その縁は温かな

 広間での厳かな食事を終えた小幸は、離れの自室へと戻っていた。

 沐浴の後に身に着けた薄青の着物を脱ぐ。

 わざわざ食事の為だけに上質な装いになると言うのも贅沢な話だろう。

 せめて皺にならないよう綺麗に折り畳み、衣装箪笥の最上段に収める。

 下着を纏っただけの半裸の格好で部屋を横切り、反対側の襖を開けると、そこには滑らかな桐の大箱が置かれていた。

 見た目の割にそれは軽い。中に入っているのは儀礼用の装束であった。


「……たまには、神儒舞かむひとまいの稽古もしなければね」


 蓋を開け、純白と赤を基調に編まれた神聖なる装束を眺める。

 これは小幸が「神への捧げもの」としてこの屋敷にやって来た際に、衛生より渡されたものだ。

 神々を常夜ルゥヴィエへと降臨させるには、捧げものである無垢なる少女が、ある種の神舞を行わなければならない。

 一説によれば、その舞によって神は巫女たる少女が本当に穢れを知らぬ純真な人間であるのかを見定めるのだと言う。

 それが神儒舞であった。

 身に着けていた下着までをも脱ぎ捨て、寝台の上に畳まれていた白い肌襦袢を手に取る。神に清潔であるかを見定められる上で、肌に触れるものは極力減らさねばならないのである。


「……そういえば」


 触り心地の良い生地を撫でながら、小幸は不意に思った。

 "彼"はいつも、月が天上に昇り始めた頃合いにやって来る。今日は何だか来るのが遅いな、と心の片隅で呟いた。

 もしや何か厄介な出来事に巻き込まれでもしたのか――。

 そう案じて窓の外に浮かぶ紫青の月を見上げた、ちょうどそのタイミングであった。

 何の前触れも無く、部屋の障子が開け放たれた。


「ごめん小幸ちゃん、遅くなっちゃった!」


 幼さと男らしさを同居させたような、そんな成長途中の声が飛び込んでくる。

 満面の笑顔と共に姿を現したのは、小幸よりも僅かばかり背の低い、質素な装いに身を包む小柄な少年だった。

 麻を編んで作られた焦げ茶色の洋装に身を包み、その上からボロボロの外套を羽織っている。

 突然の闖入者は、溜息を吐きながら後頭部を掻き…、


「いやぁ、参ったよ。ここへ来る途中で野犬に襲われてさ。危うく服を喰い破られるところだ……った、よ……」


 次第に言葉が収束してゆく。

 苦笑いを浮かべた顔が硬直し、まるで金縛りにでも遭ったかのように静止する。

 二つの視線が部屋の中央に立つ裸身の・ ・ ・少女を上から下へと見やると、今度は少しずつ、その頬が紅潮し始めた。

 年頃の少女らしい滑らかで柔らかそうな肢体が、少年の目の前で惜し気も無く晒されている。

 固まったまま頬を赤らめた少年は、次の瞬間には見てはいけないものでも見てしまったかの如く、慌てふためいた。

 即座に回れ右をし、しどろもどろになりながら言う。


「ごっ、ごごご、ごめん小幸ちゃん! 着替えの最中だなんて知らなくて! は、入る前に声を掛ければ良かったね! 僕ってばなんて気が利かない奴なんだろう! あ、あのっそれで、えぇと……!」


 必死に弁明を捲し立てる少年に、けれど小幸は何ら気にしていないかのように平然とした様子で、そっと背を向けた。


「……別に構わないわよ、裸くらい。見られて困るものでもないのだし」

「こっ、困るよ! 小幸ちゃんが困らなくても僕が困るよ! 一体どんな顔して小幸ちゃんの顔見れば良いのさ!」

「何でも良いけど外に向けて叫ばないでもらえるかしら」


 あくまでも穏やかな声音でそう告げると、焦燥に駆られる少年はあちこちにぶつかりながらも言われた通りに部屋へと入り、障子を閉めた。

 それでもやはり小幸の一糸纏わぬ姿は目視出来ないのか、隅の方で小さく蹲ってしまった。


「……あなた、いい加減にその純粋過ぎるところをどうにかした方が良いんじゃないの? ねぇ、靖央やすちか

「うん分かった! どうにかするからまずはとにかく何かしらの服を着て下さいお願いします!」


 そう言って少年――靖央は、此方に背を向けたままその場に土下座をした(全く意味が無いが)。

 とは言え、彼のこのような一面を見るのはこれが初めてでも無いため、小幸は呆れたように嘆息を零すだけだった。

 手に持ったままだった肌襦袢を取り敢えず羽織り、合わせ目の部分で帯を結ぶ。

 薄い布地に白く眩い肌が透けて見え、一層の艶かしさを醸しているが、小幸にとってはどこ吹く風であった。


「私とあなたは同い年なのに、どうしてあなたは私よりも背が低くて、私よりも精神が幼いの?」

「しっ、仕方無いよ。僕と小幸ちゃんは育ってきた環境が違うし、それに僕が子供っぽいんじゃなくて小幸ちゃんが大人っぽいんだよ」

「どうかしらね」


 靖央に背を向けたまま、桐箱に入った白の装束を手に取る。

 薄絹のようにふわりと軽いそれを広げると、左右の袖口に一つずつ付けられた鈴が澄んだ音を響かせた。


「……舞の練習?」

「えぇ。もうすぐ儀式の日だから、間違えないよう覚え込まなきゃ」

「そっかぁ。やっぱ大変なんだね、巫女って。神様に・ ・ ・感謝の念を・ ・ ・ ・ ・伝える・ ・ ・例祭で・ ・ ・皆の前で・ ・ ・ ・舞を・ ・踊らなきゃ・ ・ ・ ・ ・いけないん・ ・ ・ ・ ・だもんねぇ・ ・ ・ ・ ・


 そんな。

 少年らしい無邪気な笑顔で、靖央は言った。


「絶対見に行くから、頑張ってねっ」

「……えぇ、ありがとう」


 数瞬の沈黙を挟み、少女は咄嗟に笑顔を取り繕い、穏やかに応じた。

 その端整な貌に浮かぶ憂慮に、だが靖央は気付かない。

 ――小幸が天嬬神を顕現させるための生贄であると言う事実は、頑なに伏せられているのだ。

 その真実を知っているのは、衛生を含め、屋敷の住人と此処に仕える下女だけ。

 幼少期を共に過ごしてきた幼馴染に嘘をついていることに、深い後ろめたさを感じている小幸は、顰めた顔を彼に見られないようサッと逸らした。


「でもあれだね。練習するなら僕は邪魔かな」

「構わないで。寧ろ誰かに見られていた方がちゃんと舞えるもの」


 重さを持たぬ神の衣を纏った小幸は、次いで結わえたままだった髪を解く。

 上質な絹糸を思わす黒髪が空に靡き、ゆっくりと背中に垂れる。

 豊かな艶を蓄え広がるそれは月光を吸い込み、淡い燐光を妖し気に帯びていた。



「――、」



 ひとつ、息が吐かれる。

 次第に少女の纏う空気が音も無く変質してゆく。

 月より降る紫青の光を浴びながら淑やかに立つ少女は、それまでの無垢なる貌から、神と相対する艶美なるそれへと姿を変えていた。

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