第5話

 夕食を終えた後の僕は、皿洗いと風呂と歯磨きを済ませてから机に戻り、黙々とテレビを眺める幽子をしり目に漫画本を読んで過ごしていた。


 読んでいるのは人気週刊誌『少年ホップステップ』看板の『TWO PIECE』という海賊が題材のバトル漫画である。魅力的な絵とストーリーに引き込まれ、あっと今に時間は経過していく。

 

 気付けば午後十一時過ぎ。そろそろ寝ようかと思った時、僕はおもむろにノ-トパソコンを開いて企業からのメールをチェックした。月の初めに面接を受けた企業からの、結果を通知するメールが続々と届く時期なので、最近ほぼ毎日就寝前に目を通す事にしている。見てみると今日だけで三通も来ていた。しかし内容を見てみると、それらは全て。


「不本意ながら採用を見送らせて頂きました」


「残念ながら弊社と貴殿のご縁をお結び出来ませんでした」


「申し訳ありませんがご希望に沿いかねる結果となりました」

 

 というもの。要するに「お前はうちの会社にいらない」という旨を告げる不採用通知が、淡々とディスプレイに映っていた。


「またお祈りメールかよ……」


 書類審査は割と高い確率で通るのだが、問題は面接だ。今のところ合計八社の企業で面接に臨んだが、どれも残念な結果ばかり。そして今日受けてきたところは最後の八社目だったのだが、通知を受け取らずとも、ここもすでに結果が見えている。


 まあ受けているのは全て大手、もしくは準大手の人気企業だ。そう簡単に受かるもんじゃない。そう覚悟はしていたが、やはりこう何社も落ち続けていると気持ちも沈んでくる。


 このまま就寝してもあまり良い夢は見られそうになかったが、明日は合同企業説明会に出席する予定が入っているので、さっさと床に就く事にした。


 ふすまを開け、押入れの上段から布団を取り出す。その時、夕食の時喧嘩して以来、初めて幽子が口を開いた。


「……その下の段に置いてあるダンボールさ、中身全部漫画でしょ?」


 押入れの下段は大学の講義で配布されたプリントや、ストーブ、扇風機といった季節の家電が乱雑に押し込められている。そしてその一番手前には「有川のみかん」と書かれた大き目のダンボールが置いてある。さらにその中には先ほど幽子が言った通り、少年コミックを中心とした漫画本がぎっしりと詰まっていた。


「今更言うけどさ、漫画……好きなんだよね」


 細々とした口調で言う幽子。


「そうだな。確かに漫画は好きだな」


 持っている漫画の冊数。本棚と押入れのダンボールに入っている分、さらには床に散らかっている数冊を合わせれば二百冊位はこの部屋にある。さらに実家には小学校から高校時代までに買った約三百冊の漫画の蔵書がある。合わせれば大体五百冊くらいになるか。まあ金銭的に余裕が無い僕にしては結構な量の漫画を集めたなと思う。


 確かに漫画は好きだ。僕が心から『好き』と思えるものだと思う。今も昔もそれは変わらない。小、中、高と子供の頃から少ない小遣いをやりくりして漫画集めに興じていたっけ。変わったのは漫画代の出所が、小遣いからアルバイトの給料に変わった事くらいだ。


「漫画の出版社の選考とかさ、受けてみないの?」


「もう受けたよ。まあ駄目だったけど」

 確かに、漫画は好きで出版業界に興味があった。社員の平均年収も悪くない。そんな業界を僕が見逃さない訳が無いだろ。だがしかし出版業界は狭き門。いくつか受けてみたがすべて書類選考落ちの門前払い。僕が書類選考で落とされたのは全て出版社だ。


 一番つらかったのは、僕がよく読む少年漫画を出版している某大手出版社に関するセミナーが受けられなかった事だ。就活解禁日になった瞬間から僕は様々な企業のセミナーにエントリーしまくっていた。ここに関してもそれと同じ時間に就活サイトからセミナー予約の画面に飛んだが、すでに満席状態だった。

 恐らく僕の学歴ではセミナーに参加できないようになっていたのだろう。難関大学のような一定以上のレベルの大学でないと、実際席に空きがあるにもかかわらず、画面上で満席状態と偽りセミナーに参加させない企業もあるらしいし。その出版社もきっとそれだったのだ。


「やっぱり『好き』な事で生きていくなんて幻想なんだよ。一部の才能のある人間の特権だ。この状態を何と表そうか。才能格差とでも表現しようか」


 嫌な事を思い出してついそんな後ろ向きの発言をしてしまった。これに対して幽子が反論する。


「またそんな事言ってる~。駄目だよ、そんなんじゃ」


「でもさ……」


 まずい。ここで言い返したらまた夕飯の時の言い争いみたいになってしまう。これ以上会話に深入りするのは避けたい。そう思い僕は慌てて口を紡ぎ、さっさと布団を敷いて夢の中へ逃げようとした。布団を敷く手が自然と早くなる。


 しかしそんな僕を見て諭すように幽子は口を開いた。


「じゃあさ、自分で描いてみるのはどうなの?」

 

 手際よく布団を敷いていた手がぴたりと止まる。


 漫画を描く。漫画家になる。そんなの夢にも思っていなかった。しかしいざこのタイミングで幽子に「やってみれば」と言われると、人生に新たな選択肢が生まれたような気がした。だがしかし。


「目指したとしても、実際になれるかどうか分からないだろ。なれたとしても収入はどうなるんだ?売れなければ僕は今と変わらず貧乏生活のままだ。こういう世界って一部の売れっ子作家だけがチヤホヤされて目立っているけど、日の目の当たらない裏舞台でずっと燻っている底辺の人の方がずっと多いんだぞ」


「それでも『好き』なんでしょ?漫画が」


「ああ確かに『好き』だよ。でも……」


「何が『でも』よ。そうやって言い訳している暇があるなら努力してみなよ」


「でも、『好き』な事で生きていくなんて理想論だよ。才能の無い僕には無理だ!」


 僕の諦念を含んだ投げやりな発言が、幽子の精神を逆なでしてしまったようで目つきが険しくなった。僕と彼女はまた夕飯時の険悪なムードに近づきつつあった。まずいと感じ、一方的に会話を切り上げて無言で布団を敷く僕。しかしそんな僕にお構いなく幽子は口を開く。


「才能が無いから無理?それって何か証拠あるの?あなたの勝手な想像よね」


 続けて幽子は言い放つ。


「やってもいないのに才能が無いって何で言えるの?才能が無いだなんて、二十四時間、三百六十五日全て漫画描く事に捧げてから言いなさいよね!」


 何を無茶な事を言い出すんだこの女は。

 

 僕は呆れて物も言えなくなり、彼女の戯言を無視して、そそくさと就寝する事にした。


 部屋の電気を消して布団に入る。枕元の小言マシーンはしばらく作動し続けていたが、やがてこれも電源オフになった。


 ちなみに幽霊は睡眠をとらなくても良いらしいが、僕が寝ている間彼女は暇じゃなかろうか。アパート周辺を夜歩きしたり、僕の漫画を読んだりしているみたいだけれど。


 暗闇の中、遠のいていく意識で、先ほど幽子が言った事を反芻する。


「やってもいないのに才能が無いって何で言えるの?才能が無いだなんて、二十四時間、三百六十五日全て漫画描く事に捧げてから言いなさいよね!」


 何が二十四時間、三百六十五日全て漫画描けだよ。この発言に関しては、言っている事がワ○ミと一緒じゃないかと反論してやれば良かった。しかし前半の「やってもいないのに才能が無いって何で言えるの?」の部分には、どう反論してやれば論破出来ただろうか。実際一度も漫画を描いたことの無い僕に漫画を描く才能が無いという事を示す証拠はどこにも無い。だからこそ幽子の方が僕より筋の通った事を言っている気がして悔しかった。そのために反論もせずにさっさと寝てしまったのかもしれない。


 ならば彼女の言う通り漫画家を目指してやって、途中で挫折して才能の無さを証明してやろうか。そんな変な対抗心が芽生えてきた。なんてな。それは流石に冗談だ。

 

 しかしまあ、今日みたいに幽子と争うのは初めてだな。思い返してみれば彼女とはあまり喧嘩らしい喧嘩をした事が無かった。でもなぜ彼女はここまで僕の進路に関心を持ったり、口出したりするのだろう。彼女なりの僕への愛なのだろうか。いや流石にそんな事あるまい。だがそれでも僕を心配してくれているのは事実だ。それなら朝起きたら幽子に一言詫びを入れておくべきだろうか。


 などと思っているうちに、意識は徐々にブラックアウト。

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