北には鬼が巣食う

 神の巫としての意識を乗せているが故に、いつもと違う振る舞いや表情を見せる少女を、鴛花は静かな瞳で見つめていた。

 不意に目が合う。巫の少女はにこりと笑うと、無垢な様子で小首を傾いだ。


「危のうございましたね。お怪我はありませんか、鴛花様?」


 燦然とした華やかな色を持ちながら、どこまでも透明な、小さな女の子。

 今の彼女こそ、神が求める清潔な乙女の象徴なのだろう。

 そう思いながら首肯した鴛花に、小幸は再び笑むと、傍に平伏す三人の夜盗を見下ろした。


「斯様な輩が街を脅かしているとは、悲しきことです。神もお嘆きになりましょう」

「小幸様が憂う必要はございません。早急に征伐を」

「儀も近づいています。この身体を傷付けることの無きよう」

「分かっております」


 巫女の言葉に頷く裏で、鴛花は僅かな翳を顔に滲ませた。

 ――目の前に立つ少女は、小幸であって小幸ではない。

 鴛花の言ったように、今の彼女は謂わば神の写し身だ。

 四百年前に皇国へ降り立った二〇の神々が、己の側女である少女を護るために与えた神格の欠片。

 それが表面化した状態が、今の小幸である。

 だが意識の層が転じているため、普段の彼女は今の自分を知らない。

 知っていれば、戯れに力を使う筈もない。使えばそれだけ、人から遠ざかるという神の力を――――

 しばらく夜空の月を見つめていた小幸は、おもむろに言った。


「鴛花様。一つ宜しいでしょうか」

「何なりと」

この娘わたくしのことです。……近頃、彼女の心に揺らぎが生じています」


 告げられた言葉に、鴛花は静かに口を噤む。


「恐らくは現世への未練から来るもの。余計な念は儀に影響を及ぼします。心に隙があらば、怨霊や邪悪な精霊に憑かれる危険も生まれましょう」

「…………、」

「くれぐれも、要慎を」


 何をも知らぬ清き声音。だがそれは、無自覚のうちに人を従わせる支配者の言だ。

 それを聞き届けた鴛花は、静かに頷いた。

 普段の彼女が神巫としての責務の中で苦悩に見舞われていることは、分かっていた。

 だが鴛花には、どうすることも出来ない。

 彼女はとても気丈な子だ。周囲の人間に弱気な部分を見せまいと平静を装っている。それ自体は子供ながらに強い心根と言えるが、その偽りの毅然は、他者を寄せ付けない壁となって鴛花たちの憂慮を拒んでいる。

 悩みがあれば相談してほしい。

 怖ければ弱音を吐いてほしい。

 鴛花がそう訴えても、常に帰ってくるのは、個人の感情に蓋をした仮面の笑顔だった。そうして小幸は言うのだ。「心配ありません」と。

 恐らく彼女の不安を和らげられるのは、衛生でも鴛花でもないのだろう。

 それを思った女は、垂れていた頭を上げる。

 地面に蹲ったまま動かない夜盗たちは、一先ず街の警邏隊にでも引き渡せば良いだろう。

 それよりも、先ほど小幸が告げた言葉の方が気掛かりだった。


『少なくともあなた、燎一族の者ではありませんね』


 紗布を取られた夜盗を見る。

 衛生と共にいる関係で頻繁に地方の街へ出向くことの多い鴛花であるが、そんな彼女であっても実際に近迦の者を見たことはない。だが姓に燎の一文字を冠する者達は皆、一族の掟としてその身のどこかに特殊な和彫りを刻んでいる事は知識として知っている。その和彫りが彼ら北の民にとっての力の象徴であり、ハワグの民が燎の者達を畏れる要因の一つにもなっている事も。

 ――けれど。

 その境遇が原因で幼い頃より自由を制限され続けてきたが故に、一度として燎の一族を見た事が無い筈の彼女が、何故その事実を知っていたのか。

 降り注ぐ月光を浴びて燦然と佇む一人の少女……否、艶美なる女を、鴛花は再び見上げた。薄い笑みを口許に称える神の側女は、何もかもを見透かすように、彼女たちが生きる人の世を俯瞰しているように思えた。

 それを思えば、本来彼女が知らぬ筈の事実を知り得ていたのもやはり神より与えられし神秘の力ゆえか。そして人外の証を持たぬのであれば、その者は燎の人間ではないという道理も理解出来る。


「ふふ、それだけで彼等の正体が分かった訳ではございませんよ」


 不意に振り向いた小幸が、そう言った。


「ただ奇妙だと思っただけです。北の街、近迦を統治する燎祗様は皇都でも名を馳せるほどの賢君です。そのような御方が、どうして自ら近迦の立場を危うくするような真似を致しましょう。このハワグは列島の全てを帝が治める皇国。ですが先程も申したように、近迦の民は長い歴史の中で常に帝に歯向かい続ける鬼の一族。とても盤石な安寧の上に成り立っているとは言えません」

「……鬼?」

「ご存じありませんか? 都に住む者の噂話です。彼等は近迦の民のことを《北の鬼》と思っているとか。……帝の意向に背くことは、神の加護を捨てるも同然。これ以上自らの治める土地を窮地に晒す真似など、燎祗様ならば為さらない筈でしょう」


 いつだったが、衛生が言っていた事を思い出す。

 神々の奇跡により栄華を遂げたこの神聖皇国に於いて、北方の土地を治める燎の家系は武門の一族とされており、擁する武人たちの力は一族のみで皇都の武力を凌駕すると言われている。

 故に近迦は帝に傅くことのない独立した地位を保っており、そんな訳もあって都に住む者の大半が、近迦の民は争いを好む蛮族であると認識しているのだ。

 だからこその、北の鬼か。

 鴛花が思案に耽っていると、小幸がおもむろに身を翻し、尚も地に平伏す盗賊を見下ろす。


「とは言え、彼等も一応は近迦の民なのでしょう。ごく少数ではありますが、近迦には燎の一族に組み込まれず、傍流となった家系も存在します。そのような者は往々にして、近迦を出て皇都に上るのが常とされていますが……」

「……都の人間が何故このような狼藉を? 帝はこの件をご存知なのでしょうか」

「知っていて放置しているのなら、帝は形ばかりの象徴。彼の者を枢軸に成り立つこの皇国そのものが虚ろとなりましょう。斯様な国に、彼岸世の民は神秘など与えません」


 ふわりと着物の裾を靡かせ振り向いた少女は、薄くも嫣然とした笑みを口許に称えた。


「帝もまた人の子、自らが治める国を全て見渡せるほど全能ではありません。帝とも燎祗様とも違う、何か別種の……それこそ神格の存在が裏で手を引いているのかも知れませんね。……なればそこより先は、わたくしの領分です」

「小幸様」


 少女の発した言に、鴛花は思わず制止の声を漏らした。彼女の声に潜む穏やかな感情の揺らぎを敏感に察知したが故であった。

 けれど神の写し身として在る小幸はまるで耳を貸さず、嫣然と笑んだままだ。陶器の如き白く美しい貌を月へと照らし、煌々と染まる紅の瞳を細め、彼方の存在へと謳うように告げる。


「このハワグは神秘の在処、神が座すためにのみ在る皇国です。どなたかは存じ上げませんが、己が領分を超えてこの地で無礼を働くというのならば、わたくしのもとへ来なさい。自らが犯した不遜を思い知らせてやりましょう」


 古きに於いて。

 神が皇国に力を授けたのは、そこに生きる人々の誠実さを買ったが故だ。

 しかしその信仰を人が失ったと神が判じた時、この国に与えられし加護は消失する。だからこそ現在を生きるハワグの者は、いつであれ彼岸世の民に対して摯実であろうとする。

 その不文律を犯そうとする者がいるのなら、それは間違いなくハワグの民の、そして神の側女として在る小幸の敵だろう。

 己の側に置くために、神が自らの力の破片を授けたとされる神巫。有しているのは神力の欠片と言えど、それは常世にあって余りある代物だ。

 たかだか一国内の争いに、そんなものを振るわれる訳にはいかない。


 ましてや人の身に余る神の力は、使うほどに、小幸の精神を片端から侵食してしまうのだから――


 彼女の手を煩わせるより早く、騒動の根本を絶やさなければと改めて思った鴛花の耳に……ふと、何者かの足音が触れた。

 草履が地面を擦るような音は、子供のそれだと分かる。

 鴛花は咄嗟に立ち上がった。例え子供と言えど、今の状況を見られるのは些か面倒だ。

 せめて小幸だけでもと、無礼と思いつつ少女の華奢な腕を掴んで物陰に隠そうとしたが、それよりも数瞬早く、足音の主が壁の向こうより姿を現した。


 ――その者の顔を見て、鴛花は流石に渋面を作らざるを得なかった。



「あれ、小幸ちゃん? こんなとこでなにしてるの?」



 僅かに色素の薄い髪に小さな体躯を包む質素な洋装。

 丁字路の影よりひょっこり顔を出した靖央は、そうして相変わらずの無邪気な様子で首を傾げた。

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