第7話 ぽそぽそごはんと細いゆびさき

「行ってくるから、良い子で待っていてね」

 ご主人はお皿にざらざらとご飯を盛って立ち上がりました。辺りに漂う甘ったるいにおい。黒くて硬い、「お仕事」の服。扉をくぐるその背中には力がなく、あれからまだ傷は癒えていないのだと思わされます。

 お部屋の時計が音を立てると、お昼ご飯の合図です。食べたくて必死に我慢していたご飯にありつけます。隣にお兄さんもやってきましたが僕は一度もそっちを見ませんでした。ご主人の帰宅したときは仲良く並んで出迎えますが、お留守番の間は近寄りません。

 別に嫌いになったわけではないのです。ただあれからどうにも気まずくて、情けなくて、そんな僕を見られるのが嫌だったのです。お兄さんは相変わらず大人というか、澄ました態度を一つも変えることなく過ごしているので余計に近づきがたく感じてしまいます。

 そんなお兄さんですが、一つだけ変わったことがあります。

「ただいま」

 ご主人が遅くに帰宅すると必ず飛びついて、鼻をひくつかせながらしつこく何度もにおいを嗅ぐようになりました。上品で穏やかなお兄さんからは考えられないような行動ですが、僕には気持ちがわかるような気がします。あの煙たいにおいがないか、僕も気になるから。

 ご主人はというと、あの日以降、打って変わったように明るい笑顔を見せてくれるようになりました。僕のおかしな格好におおげさなほど笑い、平べったいものをパシャパシャ光らせ、何かを食べるときは「おいしいなあ」と聞こえるような声で言うのです。元気なのは良いことだけど、朝の力ない背中を見ているので少し不安になります。

 無理をして笑ってるんじゃないかな……

 いつもならお兄さんにそう相談するところだけど、今は距離を置いているのでぐっと胸に秘めるしかありませんでした。

 一日の終わり、ご主人はソファで膝を抱えて、平べったいものを耳につけました。

「あ、ヨーコ? 元気?」

 久しぶりのヨーコです。ヨーコも話したいことがあったのか、ご主人は長い間耳を傾けしきりに頷いています。

「そっか、それは大変だね。新婚生活も色々あるんだね……」

「うんうん、そうだね、ヨーコはよくやってると思うよ。ちゃんと奥さん、できてるよ」

「そうだね、今度カフェでも行って、じっくり話したいよね」

 ひとしきり相槌を打ち終わったとき、ご主人は「え?」と戸惑い気味に目を瞬きました。

「……ううん。わたしは別に。いいんだ。なんでもないの、声を聞けたらなって……」

 何度も何度も否定して、ご主人は平べったいものを耳から離しました。光を失ったそれがソファに放られます。ご主人は膝を抱えたままぼうっと天井を見上げました。

 本当になんでもなかったの?

 何か、話したいことがあったんじゃないの……?

 ご主人と過ごした時間はそれほど長くもないけれど、もういい加減短くもありません。ヨーコとの会話を終えたご主人の背にもやもやした影がうずまいているのが僕にはわかるのです。

 それからとある休日の朝早く、ご主人の平べったいものが盛大な音を立てました。

 ヨーコの時とは音が違います。ご主人はまだベッドの中で僕と一緒に眠っていましたがすぐさま跳ね起き、慌ててベッド脇からそれを取り上げました。

「はい、なに、こんな早くに……」

 その妙にこわばった声から、なんとなくヨーコとは違う人だという気がしました。口調からしてカタセでもなさそうです。

 ご主人はしばらく黙ってきいていましたが、突如髪を乱暴に掻き上げ、「もう、わかってるよ! 言われなくたって!」と声を張り上げました。

「あのね、こっちは毎日真剣に働いてるの。結婚相手なんかそうそう探してられないから。そんなことでこんな時間にかけてこないでよ!」

 平べったいものがベッドに叩きつけられるように落下し、ご主人は肩で荒い息をしていました。僕もこのときばかりはお兄さんと一緒になってベッドの隅で硬直していました。

 大きくて重々しいため息が響き、ご主人はのろのろと別室の扉へ行ってしまいました。いつも顔を洗っている部屋です。

「……今の、だれだろう」

 やっとの思いでそう問いましたが、お兄さんは金色の眼をご主人の消えた方向へじっと向けているばかりでした。

 このまま何事もなければ、ご主人の心も少しは癒えたかもしれません。だけど、残念ながらそううまくは行かなかったのです。

 それから毎日、ご主人は時間を変えて同じような会話を繰り返す羽目になりました。平べったいものからあの音が流れるたびに「ああ、もう!」と叫び、無理矢理音を消したけれど無視もできず、話したら話したで凄まじく機嫌を損ねてしまうのです。

「もう、わかりました! どうせわたしは出来損ないです、親不孝者です! もうかけてこないで!」

 平べったいものをソファに放って、ご主人は膝を抱えて顔をうずめてしまいます。

「うるさい……うるさい……」

「精いっぱいやってるの……ただ、いつもうまくいかないだけなのに……あの人も……あの人も……」

 僕は今お兄さんと距離を置いている最中ですが、ご主人が憔悴しきっているときはどちらともなく両側から傍に寄り添って、ご主人の身体にぴたりと額や頬を押しつけていました。

 こんなことしかできなくて、ごめんね。

 はやく元気になってほしいよ。

 僕の願いとは裏腹に、ご主人を取り巻く環境はどんどん変化していきました。

 毎朝規則正しく起きていたご主人の起床はまばらになり、休日が増えていきました。「お仕事」の用意をして出かけても、お昼すぎに帰宅したりします。

 一体どうしたのか、僕たち猫にはさっぱりわかりません。帰宅するたびにご主人の顔色は悪く、どんよりと曇っていました。

「ご飯よ」

 ご主人の呼び声にタワーから飛び降りると、いつもの皿に開けられたのは見慣れた色の袋ではありませんでした。形もにおいも全然違います。

「ごめんね、いつものやつを買い続けるの、ちょっと厳しくなっちゃって」

 僕が思わず顔をしかめたのがわかったのか、ご主人はしゅんとしょげたように言いました。

「安物だから、おいしくないかな……ごめんね……」

 そんなことないよ!

 慣れてないだけだよ!

 僕はいつものようにがっついて、ご飯の中に顔を突っ込んで見せました。ご主人は弱々しく微笑んで、頭を撫でてくれました。

 僕とご主人の世界は、まだきちんと保たれている。温かくて優しい世界がちゃんとある。

 お兄さんはご飯が変わっても特になんとも思わないのか、すました顔でぺろぺろと舐めていました。相変わらず、なんて少食な猫なんだろう。

 夜になり、僕はベッドの周囲をうろつきながら待ちます。水浴びを済ませたご主人が僕を抱き上げて、優しくベッドに載せてくれるのを。 

 僕はもう、ご主人と一緒でなければ眠れなくなっていました。決して寂しいとかそういうわけじゃありません。ただ心配だからです。ご主人は眠ってからもよく泣くのです。見ているこちらが悲しくてたまらなくなるくらい、ひっそりと切なげに、声もなく。

 だから常に見守っていないと落ち着かなくなってしまいました。

「おやすみ、ムスタ」

 ご主人の指先が僕の鼻をつんと突いたとき、僕は改めて、その指がいつの間にかとても細くなっていることに気がつきました。元々細かったけれど、これじゃまるで、公園に落ちている枯れた木の枝みたいだ……

 お兄さん、ご主人は、ちゃんとご飯を食べているのかな。

 そう訊ねたかったけれど、声になりませんでした。枕元に丸まったお兄さんの顔を見ると途端につまらないプライドが顔を出すのです。あの日ご主人の膝の下で涙を受け止めていたお兄さんの姿が脳裏に浮かんでしまって、心がちくりと痛むのです。

 そう、僕が幼かったから。

 つまらない意地を張っていたから。

 お兄さんとちゃんと相談していれば。

 この優しい世界が火の海になることなんて、なかったかもしれないのに。

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