翠玉の瞳は見る

鳥かご

 三月二十七日 土曜日 十五時ちょうど――


 ボーンボーンボーン。


 喫茶メアリの壁に掛けられたアンティークのゼンマイ式の時計が、古ぼけた音とともに、一時間近く経ったことを店主に知らせた。


 折原玲子が本題に入ると言ってから、家事代行サービスの話から、飯島家の話、猫のアポロの失踪の話までだいぶ時間が掛かった。玲子の話が終わったことを確認してから、店主は手でポンと膝を叩いた。


「つまり、折原さんがこちらに来た理由は」

「猫のアポロを探してほしいんです」


 玲子の言葉に安賀多は合点がいったとばかりに微笑んだ。そして、古ぼけた椅子――だがよく手入れされている――にもたれかかった。しばしの沈黙が流れる。安賀多は腕を組んだまま、天井を眺めている。黒い木枠で組まれた天井から吊り下げられたステンドグラス風のシェードのペンダントライトが昭和の空気を醸し出しながら、ぼんやりと下にいる玲子と安賀多を照らしている。薄暗い明かりに照らされた安賀多の顔は、彫の深さがより一層強調される。玲子は小さく息を吐く。男の顔に思わず、ため息を吐いたようでも、なかなか話を進めない探偵に嘆息を漏らしたようでもあった。


「あの――」


 カランコロン。


 しびれを切らし風の玲子が口を開いたと同時に、喫茶店内に軽やかな鈴の音が響く。扉は開いたが、誰かが入ったような様子はなかった。不思議そうに玲子は扉の方を注視して言った。


「風、でしょうか」

「いいえ」

 玲子の目が見開かれる。それもそのはず。返って来ると思っていた男性の落ち着いた声ではなく、自分よりも若々しく、それでいて自信に満ち溢れた少女の声が扉とは反対方向から聞こえたからだ。というよりも、玲子の真横からだった。


「おやつの時間だよ、九ちゃん」


 いつの間にか、玲子の右隣に立っていた少女は、誰に断るでもなく横にある革張りのこげ茶のソファに腰掛けた。九ちゃん――安賀多は、「失礼」と一言玲子に断ってから、重そうに腰を上げてカウンターの向こうへ消えて行った。


 玲子は笑顔を作って少女に話しかける。

「こんにちは」

「どうも」

 少女は顔面いっぱいの笑みでそれに答えた。


 少女は、制服を着ていた。ショートに近い、白いシャツに深い緑と淡い緑のチェックのスカート、春先らしくクリーム色のカーディガンをゆったりめに着ている。左胸のあたりに、校章であろうワッペンがついている。学校帰りであろうか、少し重そうな学生鞄を自分の横に置いて、少女は姿勢正しくソファに座っている。


 背筋を伸ばして両手でスマートフォンをいじりながら、少女の髪が顔に落ちる。ノーメイクのみずみずしい肌に髪の毛が触れたのが気になったのか、少女はスマートフォンを膝の上に置いてから左手首につけていたシュシュで軽く自分の髪をまとめた。ポニーテール姿の少女は、再び無表情でスマートフォンを触っている。


「素敵なネイルですねー」


 スマートフォンから目を離さずに、誰に向けたかよく分からない真琴の言葉に、玲子は戸惑ったように微笑んだ。真琴は、何も塗られていない自分の手の爪を顔の前に持ってきた。


「ジェルネイルですか?」

「ええ」

「いいなー。校則がなければなー」


 玲子は、軽い口調で言う真琴の言葉を拾おうと、口を開こうとして止めた。安賀多がのようなものを持って帰ってきたのだ。


「お待たせ」

 安賀多は、少女の前のテーブルに鳥かごのような――ケーキスタンドを置いた。三段のケーキプレートが配置されており、それぞれにバラエティ豊かなスイーツが飾られている。少女はすでにスマートフォンをしまっており、輝く笑顔で鳥かごを見ている。


「九ちゃん、説明。説明」

 少女が幼い子どものように安賀多にねだる。安賀多は口元に小さな笑みを作ったまま、丁寧に下から順番にケーキの名前を口にしていった。

「三段目から――いちごとマスカルポーネのマフィン、キャラメルとナッツのマフィン。二段目は、ピスタチオのチーズケーキ、抹茶と大納言のガトーバスク。最上段が、練乳クリームと三種のベリーのビクトリアケーキ、とカスタードプリンだ」

「うんうん。あれ? ファーブルトンは?」

 少女は、興奮気味に安賀多の言葉に耳を傾けていたが、とうとう出てこなかった『本日のスイーツ』の名を口にした。

「あれは酒が入ってるから、だーめ」

 語尾を伸ばしながら、安賀多は少女の頭にポンと大きな手を乗せる。

「ちぇー」

 少女は口を尖らせながら、安賀多が持ってきた取り分け用の皿とシルバーのフォークとスプーンを受け取った。


「一人で……食べるんですか?」

 少女が満面の笑みでマフィンを皿に置いていると、玲子はおそるおそる声を掛けた。女性からしてみれば、それは全体で恐ろしいカロリーであり、悪魔の所業である。

 少女は玲子の問いに答えずに、嬉しそうにマフィンを口に運びながら笑った。

「んふふー」


 納得したのか、玲子は黙って少女の様子を見ていた。


「お待たせしてすみません」

「いえ……」

 正面の椅子に安賀多が戻ってきたが、玲子の興味はすっかりアポロよりも横に座ってケーキを食べ続けている少女に移ってしまったように、そちらばかりを見ている。


「ごほん」

 安賀多は軽く咳払いをした後、玲子を見つめた。


「あなたのご依頼、安賀多探偵事務所がお受けいたします」

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