり異様な現象は起こらなかった。

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