《17/あの子にネクタイを巻く瞬間》

 彼女は静かに、おれに正対した。

「ネクタイですか。吐き気がします」

 種市は呟いた。

 胸糞悪い、というよりも、本当に嘔吐しかねないほど呼吸は荒くなっていた。

「今朝の田原唯さんの姿を、私はたまらなく嫌悪していました。彼氏のネクタイをする。そのことで、自分が価値のある人間だと誇示をする。下らない」

 種市がこんなにも動揺しているのを見るのは初めてだ。

 たかが、恋人ごっこでネクタイを巻くだけ。

 そんなごっこ遊びのじゃれあいが、彼女にとっては、もっとも恥となる行為になる。

「……けれど、いいアイデアでもあります。やはり恋人なのですね、お二人は。こんなにも、相手が嫌がることをピンポイントで思いつくなんて」

 それを復讐のためならやる。

 彼女は、復讐のために狂い、自分の禁忌を犯す。ネクタイは隷属の証しだ。男のネクタイを巻き、支配された自分に酔う。

 種市にとっては、最大の「堕落」。

「巻いてもらっていいですか? どうやっていいのかわからないので」

 種市はネクタイのつけ方を知らない。

 それを覚えるところから、もう関係は始まっているのだろう。

 初号機の暴走だって、活動限界。

「堕落」をするもしないも関係のない、それ以上の高みにいたはずの彼女が、初めて「堕落」を意識したのだ。

 手の届かない憧れの女の子が、堕ちてくる。

 限りない戸惑いと、哀しみ。

 なのに、奥歯から甘酸っぱい汁が出ているような悦びに見舞われる。

 疼いて止まらない。

「……どうぞ」

 おれは種市のシャツの襟を立て、背伸びをし、首の後ろにネクタイの先を回す。

 それだけで、呼吸が荒くなるのを抑える。

 額に、種市の温かい息を感じた。

 前に2本さがったネクタイの長さを整え、先が太い方を細い方の根っこに2回、絡める。

 種市が小さく顔を歪めた。

 彼女にとってもまた、たまらない汚辱行為なのだ。

 おれが好きな最低な女の子。

 いつもおれの頭を掻き乱し、支配していた女の子。

 それを手なづける。

 キスやセックスなんかじゃ味わえない。

 これ以上の高鳴りが、どこにあるっていうんだろう?

「早くしてください」

 できた輪っかに、ネクタイの先を通し――。

 結びあげ、小さく絞ったノットを作った。

 種市がおれのネクタイをしている。

 クラスであれだけ唯を嘲笑っていた種市が、いちばん屈辱的であろうシチュエーションにさらされている。

 ……種市以上に、この姿を見たくなかったのはおれのはずだ。

 種市。

 常識にも、おれが求めた「堕落」にさえも唾を吐きかける、おれの憧れ。

 結び目をきつくしてしまったせいか、種市は苦しそうに「んっ」と息を漏らす。携帯のカメラで自らのネクタイ姿を確認した。

「醜い。グロ画像です」

「……唯が聞いたら、泣くだろうな」

 種市にとって、唯の日常自体がグロテスクだということだ。

 種市がネクタイをした姿を見ただけでも唯にはこたえるだろうが、グロとまで言われたら立ち直れないだろう。

「泣きたいのはこっちですよ」

 種市の手は震えていた。

 シャッターを切る前に、そのままぽとりと携帯を落とす。

 液晶にひびが入った。

 彼女は拾おうともせず、一言、どうにか呟いた。

「堕落とは険しいものなのですね」

 種市は一瞬、笑った。

 くしゃっとしたかわいらしい、おれの隣に立っていてもおかしくないような、普通の女の子――36℃の体温を持った笑顔だった。

 種市は居ても立っても居られないという様子で口元を抑え、駆けていく。

 ネクタイをほどこうと不器用に引っ張るも、より締まっていくだけだった。

 錯乱しているようだ。

「いや、死ぬぞ」

 おれは追いかけた。

 買取の番号札の数字を何度も呼ぶ声が店内に響く。店員は苛立ちをおしこめているのだろう。

 そんな小さな悪意にさえ、日頃なら愛想笑いを浮かべてしまうだろうけど、おれは無視した。

 今だけは無視できる。

 種市を追いかけ、カウンターの横を駆け抜けた。

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