第26話

 実家の成田には時々帰る。

 …と言うか、「行く」。

 今は空き家になっている。


 12年前、母が子宮癌で逝った。

 母の病気のきっかけは、他ならぬこの私だ。


 年を重ねても両親は変わらなかった。

 過干渉も、過支配も、大人げないのも、交換条件も、罰則も、脅迫も、ついに変わらなかった。


 息子を産んだ時、しばらく実家の世話になった。

 母も最初は多少優しかった。息子をあやす私を見てこんな事を言った。

「あんたが赤ん坊の頃の事を思い出すわ。あの頃暮らしていた社宅の壁の色、ドアの色、間取り…思い出すわ」

 感傷的になり、ひとりでヒロインになり、めそめそ泣く母を私はまったく構わず、相変わらず泣くのが好きなのだろうと放置していた。それに気分を害し

「あんたは自分の子にだけ優しくて、親には優しい言葉のひとつもないのね」

と言い放った上

「あんたはいくら何をしてやっても無駄!」

と私の背中を蹴った。産後間もない私をよく蹴るなと別の意味で感心した。

 そして私が家事をしない事にも苛立ち(産後すぐは家事が出来ないから実家の世話になるのだという事を、母はまったく理解しなかった)一週間もたたないうちにカリカリ怒りだした。

「自分の家に帰って、もう面倒見きれないわ」

と言った。そんなに面倒見てくれていないだろうと思ったが言わなかった。

「産んでからもう一週間近く経つしもういいでしょう!家事もやって!」

 母はヒステリックにわめいた。

 まだ赤ん坊の息子の前で、

「私は育児に失敗したわ。もっと親思いになるように育てれば良かった、あんたは失敗作だわ!失敗作!!あんたは私の最大の失敗作よ!」

と大声で怒鳴った。今まさに育児をしている私に向かって…。

 何を言っても無駄だと分かっていたから、ただ黙って母の罵る姿を見ていた。

 ああ、この人変わらないな、と悲しいまでに冷静だった。


 ただ、翌年の私の誕生日にくれたメールが、私を爆発させた。

 私の誕生日なのだから、私の事について何か書いてくれればいいものを、自分の事ばかり、自分の人生は失敗続きだったが何とかここまでやってきた、と書いてあった。そしておちゃらけたように、あなたが人生というカンバスにどんな絵を描くのか楽しみにしていると結んであった。


 携帯電話を持つ手が震えた。

 あらがたい程の怒りが込み上げる。

 まだ言う気か。

 まだ口出しする気か。

 まだ侮辱する気か。

 まだ見下すか。

 まだ足りないのか。


 心底

 猛烈に

 腹が立った。


 そしてその怒りと共に、

 私の潜在意識から滞在意識に上がってきた

 「ある記憶」が、鮮烈に脳裏に蘇り、

 私の全身を、全霊を、

 稲妻のように打ち抜いたのだった。


 それは

「マリ、あんたはもう小さいうちに死んだものと思っているからね」

という言葉だった。


「マリ、あんたはもう小さいうちに死んだものと思っているからね」

 その時の母の表情から、台所仕事を中断してツカツカと歩いてきた様子から、ぐっと身をかがめる姿勢から、私の目をじっと見下げる冷たい眼差しまで思い出した。


「マリ、あんたはもう小さいうちに死んだものと思っているからね」

その言葉は、記憶は、何十年も私の潜在意識の中に眠っていたのだった。


 あんたは小さいうちに死んだものと思っていると何千回も言い、生まれてきた事も、生きている事も、存在そのものも、何もかも否定した事。

 幼い私に向かい、自分は夫選びに失敗したと言った事。

 父の悪口を散々言った後に、あんたは父さんそっくりと罵倒した事。

 父さんと母さんどっちが好き?としつこく聞き続け、幼い私がパニックに陥り、幽体離脱するまで追いつめた事。

 真冬の寒空の下、家から閉め出した事。

 これ見よがしに手首を切り、自殺未遂をしてみせた事。

 小学生の頃から私の友達の悪口を言い続け、あんたの友達はみんなあんたの財布を狙っている、と真顔で言った事。

 忘れ物の多い私を、あちこちの医者や宗教団体に連れて行き、

「どっかおかしいんじゃないんでしょうか?」

と丸聞こえなのに囁いたり

「こんなおかしい子、生まれる筈ないじゃないですかっ!」

と私を指差しながら叫んだりした事。

 蜂に刺され、激痛に泣きわめく私を大声で嗤った事。

 この家にあんたの居場所はない、と言った事。

 何度も食事を抜かれた事。

 強引に大量の水を飲まされた事。

 私の日記を勝手に読み、内容についてとやかく言った事。

 気に入らない友達からの電話を勝手に切った事。

 汚れたナプキンを私の顔に押し当てた事。

 私が琴を習っていた頃、テレビで琴の演奏をしていると必ず指さしながら

「マリ、ほら、お琴」

と何百回も言った事。

 やめた後でさえ同じ事を言い続けた事。

 学校から帰った私に

「何故ここに帰って来るのだ」

と言い、居たたまれない気持ちにさせた事。

 出掛けようとする私を「いなくなれ」という目で見送った事。

 いつもはしゃぐか荒れるか極端だった事。

 安心させてくれた事はなく、いつもいつも不安にさせられた事。

 わめき散らす私の口を「股で塞いだ」事。

 手に負えなくなった私を施設に放り込み、「親に逆らうとこうなるんだ」と正当化した事。

 ここに来てどんな事が分かったかとしつこく聞き、しまいに答えられなくなった私に

「出してやらないよ」

と言った事。

 光の園で集団リンチに苦しむ私を助けてくれなかった事。

 自分を低く見ろ、安売りしろと言った事。

 父と離婚しようかと思い悩んでいる時に

「許すお稽古よ」

という祖母の声がどこからともなく聞こえてきた、と何度も興奮しながら言っていたが、私に対しては「許すお稽古」どころか「罰するお稽古」ばかりした事。

 私だけでなく私の恋人もいじめ、セックスフレンド呼ばわりしたり、面と向かって

「絞め殺してやりたい」

と、言った事(歪んだ愛情でしかないし、その人もびっくりしていた)。

 ひとり暮らしを始め、11年経過後、ようやく連絡先を教えるようになった途端に毎日電話をよこし、そのたびに必ず名前は名乗らずに

「私よ。別に用は無いわ」

と、切り口上で一万回は言った事。

 その舌の根も乾かぬ内に、仕事や交友関係に口出しした(つまりそれが用だった)事。

 留守番電話にもまったく同じ言葉を吹き込んでいた事。

 その用無し電話をやめてくれと、何回言ってもやめてくれなかった事。

「用がなきゃ電話しちゃいけないって言うの?」

と喧嘩腰で言った事。

「あんたは用のある時しか電話して来ない」

と理不尽な怒り方をしていた事。

 電話のたびに30分も1時間も私の時間を奪い、切る前に自分だけ機嫌よく

「またかけるね。グンナイッ(good night)」

と言って、翌日またまったく同じ電話をかけてきた事。

 うんざりしている私の事をまったく考えず、自分さえ良ければ良いという態度を貫いた事。

 歌舞伎を観て楽しかった、同窓会に行って楽しかった、映画を観て楽しかった、口内炎が痛い(私にはどうしようもない)等々、自分の事ばかり機関銃のように喋りまくり、父とうまくいかない自分のストレスだけを解消し、私に凄まじいストレスを与えた事。

「何か変わった事ない?」

と聞いておきながら、こういう事があった、と話しても

「さあどうしたらいいかねえ?私にはそういう経験ないから分からないねえ」

と答え、まったく役に立たなかった事。

 それでもまた翌日電話をかけてよこし

「何か変わった事ない?」

と前日の会話をすっかり忘れ、まったく同じ事を言い放った事。

 美容師は無償で髪を切ってもらえるしパーマやカラーもしてもらえるんだと言った時

「それくらいメリットなくっちゃね」

と、また逆撫でした事。

 自分は言いたい放題のくせに、私の悪意のない失言は許してくれず、

「あんたの言葉はメスのように私の心に突き刺さった」

と言ったり、過剰反応して道の真ん中で泣き出したり、レストランで泣きながら食事したり、泣きながら電車に乗り

「泣くような事を言うのが悪いんじゃない!」

と恥をかいた事さえ私のせいにした事。

 私の言い分は聞いてくれないくせに、自分の言い分が通らないと酒の力を借りてまで、暴れ狂い

「死んだ方がましよ!」

と怒鳴り散らした事。

 酒を飲んで暴れるというより、暴れる為に飲む、「タチの悪い酒乱」だった事。

 選択肢を出す事も、どうして欲しいか聞いてくれた事も一度もなく、こうするしかないからこうしろ、出来ないならこういう罰を与える、と常に罰則を設け、脅し続けた事。

 私が恋人と別れた後、毎日電話をよこし、毎回

「彼から連絡はないの?」

と丸4か月間も言い続け(私よ、別に用はないわ、とも言っていたが)、いい加減にしてくれと怒ったら

「1回しか言っていない」

と後の120回くらいを忘れていた事。

 それに限らず、自分の言った言葉を忘れて同じ事を何十回も何百回も言った事。

「あんた、まさかと思うけど妊娠してるんじゃないでしょうね」

と3000回は言った事。

 毎年私の誕生日に電話をよこし

「どう?〇歳になった気分は?」

と必ず言った事(それも何度やめてくれと言ってもやめてくれなかった)。

 自分の言う事を聞かないなら、アパートの保証人にも、就職の際の保証人にもならないと、また交換条件を持ち出した事。

 熟年夫婦の離婚を扱ったドラマに影響され、父と別居して私と暮らすと言い出し、アパートを探してくれと言う母の要望に応えて部屋探しを始めた途端に尻込みし

「あなたがそんなにどんどん手続きすると思わなかった。私はもう少しこの家にいて貯金をする」

と逃げた事(最初から別居する気はなく、ただ修羅場になる事を望んでいただけだった)。 

 それに限らず常に修羅場を求めていた事。

 私がストーカー被害に遭い、早急に引っ越しをしなくてはならず、必要書類を「書留」で送ってくれと何度言っても「速達」で送ってよこした事(速さは問わない、確実に私の手元に書類が届かないと、そのストーカーに大事な書類を集合ポストから盗まれて新しい住所を知られてしまう可能性がある。だから書留、と何度言い聞かせても母は理解せず、速達で送って来た)。しかも郵便番号を毎回間違える為にきちんと届かなかった。その郵便番号も何度違うと訂正しても別の番号に間違え続け、私を苛立たせ続けた事。

 親戚の葬儀に出た時に

「私が今何を考えているか分かる?おばあちゃまの事よ」

と言って、何年経っても祖母の死を引きずり、悲劇のヒロインを気取っていた事。

 例え幸せな状態であっても、その中から不幸を見つけ出してわざわざ言ってきた事。

 私が母に対していい加減にしてくれ等怒ると毎回ゲラゲラ笑った事(怒っている時に笑われるほど腹の立つ事はない)。

 私を可哀想がる事で優しさをひけらかそうとしていた事。

 水商売=売春と決めつけていた事。

 夫と付き合い始めた頃、9歳も年下ならばすぐ捨てられる筈だと決めつけ、電話のたびに、会うたびに、

「どう?彼は」

と、さも早く捨てられろと言わんばかりに200回は言った事。

「その人といて幸せな気持ちになる?」

と、まだ干渉した事。

 結婚を決めた時に

「どんな人でも年を取ると結婚したくなるのねえ」

と、また逆撫でした事。

 子どもを産む時に、産院まで来てくれたは良いが、陣痛に七転八倒する私に、

「昔はお産でよく人が死んだものだけどねえ」

と何度も何度も言って、苦しむ私をいたわる訳でも助ける訳でもなく、ただ苛立たせた事。

 元気に五体満足に生まれてくれた息子の事を

「私はあの子がダウン症とかでも愛するし可愛がるわ」

と言った事(ダウン症を見下しているし、ダウン症の人たち、その家族に失礼である)。

 息子の足の中指が人差し指より長い事を

「ここが奇形ね」

と平気で言った事(奇形の人に失礼である)。

 産後間もない私と、まだ新生児の息子を、面倒を見きれないと放り出した事。

 そんなに面倒を見てくれていないのに

「あんたはいくら何をしてやっても無駄!」

と言って私を蹴った事。

 幼少期は勿論の事、大人になっても尚、私を自分の「所有物」と思い込んでいた事。

 私を人間として駄目だと否定し続け、負の財産を有形無形に注ぎ込んだ事。

 まったく愛情のない状態にし続けた事。

 親が子どもに向ける言葉や態度でなかった事。

 親らしい事をしてくれなかった事。

 出来ない我慢をさせられ続けた事。

 人間扱いされなかった事。


 封印していた記憶が、一気に蘇り、凄まじい勢いで爆発した。

 許そうと、潜在意識に押し込んでいた記憶が、滞在意識に変わった瞬間だった。


 グラリ。

 目眩がするほどの衝撃を伴いながら、

 その記憶は滞在意識に上がってきた。


 母の「そのメール」だけは「斜めに読む事」が出来なかった。


 闘ってやる。

 頭の中で久しぶりにゴングが鳴り響くのを聴いた。


 怒りのまま、頭に血がのぼったまま、長文の返信を打った。

 母に、失敗続きとは何事か、失礼な、言っても良い事と悪い事がある。あなたはいつの日も、自分を被害者と言っていたが、そうではなくむしろ加害者であると、事例を並べながら怒りのままに書いた。

 そう、「事例」ならいくらでもあった。

 そして思った。どうせこのメールも読みながらゲラゲラ笑うんだろう。そうはさせない、と決意した。

 だからメールの最後に、どうせ今笑ってるんでしょう?私が何かで怒ると必ず笑ったものね、私はそっちが怒っている時に笑った事など一度もないけどね、と書き、続けてこう書いた。

 まあ、今に始まった事ではないけどね、

 私が幼い頃から自分は夫選びに失敗しただの、

 マリ、あんたはもう、小さいうちに死んだものと思っているからね、というのも何度も何度も聞いたしね、と原文通りに付け加え、送信ボタンを押した。

 母が受けるであろうショックを思ったが、幾分すっとした。

 すぐ言い訳がましい返信が送られ、再び爆発した。

 そこで子どもは育てたように育つ。私はあなたが育てたように育った。そこまで否定されて親思いの素晴らしい娘になる訳ないだろう、死んだものと思っているなら何をしていても構わないだろう、私が汚らしい娼婦なら、そのように産み育てたのは、他ならぬあなただと書いた。躊躇なく送信ボタンを押した。

 またすぐ返信が来た。

 今度は泣き落すかのように、あなたが間違った道に進むのが悲しくて恐ろしくていけない言葉を使ったかも知れないが、それは非行に走ったあなたに原因がある。あの頃自分は本気で自殺を考えていた、それもあなたのせいだった。

 ましてあなたが親になったら自分の気持ちを分かってくれると思った、と書いてあった。

 怒りのマグマは頂点に達し、親になってもあなたの気持ちは分からない。あなたは私が非行に走る、そのずっと前から死んだものと思っていると私を否定し続けた。そして自分がまず子どもになって私に甘えていた。私の不幸を願っていた。私は迷惑だった。親が子どもに対する態度では決してなかった。

 そして何より私は自分の子を虐待していないと並べ立てた。

 あなたは私の失言を一生許さないと言ったが、では私があなたに虐待された事を一生許さないと言ったらどうするか考えろと書き立てた。

「虐待」という言葉を遂に使ってしまった。

 なすすべを持たぬ幼女を、

 無知な少女を、

 保証人がいなければ就職さえ出来ない若い女を、

 初産の女を、

 弱い立場の実の娘を、

 徹底的にいたぶり、嘲笑い、交換条件を出し尽くし、これでもかといじめ、侮辱し、脅し、虐待したのはあなただと、私の心に鋭いメスを突き刺し続けたのはあなただと、あらん限り書き立て、決定打を振り下ろすつもりで、致命傷を与えるつもりで送信ボタンを力いっぱい押した。

 …返信は来なくなった。

 ほどなく母は子宮癌になった。


 母の子宮癌という病気と、私のメールはつながっていたと思う。

 だが、私の幼少期からの出来事すべてが、その3通のメールにつながっていた。


 癌になった人がどういう死に方をするか、私たち家族は目の当たりにした。

 どんな凄まじい臭いを放ちながら悶え苦しむか。どんなに自分の行いや発言を後悔しながらひれ伏し、心身共に病むか。

 母は、とても緩やかで、

 そして、とてつもなく激しい自殺をはかったのだ。


 元気だった頃、誰より若々しく、光を放つように美しく、華やいでいた母。

 姉や私が結婚する際に、ブーケを作り、ウエディングドレスも喜々として縫ってくれた母。

「娘たちのブーケを作りたくて造花を始めたの」

と幸せそうに言っていた母。

 普段着もたくさん手縫いしてくれた母(おかげで何万も節約できた)。

 旅行に何度も連れて行ってくれた母(旅費を必ず出してくれた)。

 私の給料でラーメンを奢った時、たかが500円のラーメンに感激して何度も有難う、御馳走様と言ってくれた母。

 私が32歳の時に、初めて自慢の娘と言ってくれた母。

 何度罵詈雑言を浴びせても連絡をくれ、歩み寄ってくれた母。

 60歳にしてイギリスへ1年間、語学留学をした母。 

 癌と診断された時、私の事だけが気掛かりだ、他の事はもう何も未練がないと言った母。

 延命治療を望まなかった母。

「もう歌舞伎も宝塚も観に行けないよ」

と涙ながらに呟いた母。

 一度は手術が成功し、造花の仕事を再開出来るかも知れないという夢を持った母。

 癌の再発によりその夢を絶たれた母。

 抗癌剤の影響で髪が抜け、気力も体力も奪われ、ただ横たわるしかなくなった母。

 余命宣告を笑顔で受け入れた母。

 孫の見舞いに心から喜んだ母。

 点滴のスタンドにつかまりながら、よろよろと病室へ歩いた母。

 日に日に弱っていった母。

 まったく闘病しようとせず、

「新しい世界へ入れる事を嬉しく思っている」

と言った母。

 初めて私に心から謝ってくれた母。

 自分の病気は絶対に私のせいではないと、初めて「自分の責任」と言った母。

 病気になって初めて、一切言い訳をしなくなった母。 

 見舞いに行くたびに私を気遣い、時計を気にして

「そろそろ帰りなさい」

と言ってくれた母。

 自分の友達が見舞いに来た際

「まだ帰らないで、まだ帰らないで」

と懇願した母(私に言えない我がままを、友達になら言えたのだろう。また、もうあと何日も生きられないという自覚もあったのだろう)。

 私が息子を夫の両親へ預け、泊まり込みで看病すると言う申し出を、愛情を持って断ってくれた母。

 それでも泊まり込もうと準備を始めたその日に、迷惑をかけまいとばかりに逝った母。

 容姿や美声、度胸やセンス等の、金で買えぬ「正の財産」をたくさん残してくれた母。

「教えてくれて有難う」と言ってくれた母。

 世界でたったひとり、私の母。


 おそらく、私と母は、お互いにお互いしか手に負えなかったのだろう。

 母は普通の母親ではなかった。きっと姉と私にしか「こなせなかった」のだろうが、姉と私も母にしか「こなせない娘」だったのだろう。

 母しか姉と私を「育てる事は出来なかった」し、姉と私にしか母に「育てられる事が出来なかった」のだろう。

 そう、私と母は、あらゆる意味でお互い様だった。母は私が悪いと言い続けている間、私も母が悪いと言い続けた。そして母が自分が悪かったと思うようになったら、私も自分が悪かったと思えるようになった。

 本当にあらゆる点で「お互いに、お互い様」だった。


 よく堪忍袋の緒が切れる、という言い方をするが、私は袋どころか、大きな我慢の箱を持っていた気がする。その箱が、溢れ、壊れてしまった。

 箱の中には、もうひとりの小さな私がいたのだろう。

 溢れるまで、壊れるまで、箱の中を怒りで満たしたのは、主に母だった。


 ただ、葬儀の際に来てくれた人が皆驚くほど、母の死に顔は「微笑んでいた」のだった。本当に笑っているようだった。末期癌で逝った人の顔ではなかった。

 その顔を見て私はこう思った。ああ、母は自分の人生に納得して逝ったんだな。

 どうしてこうなったか分からない、娘があんな風だと母親に原因があると思われるんだと散々怒鳴り散らしていたが、自分こそ被害者だと言い続けていたが、何故こうなったか、何が原因だったのか、自分がどういう種を撒いたのか、その種がどんな芽を出し、どんな草木を伸ばし、どんな実をつけ、どんな花を咲かせたのか、骨身に応えるように理解した顔だった。

 どんな小さな出来事にも必ず原因と結果があり、その二つは必ず合致している。それをしっかりと理解した表情だった。母の最後の使命はそれを学ぶ事だったのだろう。

 すべての原因を作ったのは、他ならぬ自分だと悟った上、自分の撒いた種を自分で刈り取った、充足感に満ちた良い笑顔だった。

 鬼のように我がままで酷い母親だったが、死ぬ寸前は杜子春の母のようだった。

 私もいつか、微笑んで死のう、そしていつか、杜子春の母のような母親になろうと思えた。

 もうひとつ、母の顔を見てつくづくこう思った。

 ああこの人、綺麗な人だな。

 幼い頃、周囲に散々

「こんな綺麗なお母さんいないよ」

等言われた事を思い出し、「さびしい嬉しさ」を感じた。勿論悲しかったが、見えない檻からようやく出られたような気もしてほっとした。

 また、当時まだ幼かった息子がよくまわらない口で何度もこう聞いてきた。

「おばあちゃま、どこに行ったの?」

 涙ながらに

「天国に行ったんだよ」

と答えながら、もう母は家中、世界中、どこを探してもいない。本当に死んだのだと実感した。

 ああ良かった。母は地獄のような入院生活を経て、ようやく天国に辿り着けたのだ。


 そしてこんな考えもよぎった。

 もしかして母は、発達障害があったのかも知れない。父も。だから二人とも、徹底的に相手の立場に立つ事が出来なかったのではないか?同じ事を何百回も言ったり、普通は絶対にしないような事をしたり、性格異常と言うよりも、障害だったではないか?

 ならば、ある意味仕方なかった気もする。

 幼い私を医者や宗教団体に連れて行き

「どっかおかしいんじゃないんでしょうか?」

と言っていたのは、実は自分の事だったのではあるまいか?と言う気もする。


 だが、母の死後、姉と険悪になった。

 姉は、母を殺したのは私だと罵った。

 自分は母の子だ、私は父の子だ。父と母がたまたま夫婦だったというだけで、自分と私は赤の他人以下だと、それこそ罵詈雑言を浴びせた。

 さあ、謝れ、自分に頭を下げて謝れ、母がどんなにショックだったか、思いを馳せろ、母を生き返らせろとまで言った。

 誰よりも母を死なせた原因を作った事に責任を感じ、自分を責めている私に、追い打ちをかけるように責め立てた。こちらが言葉を失う程、姉は怒り狂った。自分は被害者だ、私を加害者だと言いきった。

 その怒りようは、まるでかつての母のようだった。本当に「全盛期」の母を見ているようで、恐ろしくなった。母が姉に乗り移り、姉の口を借りて、私を再び罵倒しているようにさえ見えた。

 いっときは本当に仲が良く、一緒に映画を観たり、美術館へ足を運んだり、毎週待ち合わせをし、きょうだいで毎週会っていて、まるで恋人みたいだねと笑いあったり、お互いのアパートに泊まりあったり、お互いの結婚を心から祝福したり、子どもがいない姉が私の息子を我が子のようにかわいがってくれたり、たくさん良い思い出を作ってくれた姉が、他人以下になってしまった。


 同棲していた恋人の事故死を受け止めきれず、荒れ狂った私を支えてくれた時。

 満たされない心を物で埋めようと買い物依存症になり、借金まみれになった私を心配してくれた時。

 水商売にはまり、酒や男に溺れ続ける私をそれでも見捨てなかった時。

 何年もかけて借金を完済した私を、本当に偉いと褒めてくれた時。

 私の立ち直りを心から応援してくれた時。

 会社に就職した際に、自分の事のように喜んでくれた時。

 32歳にして、初めてのボーナスをもらえたと報告した時に、ちゃんと貯金しなよと言ってくれた時。

 自分の結婚式で私にヘアメイクを頼んでくれた時。

 私の結婚式(私は勿論、きちんと結婚式を挙げた。写真だけの結婚式ではなく。母に可哀想がられる人生など断じて送っていない)で、心のこもったスピーチをしてくれた時。

 妊娠した私を気遣ってくれた時。

 息子に愛情を注いでくれた時。

 そのときどき、私は姉をいちばんの親友だと思った。神様がいちばんの親友を姉として会わせてくれたと、心から喜んだ。

 子どもの頃にいじめられた事など、どうでも良くなった。今、良くしてくれるから、過去はどうでも良い。心からそう思ったのに、もはやただ残念だ。本当に残念でたまらない。

 何年も音信不通で、何度か歩み寄ろうとするたびに私を突っぱねる姉に、もはや取り付くしまもなくなった姉に、どうにも接しようがなかった。  

 たったひとつの救いは、姉が私に「無関心」ではない事だ。愛の反対は憎悪ではなく、無関心だ。これはマザーテレサの有名な言葉である。姉は確かに私に対して憎悪にみなぎっているが、決して無関心ではない。


 この経験から私はこんな事を学んだ。

 いくら本当の事といえども、人に「仕返し」をしてはならない。

 あの時あなたは、ああ言った、こう言った、こんな仕打ちをした、と後から蒸し返して思い知らせた所で、攻撃した所で、何にもならない。並べ立てた事例が本当の事であればあるほど、心当たりがあればある程、相手は衝撃を受け、打ちのめされる。

 そして自責の念にかられ、自分を罰する。そう、母のように。

 そして最悪の場合、命を落とす。母のように。


 私は何故、人に「仕返し」をしてしまうのか、じっと考えた事がある。

 そして小学生の頃、友達にいじめられ、父に話した所

「お前も同じ事やり返せばいいだろう」

と言われた事を思い出した。その言葉が私の潜在意識にあったのだろう。勿論そのせいにしてはいけないが、もう二度と仕返しなどするものではないと学んだ。


 もうひとつ、どんなに腹が立っても人を追い詰めてはならない。

 父と母は私を物凄く追い詰めた。

「親が絶対って思わせる」

そう言いながら、出口をふさぎ、追い詰めた。追い詰められれば追い詰められるほど私は逃げたくなった。親や教師が追えば追う程、私は逃げた。

 だが私も共に暮らした桜井正一さんを追い詰めてしまった。悪かった。逃げ道を作ってあげるくらいの気持ちで付き合えば良かった。正一さんは私を決して追い詰めなかったし、馬鹿にしなかった。

 正一さんだけでない、友達や恋人を追い詰め、いじめた事は何度もある。悪かった。私を追い詰め、いじめた人もいたが…。

 神様がそうする事で勉強させてくれたのだろう。ならば、だからこそ、私は夫や息子に寛大でありたい。


 母は私によく「なになにって言ったじゃない」と蒸し返して思い知らせようとした。私はそれを嫌々ながら「受け取ってしまった」のだろう。

 そして「なになにと言ったね」と、事例を並べながら、受け取ったものをそっくり母に「返してしまった」のだ。


 母はよく「いちばん怖いのは人よ」と言っていた。

 だから私という「人」に命を落とすほどの「怖い目」に遭わされたのだろう。

 また「事故に遭ったり病気になって、スッと死ぬならまだしも、重い障害を持ったら大変よ」とも言っていた。だから病気になった時、スッと死ぬ努力をしたのだろう。


 母は幼少期から私に何度も言い続けた。

「だって本当の事じゃない。何が悪いの?」

「自分の撒いた種は自分で刈り取りなさい」

 文字通り、言葉通り、母は自分の撒いた種を自分で刈り取ったのだ。

 私もその悪魔のようなメールを送る時にそう思った。本当の事だ。何が悪い。自分の撒いた種を自分で刈り取れ。

 だが、やはり本当の事を言えば良いというものではない。現に母は打ちのめされ、逝った。そして、姉は私をなかなか許そうと「しなかった」。


 ではどうすれば良いか?この回答は夫から学んだ。

 夫は私が忙しい等で苛立ち、声を荒げた際にビシリとこう言う。

「ああ随分きつい言い方するね」

 これにはハッとさせられる。我に返り、すぐに謝り、改める事が出来る。

 そして彼は私や息子に苦情を言いたい時に、褒め言葉でサンドイッチしてくれる。

「ママ、俺はママを信頼できる人だと思っているけど、イライラしてヒステリックな声を出すのは子どもにも良くないと思うよ。後は完璧だもんね」

「ママ、家事を一生懸命やってくれるのは有り難いけど、疲れて怒りっぽくなるのは勘弁してよ。せっかくの美人が台無しだよ」

等々「褒める→本当に言いたい事を言う→また褒める→その話をすっきり終わらせる」という図式にそって神対応してくれる。一発で良いと思い、すぐに自分に取り入れた。おかげで人間関係は昔よりずっと良くなった。

 神様がよくこんなに出来た人に巡り会わせてくれたものだ。関白タイプでありながら暴力などとんでもない人だ。

 そう、神様はかつて関白タイプの人と結婚したいという私の願いもかなえてくれた。駄目な私をどんどん引っ張ってくれる、優しくて頼もしい関白タイプの人を。どこまで私は幸運なのだろう。


 そして私が夫をたいせつにするのは、彼が年下だからではない。

 母は年上女房は逃げられたら困るから若い亭主を大事にするのだと言っていたが、私は彼の精神や性格が好きだから、一緒にいて楽しくて幸せだから、感謝しているから、大事にする価値があるから、何より「たいせつだからたいせつにする」のだ。

 一日経つごとに愛情が増していく。私の喜びを何倍にもしてくれ、私の悲しみを千分の一にしてくれる。そんな人は初めてだ。

 今ほど静かに人を愛し続けている時はないし、今ほど幸せを実感している時も、安心している時もない。

 今世で会えて本当に良かった。来世でも再来世でもその次も次も次も、私は夫と結婚するし添い遂げる。私は本気でそう思っている。

 ああ、これが奇跡でなくて何だろう。


 また、かつて母や私に暴力を振るい続けた父は年を重ねて足腰が弱り、車椅子で移動するようになった。姉か私が交代で車椅子を押す。

 病院で長い待ち時間に苛立つ父を何とかなだめ、文句をまったく言わずにただ黙って車椅子を押し続ける私に、ある時父が言ってくれた。

「良い娘を持って俺は幸せだ」

その言葉に報われた。

 私はこの父親を選んで生まれたのだろう。

 勿論あの母親も、私は選んで生まれたのだろう。


 そう言えば、母は大人になった私に一度だけこんな事を言ってくれた。

「子どもっていうのは、生きていればいいんだなって思うわ。あなたを見ていて。どんな風にもなるから」

 それで許せば良かった。もうひとつ、

「マリは小さい頃からお菓子でも何でも、最後のひとつなんて絶対に手を出さなかった」

と言ってくれた事もあった。

 …幼少期、家族4人で4つのお菓子を食べる際に、父は必ずふたつ食べてしまっていたせいで、私は食べられず、姉に最後のひとつを渡していた。

 その時母は気が付かないのかと思っていたが、実は気付いていたのだった。だったら、何故その時に何も言ってくれなかったのか、という気もするが。


 そして父も、大人になってから私に良くしてくれたように思う。私が婚礼司会の仕事をしている時に

「お前がそんな仕事してくれるようになるとはねえ」

と言ってくれた。また、別の時には

「うちの娘たちは打って出るからねえ。よくあの若さで家を追い出されてまともに生活してきたねえ」

とも言ってくれた。

 これも意外だった。母は「勝手に出て行った」と言い続けていたが、父は「追い出した」という自覚があったのだ。

 またこんな事も言われた。

「お前をもっと良い学校に入れてやりたかった。そうしたらもっと良い会社で働けたのに」

 私は即答した。

「私は愛社精神を持って働ける最高の会社で10年も働けたし、最高の人間関係に恵まれたし、婚礼司会も出来たし、最高の旦那さんと結婚できたし最高の子どもを生めたし、今以上の人生はないと思っているよ」

 父は言ってくれた。

「なら良かった」

 そう、それが私の本心だ。

 この人生で本当に良かった。

 それに私は父から「たったひとつの事を最後までやり遂げる辛抱強さ」を学んだ。

 父は38年間JELで働き、生活費を家に入れ続け、家庭をぎりぎり捨てなかった。嫌らしく、大人げなく、酷い父親ではあったが、そこだけは良かった。


 いずれにしても、過去の仕打ちは許そう。

 あのつらかった日々があるからこそ、今がある。

 私はあの父母と、姉と、あの家庭環境を選んで生まれた。でなければここまでの精神力はなかった。神様が私なら耐えられる、私なら多くを学べると思ってそうしてくれた。

 おそらく、私の場合どちらかだったのだろう。幸せな家庭に生まれ育ち、不幸な結婚生活を送るか、またはその反対か。

 生まれる時に神様に聞かれ、今の状態を選んだのだろう。だとすると、すべて合点がいく。


 私は今、自分が与えてもらっているものを当たり前と思った事が一度もない。すべては奇跡だ。

 生きている事。

 心身が健康である事。

 大切に思う家族がいる事。

 住む家がある事。

 良い人間関係に恵まれている事。

 私の話を信じてもらえる事。

 何も我慢する事なく、穏やかに暮らせる事。

 それを当たり前と思う事なく、奇跡だと有り難がる、神様がそうさせてくれた。


 死にたくてたまらなかった日々もあった。だが何故か死ねずに「生かされた」。

 家族を憎んだ時期も長かった。家がいたたまれない場所だった。すべき仕事がない時代もあった。悪い人に騙されて地団駄を踏んだ事もあった。

 そのすべてが今につながっている。


 例えば30歳を過ぎてやっと「正社員として就職」した私は(実家と断絶していて保証人を立てられなかったという事もある)、年下の先輩に仕事を教わる事が多かった。

 良い気持ちはしなかったが、フリーターや派遣でいるより、ましてや水商売よりずっと良いと割り切れた。二度と不正規の仕事をしたくなかった(現在、不正規の仕事をしている人や水商売で生活している人を否定するつもりは毛頭ない)。

 またその会社で嫌な事があっても、嫌な人がいても、辞めるものかと踏ん張れた。二度と無職も職探しをするのも嫌だった(無職の人、職探しをしている人を否定するつもりもまったくない)。

 そして衝動買いやローンを組んでまで物を欲しがらなくなった。借金地獄を経験したおかげだった(借金をしている人を否定するつもりも一切ない。応援する気はある)。

 そう言えば20代前半で、欲しいものを我慢出来ない時期があった。なぜこんなに洋服や宝飾品が欲しいのか、自分でも分からなかった。だが、幼少期に喚けば何でも買ってもらえた事が少なからず関係していたような気がする。やはり親ならば尚のこと、愛情を与えず,代わりに物を買い与える,という行為はその子どもの将来に悪い影響を及ぼす事を考えるべきだ。泣き喚きうるさいから,面倒だから、ましてや自分の言う事を聞かせる等の交換条件で買い与えるというのは良くないと、私は自分自身から学んだ。

 人の悪口を言わなくなった。言い過ぎてみんなに嫌われ、その時の仕事を辞めざるを得なかった経験のおかげだ。それに人の悪口というのは言っても何も良い事はない。それを聞いている自分の耳がすぐそばに二つもある。相手も自分も気分が悪くなる。

 だが誉め言葉は相手も自分も気分が良い。それを聞いている自分の耳もすぐそばに二つある。だから私は今日も誰かを褒め続ける。

 上司の表情を見て、何が必要か、どうして欲しいのか、瞬時に判断出来るようになった。親の顔色を見続けて育ったおかげだ。

 会社の友達と600円の弁当を食べている時に満ち足りた気持ちになれた。200円の弁当さえ買えないほどの極貧を味わったおかげだ。

 上司や先輩、同僚や後輩、みんなにあてにされ、仕事を頼まれるのが嬉しかった。誰からもあてにされず、その職場にいたたまれなかった経験のおかげだ。

 謙虚になれた。仕事を覚えられず、後輩に追い抜かれる惨めさを経験したおかげだ。

 そしてその会社で数字を見ている部署に配属された。これも縁があったと言えよう。

「沖本さんは数字に強いね」

と言われるのが嬉しかった。

 この時、中学時代に数学が好きだった事を思い出していた。ドンピシャリ!と合う瞬間が、大人になっても好きだった。

 また、その会社は固定客の仕事に介入する事もあったのだが、あるお客さんが和楽器の演奏者をしており、定期的にコンサートを開き、社員が招待される事が多かった。

 みんなが退屈して居眠りをする中、私だけは関心を持ち、姿勢を正して最後まで堪能する事が出来たのは、やはりお琴を習っていたお陰だろう。やはり無駄な事は何もない。

 そして35歳にして、婚礼司会者としてプロデビュー出来た。会社に正社員として雇ってもらえ、ボーナスをもらえるまでに長続きし、そのボーナスでアナウンススクールに通えたおかげだ。

 勿論仕事は甘くない。式場スタッフや所属事務所の人に滅茶苦茶に叱られる事もあった。だが、言えば何とかなる、と思うからこそ言ってくれるのだろうと受け止められる。誰からも何も言われず、いちばんつらいのは人から何も言われない事、すなわち見捨てられる事だと実感した経験のおかげだ。

 そして仕事の時、私は必ず母の作ったコサージュを左胸に飾った。

「天才華道家・沖本麗子」の手掛けた見事なコサージュを。


 婚礼司会者は、有名な大学を出た人や、元局アナ、元タレント、有名な劇団にいた人など、そうそうたる人が多い。

 だが私にはそういう華やかな過去やブランドがない。モデルとして活動した期間も短く、自慢できるほどのキャリアではない。

 MCとしては何のコネもツテもなく、それこそただ努力するだけで昇りつめ、夢を叶えた自負と自信が私にはなみなみと溢れていた。母のように。

 母の娘でなければ、この声と度胸はなかったろう。やはり、私は母を選んで生まれてきたのだ。


 そしてものは言いよう、考えよう、という言葉がある。私は確かに低学歴であるが、その事をあまりコンプレックスに感じた事がない。母は言い過ぎ、気にし過ぎたが、私自身はまったく感じていないしそう思わない。

 と言うのは、働いてきた喫茶店やレストラン、デパートや会社が「最高の大学」だったからだ。

 あまりにも中卒、中卒と馬鹿にされる事に辟易し、19歳以降は高卒と偽った(美容専門学校の高等科コースを卒業したという事もある)。そしてその途端に周囲の扱いが変わった事に驚いた。誰も

「どうして高校行かなかったの?」

と聞いてこないからだ。当然と言えば当然だが、もう余計なダメージを受けたくなかったし、言い訳をするのも嫌だった。


 私の主婦仲間で成人した子を4人持つ女性が、堂々とこんな事を言っていた。

「うちの子たち、みんな中卒で働いてくれているから助かっている」

 母に聞かせたかった。母は姉が国立大学に受かった時、知友人みんなに自慢して回った。そして私が高校を中退した事は一切口にせず隠し、私に関しては貝のように押し黙っていた。

 そして父が会社に私が高校を卒業したという証明を出せず恥ずかしかった、という事をねちねち言い、私のせいで居たたまれなかった事を恨みがましく言い続けた。

 父も母も、言っても仕方ない事を、いくつになっても言い続けた。

 母は

「お姉ちゃんもマリも自分の手の届かない遠い所へ行ってしまった」

と言った事もある。「所有物」と思えばこそ出てくる言葉だろう。いつまでたっても私を中卒と見下し、馬鹿にしているのだろう。

 だが私はこう思う。

 私の「最大の強み」は「中卒である事」だ。

 お陰で人の話を素直に聞けるのだから(経営の神様と言われた松下幸之助さんのように)。

 もうひとつ、今まで本当に色々な人に会ったが、私にまったく何も学ばせてくれない人はひとりとしていなかった。

 そう、私の座右の銘「我以外、皆、師成われ・いがい・みな・しなり」。自分以外はみんな先生である。

 ある人は、私に優しく教えてくれた。

 またある人は、厳しく言ってくれた。

 別の人は

「沖本さん、私たちのペースに付いて来られないのね」

と苛立って言い放つ事で(嫌味を言う事で)伝えてくれた人もいる。

 また別の人は軽蔑の眼差しで見る事で、どう思っているのか伝えてくれた。

 またある人は

「ああ…沖本さん?…」

と嫌そうな声を出す事で、私を嫌いなんだと意思表示してくれた。

 が、その人たちはあくまでも私の「行動が嫌い」なのであった。私自身を嫌いな人はあまりいなかったような気がする。

 本当に私を嫌いな人と言うのは、私の目も見てくれないし、名前も呼んでくれなかった。目を見てくれただけ、名前を呼んでくれただけ、ましだった。 

 いずれにしても何も教えてくれない人や、何も伝えてくれない人は、本当にひとりもいなかった。しかもその人たちは私から1円たりとも授業料を取ろうとしなかった。こんな有り難い話があろうか。

 教えてくれて有難うと、心から御礼申し上げたい。

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