探偵は湯を沸かす

カレーライス

 三月二十八日 日曜日 十三時五分――


 オフィス街の人気のない路地裏。看板もなにもない喫茶メアリには、数えるほどの常連客がいる。純粋にお茶を飲みに来る老婆、おやつをねだりに来る女子高生、そして友人に会いに来る刑事とその部下である。


 昼過ぎの喫茶メアリ。カランコロン、と小気味のいい音とともに磨りガラスのドアが開く。グレーのスーツに幾何学模様のネクタイを締めたいかつい男に続いて、ネイビーのスーツにストライプのネクタイを締めた優男風の若い男が入ってくる。


「いらっしゃい」


 カウンターにいた店主の安賀多は、客の姿を見てから、水の入った鍋に火を掛けて、目の前のカウンター席にメニューとおしぼり、そして氷水を置いた。カウンターのハイチェア二席、そこが彼らの定位置なのであった。いかつい男は、窮屈そうにハイチェアに座ってからメニューを見ることなく注文する。

「サンドイッチとコーヒー」

「はいよ、牧瀬まきせ君は?」

 牧瀬と呼ばれた若い方の男は立ったまま、メニューを開いてから顔をしかめる。

「またカレーでいいかな?」

 安賀多の言葉に、牧瀬は、うーんと唸る。

「いえ、先日もカレーだったんで……今日こそは……うーん、でもなあ」

「牧瀬。いい加減にしろ。そんなこと言って、お前は前回も前々回もカレーだっただろうが。どうせ、カレーなんだ。さっさと注文しろ」

「そんな、大田原おおたわら先輩。僕だって違うものが食べたい時がありますよ。パワハラは止めてください」

「あーあー。生意気な部下だぜ。なにかと言っちゃあすぐパワハラだなんだ」

 大田原は、大仰にため息を吐いてからスーツのポケットをまさぐった。その様子を見て、間髪入れずに安賀多は注意する。

「禁煙だぞ」

「おっと、そうだった」

千代ちよちゃんにそろそろ怒られるだろ?」

「女房に怒られたくらいで止められるんなら、止めてるよ」

「そんなこと言ってこわいくせに」


 軽口をたたき合う男たちを尻目に、牧瀬はずっと唸り続けていて、大田原は辟易とした様子で「おいおい」と言いながら、スーツのジャケットを脱いだ。

「優柔不断過ぎるだろ。男ならパッと決めろ、パッと」

「まあまあ、大田原も千代ちゃんと結婚決めるまでだいぶ時間が掛かっただろ」

「えっ、なんですか、それ」

 牧瀬は、メニューからパッと顔を上げて、安賀多を見た。その頭に大田原がメニューでポンと軽く叩く。

「お前は、いいから、早く決めろ」

「わっ。暴力。パワハラ止めてください」

 大田原は牧瀬の言葉に眉をひそめる。

「世も末だぜ。大体、お前も余計なこと言うなよ」

 大田原の非難めいた言葉に、安賀多は笑った。

「まあまあ」

「お前がだったら、牧瀬みたいな若いのはお前に任せるんだがな」

「なに言ってるんだよ。立派にやってるじゃないか」

「お前の言う通り、俺も優柔不断なんだ。いつだって決断が一番早いのはお前だったよ」

「そうかな」

「刑事辞める時も、この店継いだ時も……」

 大田原が過去を懐かしむような口調で続ける。

「しかし、変わらず人気のない店だよな」

「余計なお世話だよ」

「正直なところ、やっていけてるのか?」

「なんとかね。心配するなら、もっと高いのを注文してくれていいんだぞ」

「おいおい、俺のふところ事情はお前もよく知ってるだろ」


 そうだな、と安賀多は笑いながら、食パンを袋から出した。


「器用なもんだ。すっかり板についちまって」

「そうだな」


 安賀多は相槌を打ちながら、冷蔵庫からハムとチーズ、バターを取り出す。


「すっかり慣れたもんだと、自分でも思うよ」

「……ああ」

 大田原は曖昧な笑顔で、ワイシャツのポケットに手を伸ばした。安賀多は、バターを塗りながら、注意した。

「禁煙だぞ」

「世知辛い世の中だ……」


 安賀多は、沸騰してきた鍋に銀色のレトルトパウチをゆっくりと放り込んでから、バターを塗った食パンに具材を挟み、まな板の上に載せて丁寧にパンの耳を切り落とした。白いお皿を棚から二枚出して、一枚にサンドイッチを盛り付けていく。


「はい、お待ちどおさま」

「いただきます」


 大田原は目の前に置かれたサンドイッチを豪快に口に放り込む。安賀多は、冷蔵庫からタッパーを取り出して電子レンジにセットし、温めを開始した。


「そういえば、最近空き巣が増えてるらしいから、気をつけろよ」

 まな板や包丁などを片付けている安賀多に、大田原が言う。安賀多は店内を見渡してみる。

「この店にはアンティークはあるけど、高価なものはないだろ」

「そうなのか? カウンターのそういうカップとか高いんじゃないのか」

「んー……どうなんだろうな」

「きっと高いな。俺にも分からんけど」


 安賀多は口ひげを指で擦りながら、うーん、とカウンターに並ぶ食器類を眺めた。前で同じように「うーん」と唸っていた牧瀬がメニューから顔を上げて元気よく注文した。


「カレーライスでお願いします!」


 その時電子レンジが、チーンと鳴った。安賀多は口角を上げる。


「ちょうど、ライスが温まったようだよ」

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