第10話 追憶 二

 世間一般では、男女が一つ屋根の下にいながら何も無しに終わる方がむしろ嘆くべきことなのだろう。だけど母の洗脳じみた教育はわたしを世間から遠ざけていた。結婚するまでは貞操を守り通さなくてはならない、婚前に男を知っている女なんて恥ずべき存在だ、という意識が精神の根本に染みついていた。

 拒否するわたしを部長は無理矢理押さえつけた。少しお酒が入っていたせいもあるだろうが、それがあの人の本性なのかもしれない。ネクタイを口に詰め込まれ、拒んだら会社の居心地が悪くなるぞと脅されたとき、自分の愚かさに涙が流れた。体を蹂躙されることよりもそのことが悲しくて悔しかった。

 そのとき部長の背中に素早く飛びかかる黒猫の影があった。あまりに俊敏で、わたしの眼では残像しか捉えることができなかった。気がつけばムスタが部長の腕を引っかき回し、血が流れていた。あの様子では背中にも傷を負ったんじゃないかと思う。彼は悪態をつきながら部屋を出て行った。

 あの一瞬の黒い影……ほんの刹那の光景だけど、わたしの眼には、亡き飼い猫ノワールに見えた。だけどそれはもちろん違う。わたしを救ってくれたのはムスタだった。

 半裸のまま呆然とするわたしの頭の中に、もやもやしたものがぐるぐると渦巻いていた。悲しいのか、こわいのか……いろんな感情がいっしょくたになって分厚い雨雲のようになり、あふれる涙を止めることができなかった。足の下で体をすり寄せてくれる黒猫を撫でながら、到底正気ではいられなかった。感情にまかせて何かひどいことを言っていないだろうか。混乱と絶望のせいであの時の記憶が曖昧だった。

 その晩は猫に慰められたおかげでなんとか精神を休めることができたけど、翌日からはさらなる地獄が待っていた。

 部長は会社の上層部たちに顔が利き、信用も厚かった。その立場を利用して、わたしを強制的に配置換えさせたのだ。わたしは会社の所持する倉庫の番人に追いやられた。それは自主退職待ったなしの流刑扱いだった。当然待遇も激変した。このままでは今いるマンションに住めなくなる……せっかく築いた猫の楽園がなくなってしまう。

 退職し、失業保険をもらいながら転職活動することにした。だけどそううまくはいかなかった。中途半端な年齢に加え、中途半端な専門知識しか持ち合わせておらず、武器になるようなスキルも資格もないからだ。

 猫を食べさせるために早く次を見つけなければならない。猫を飼うのはお金がかかる。もしまた急病を患ったとき、病院に連れて行けなかったら――その焦りはわたしの神経を蝕み、気がつけば朝陽を浴びるのが耐えがたい苦痛になっていた。ベッドから起き上がれない。ソファに座ってみるものの横にならなければ吐き気に襲われる。スマホで検索すると自律神経がどうの、ストレスがどうのとわけのわからないことがたくさん出てきて、お手上げだった。

 比較的体調の良い日があると無理矢理外へ出て面接に赴いた。そんな日々の中でも母からの電話は容赦なくわたしの元へ飛び込んでくる。

「いつになったら相手がみつかるの? あなた、三十にもなったらもう無理よ。わかってる?」

「妹に先を越されて悔しくないの? あの子はもう子どもまでいるっていうのに……」

 母の声を聞くだけで胃の中の物が逆流した。

 閉ざされた部屋の中に、カーテンをすり抜けて朝陽がぼんやり差してくる。嫌がるわたしの頬を叩き、早く動けと追い立てる。何もかもが怖かった。怖がらずいられるものは、もはや猫しかなかった。

 そう、猫。かつてペットショップで一目惚れした黒い猫……いや、その子はもういない。わたしが殺してしまった。今ここにいるのはムスタだ。

 貝が真珠を作って痛みを誤魔化すように、わたしの苦しみがノワールの幻影を生み出した。たびたびふたりを混同してしまっていた。ムスタと呼んだつもりがノワールになり、ボールを追いかけるムスタの姿にノワールのかたちが重なった。

 わたしはムスタにとって本当にひどい飼い主だった。もういない先住猫の身代わりにされて、きっとわたしを恨んでいるに違いない。

 だけど、それももう、おしまいだ。


 ひやりと冷たいノワールの皿。白くてまるくて、外側に魚の絵が焼き付けられている。それを抱いてソファに座り目を閉じる。

 このまま炎がわたしの体を命ごと消滅させてくれることを望んでいる。あの子を殺した償いには足りないけれど、それ以前に、もうこれ以上生きていける気がしなかった。家でも外でもわたしは出来損ないなのだ。それならもう、命を捨てて無になりたかった。

 ――あいつの面倒、誰がみるの?

 ふいにわたしは目を開けた。焦げ臭いにおいが充満した部屋は、薄らと白くぼやけていた。煙が流れ込んできているのだ。ソファから少し離れたキャットタワーの向こうに一瞬、黒い影がゆらめいたのが見えた。

 何かがいる。幻覚だろうか。煙を吸っているのか頭がくらくらしていた。

 ――ご主人が死んだら、あいつは一生悲しむだろうな。

 声が物理的に聞こえたわけじゃない。ただ、わかるのだ。そう言われたのが。

「だれ?」

 出した声はひどく掠れていた。だれ、と問いながら、わたしの中では確信めいたものがあった。いや、ただの願望かもしれない。そうなったらいいなと、何度も何度も妄想してきたのだから。

 ――ご主人、あいつが外で待ってるよ。行ってあげてよ。

「うそ。あの子はもういないの。いちゃだめなの。わたしは最低だった……」

 もうこれ以上、あの子を身代わりにしてはいけない。あの子を解放しなければならないのだ。

 ――あいつ、ご主人のこと、すごく好きだよ。

「どうしてわかるの」

 ――ここでずっと見ていたから。

 部屋中にゴオッとくぐもった音が響き、窓が揺れた。煙が濃くなっている。キャットタワーは輪郭だけが朧気に見える程度に霞んでいた。

 ――いけない、ご主人、早く逃げて。

 鼻から吸った煙がわたしの中に入り込み、全身に到達して麻痺させているようだった。動きたくても動けない。ソファから立ち上がることもできない。

「無理よ。もうわたし、死にたいの。そう決めたの。生きていたって人の迷惑になるだけで、何の役にも立たないから」

 黒い影は黙り込んだ。死にたいという人間の言葉に安易な言葉は返せない。しばらく惑うようなそぶりを見せたが、影はやがて、たった一言、口にした。

 ――猫にとっては、天使みたいな人だけどな。

 あなたがいなくちゃだめだとか、生きているだけで価値があるとか、そんな直接的な言葉よりも、それはわたしの中に深々と突き刺さった。

 視界一面が灰色に覆われていて、黒い塵が舞っていた。部屋中が蒸し風呂のように熱い。わたしは夢中で手を伸ばしていた。頭がくらくらしていてひとりで立つことなど不可能だった。

 濃い煙の向こうで、誰かがわたしの手を引いた。ぐいと力強くわたしを導きながら、掴むその手は優しかった。

 ぱちん、と錠が下りる。からから、窓が開かれて、右足が冷たく硬い地面を踏んだ。

 再び、ゴオッと風鳴りがして、熱い炎の塊が頭上から飛び出した。飛び出した火に巻かれたものが頭上から落下しては、目の前の花壇に落ちていく。

 ――急いで。

 花壇が火の海と化す前に、わたしはベランダの柵にしがみついて乗り越えようとした。ついさっきまで死ぬ気でいたのに、いつの間にか必死に生きようとしている。

 柵を越え、着地したわたしの背が、とん、と優しく前に押し出された。

 ――あいつのこと、頼んだよ。

 地面に降り立ったわたしを誰かが呼んでいる。視界の向こうで、マンションの掃除人の格好をした中年女性が両手に黒い毛玉のようなものを抱えて立っていた。

 黒い毛玉はじたばたと動いてその腕の中から抜け出した。目にも留まらぬ勢いで駆けてくる。わたしも走っていた。走っていたけれど、突如ひどい眩暈がして、わたしの体は地面に倒れ込んだ。

 わたしは未だノワールの皿を抱いたままだった。倒れたわたしのまわりを黒猫がぐるぐると回りながら鳴いている。これは間違いなく、ムスタだった。安堵した途端、わたしは意識を失った。

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