第18話

 昼食後のお経をあげている最中に、何かが焦げているような異臭を感じた。それは段々とひどくなってくる。

 何だろう、不審に思っているとみんなも気づいたらしくざわつき始めた。それは奥の院の奥から漂って来る。

 尼の中井さんが奥の院の奥へと走って行った。みんな読経を中断して、不安げな表情のまま中井さんを待つ。

「火事っ、火事っ、火事ばーいっ」

 中井さんが叫びながら駆け戻って来た。全員が驚いた。あたしもぶったまげた。尼さんたちが慌てて立ち上がる。

 奥の院中が蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。

「みんな、落ち着いてっ、早う非難しなっせ、早うっ」

 落ち着けるかってーの!!病人さんも少女たちも金切り声をあげながら奥の院を飛び出す。あたしもみんなに続く。奥の院の奥からも、収容者たちが次々に飛び出して来る。

「火ん回りが早かっ、凄か勢いばいっ」

 中井さんの声が後方から聞こえる。


 光の園に収容されているすべての人々が、園の裏手にある山まで逃げて来た(園の裏手に山がある事を、その時初めて知ったぜ)。

 振り返ると、炎に包まれた奥の院が見える。

「燃えろ、燃えろ」

 あたしの後ろでアユミが喜んでいる。

「バカッ、聞かれるとまずいよっ」

 あたしは一応アユミをたしなめたものの、心の中では同じく光の園なんか燃えちまえと思っていた。

 だがそれはみんなの思いだったようだ。燃えさかる光の園を見る人々の目は、期待と野望に満ちていたのだから。

タカエだけが異常に怖がっていた。

 消防車が来た。火はすぐに消し止められる。みんなざわざわしながらも、園に戻り始める。

 それにしても…。どう考えたって奥の院の奥から火が出るなんて不自然だ。園内では煙草は禁じられていたし、このくそ暑い真夏に暖房器具を使う訳もない。つまり火の元はあり得ないのだ。

 …と言う事は誰かが、それも奥の院の奥にいる誰かが放火したのか?

 あたしはハッと顔を上げて周囲を見渡した。そして見た。にやにやしている新入園者のカズコとエリを。まさかこいつらが…。

 二人にフサエが近付いて行き、小声で囁く。

「チョロイもんよ、ね」


 光の園の「放火事件」は新聞にまで載った。

 様々な雑誌やワイドショーでも取り上げられ、第二の戸沢学園は、戸沢学園の二の舞(つまり閉園)の危機にさらされる事になった。

 犯人のカズコ、エリ、フサエ、その他拘わった者はひとり残らず少年院送りになった。少年院と光の園とどっちがマシだろうか(どっちもどっちという気もするが)。

 動機は「シャバに出たいから」だそうだ。

 まったくバカな奴らだ。放火して自由の身になれれば誰も苦労しないよ。八百屋のお七じゃあるまいし。火あぶりの刑で殺されちまうぜ。そんな大規模な事を、小娘の悪い頭(しかも酒やらシンナーでイカレきった脳みその詰まった)でやらかしてバレない訳がない。

 施設にいた事は何とか隠し通せるだろう。だが少年院にいた事は隠せない。まして放火なんて重罪だろーが。

 彼女らはそれが分っていたのだろうか、いなかったのだろうか。とにかくやってしまった。そして少年院に送られて行った。


 収容者の人数が増えるにつれ、光の園の内部は荒れ狂っていった。このままではもっと大きな事件がドカンと起こりかねない、誰もがそう予感している中、第二の事件が勃発した。「女子寮大脱走」である。


 それは放火騒ぎの翌月のお祭りの直後に起こった。尼さんの誘導のもとに奥の院に戻りかけた非行少女たちは、突然シャバに向かって一斉に走り出したのだった。

 その数、総勢109名。まさに大脱走である。

 即座に幹部連中が車で出動したが、逃げた人数の方があまりに多かった為、全員を捕まえる事は当然不可能だった。首根っこを押えられながら引きずり戻されたのは、ミナコとクミコだけだったというお粗末さだ。二人はその場でバリカンで丸坊主にされ、別々の反省室に投げ込まれた。

 どうにか逃げおおせた脱走者たちは、そのまま警察に駆け込んで助けを求めた。だが大半の者はそのまま光の園に連れ戻されてしまう。家に帰る事ができたのは、わずか12名だった。

 しかし警察に保護された時、全員が全員、刑事や親の前で光の園をボロクソにこきおろし、ひどい所である事を訴えたのだった(確かにひどい所だ)。

 助かりたい一心だったのだろうが、それにしても91名もの少女が、光の園を告訴までしたのには驚いた。それがまた世間を賑わす事になった。

 連日のようにテレビの取材人が光の園を訪れ、園内を取材して回った。

 この時、面白がってカメラに映りたがる少年少女も多かったが、カナエさんだけは絶対に映らないようミホちゃんを抱えて逃げ回っていた。

 カナエさんが逃げ込んだ部屋の扉の前に、お上人さんが立ちはだかる。

 インタビュアーがお上人さんにこう聞いた。

「この中でいちばん良い子って誰ですか?」

「沖本です。あいつ良い子ですよ」

「ではいちばん悪いのは誰ですか?」

「それも沖本です。あいつ悪いですよ。ちょっと目離すと、なんかやってますから」

 おいおい、全国放送だぜ、勘弁してくれよ。カナエさんかばおうとしてるんだろうけど。

 お構いなしのマスコミは、この光の園を「狂気の園」と題して滅茶苦茶に書き立てた。

「親としての責任を放棄して自分の子どもを施設に放り込む行為」は、文教委員会や文部省にも取り上げられ、あっという間に社会問題に発展した。

 その騒がれようは、かつての戸沢学園事件を遥かに凌ぐ勢いで世論を動かし、ついに国会答弁、そして海外のメディアにまで光の園は登場してしまう。


 日本中、そして世界中が光の園に注目する中、

 追い討ちをかけるように、

 極めつけの事件が起きた。


 殺人だ。


 殺人。それは心が凍えるような出来事だ。まして身近で起きたとなれば、誰だってショックを受ける。

 その17才の少年は、両親に温泉に行こうと言われ、たまには親孝行をするかと仏心を出した。

 何も知らぬままやって来た彼は、親に裏切られた事を知り、ましてそこが今騒がれている光の園と知り、驚愕し、狼狽した。

 監禁されるのだけは嫌だ。どうしても嫌だ。何とか助かろうと暴れ回った彼は、反省室に叩き込まれそうになった際に逆上し、隠し持っていたナイフで僧侶のひとりを刺し殺してしまう。少年は少年院ではなく「少年刑務所」に送られていった。

 殺された24才の僧侶は、元覚醒剤中毒者であったものの、もう間もなく退園が予定されていた優等生だった。

 あたしはちょうど現場には居合わせなかったが、加害少年の

「死んだ方がマシだっ、てめぇら全員道連れにしてやるっ」

という断末魔の声は、奥の院にまで響いて来た。

 この事件にマスコミが大喜びで飛び付いた事は、言うまでもないだろう。


 マスコミ界の「光の園叩き」はそこまでにとどまらなかった。そんな甘いものでは済まされなかった。

 過去に起こったいくつかの事件(真冬に反省室に入れられた少年が凍死したり、悲観した精神病者が自殺するなど)まで暴かれ(何と!公にする事なく内密に片付けられていたのだった!)、散々書き立てられた上、それぞれの事件の遺族たちが結束して「光の園を廃止する会」が発足された。

 会の代表者が記者会見を開く様子が大々的に報道され、週刊誌や新聞にも一面トップで取り上げられた。


 光の園は

 今、崩壊しようとしていた。


 台風の目の中にいるような日々だった。どんなにテレビで放送されようと、新聞や週刊誌に何と書かれようと、当事者たちは自覚ができず、どうしたものか見当もつかず、ただ息をひそめて見守るしかなかった。

 無論あたしもそのひとりで、自分の身は一体どうなるのかほとほと心配だった。


 その矢先だった。父さんが、あたしを迎えに来たのだ。退園させるべく。

 もう一生放って置かれるのかと思っていたので驚いたぜ(いつ脱走しようか、どこへ逃げようか、その後どうするかまでとヨウコやアユミと話していたくらいだった)。

 どうやら光の園に関する一連の事件を知って「あんなバカ娘でも殺されちゃかなわん」と心配になったらしい。それに光の園に毎月支払う10万円という養育料は、やはり貧乏サラリーマンには痛かったのだろう。

 ぎりぎり、あたしは助かった。


「真面目にやるか?」

 父さんはたたみかけるように聞いた。

 あたしは目を輝かせ、大きく頷いた。

「本当だな」

 父さんは何度も念を押した。あたしはその度に、大きく大きく頷き続けた(父さんは母さんほどしつこくないのが幸いだった)。

 お上人さんや奥さん、それに本祥さんまでニコニコしながら出て来る。

「沖本さん、娘さんはもう大丈夫ですよ」

「この子は立派にやっていけます」

「マリさん、良かったね」

 いつの間にか幹部の坊さんや尼さんまで集まって来ている。みんなそれぞれうっすらと涙を浮かべ、あたしの社会復帰を心から祝ってくれている。あたしもつられて泣きそうになったが、父さんの手前ぐっとこらえた。

「よし、じゃあ家に帰るから荷物を取って来い」

 父さんの言葉にあたしは立ち上がり、奥の院に向かった。


 あんなに出たかったこの光の園が、今たいせつに思えてたまらない。あたしは奥の院に戻るまでに、見慣れた筈の園内の様子をひとつひとつ記憶に刻み付けながら、一歩一歩踏みしめて歩いた。もう二度とここに来る事はないだろう。この小さな世界からあたしは今日、巣立って行くのだ。

 奥の院に一歩入る。あと10分もしない内に、荷造りを終えたあたしはここを立ち去るだろう。もうこの部屋から「出る」事はあっても、こうして足を踏み入れるのは、つまり「入る」のは、これが最後なんだ。


 室内には別れを惜しむ仲間たちが待っていた。

 みんなさびしさを押えきれないながらも、精一杯の笑顔を見せてくれる。奥之院の奥からまで、みんなが出てきてくれた。尼さんたちのはからいだった。

 ヨウコが涙ながらに近付いて来る。

「マリちゃん、頑張ってね」

 喉の奥に酸っぱい感覚が広がるのを感じる。

「マリ、マリ」

 ノリコはそれ以上言葉にならない。何度もリンチして悪かったと言いたいのだろう。

「マリちゃん、元気で」

 キミコが潤んだ目で言ってくれる。無視して済まなかったと言いたいのだろう。

「マリ、負けんでね」

 タカエが精一杯声を押し出す。食事や持ち物を奪ってごめんと言いたいのだろう。

「マリ、あたしたちを忘れねえでね」

 ヤスエが激励してくれる。近くを通るたびに蹴って悪かったと言いたいのだろう。

 そしてみんなが、一斉に抱きついてきた。あたしも両手を広げてみんなを抱きしめる。みんなの思いが痛いほど伝わって来る。お上人さんたちの前では我慢できた涙が、こらえきれずに溢れ出す。

 悔し泣きばかりしていたあたしが、生まれて初めて嬉しくて泣いた。


 この光の園に来てからの事が、短い映画を見るように蘇る。

 仕事の事も、反省室に入れられた事も、飢えていた事も、リンチの事すらも、すべてが懐かしいたいせつな思い出に変わっていった。

 ここでは金も物も必要なかった。だから何かあげる事もできないし、もらおうとも思っていない。それだけに、みんなの思いやりが、優しい心が、あまりに有り難くてならない。

 ここに来て良かった。初めてそう思った。

 あたしはここに来て本当に良かった。

 ここに来なければ出会う事のなかったみんなに会えたから。ここに来なければ学べない事をたくさん教わったから。言葉にならぬ思いをたくさん与えてもらったのだから。

「みんな、有り難う」

それだけ言うのがやっとだった。

 あたしは少ない荷物を抱え、ぽろぽろと泣きながら奥の院を「出て」行った。


 みんなが揃って正門まで見送りに来てくれた。

 少女たちは涙ぐみながら、お上人さんや奥さん、本祥さんたちは無言で微笑みながら、みんながそれぞれの優しさで、愛情で、あたしを社会へ送り返そうとしてくれている。

 あたしは父さんに呼ばれ、未練を残しながらも車に向かった。

 …ふと思い立ち、ぐるりと空を見上げ、その大きさと美しさに眩暈がするほど感動する。

 そう、あたしはこの9か月間、奥之院やその奥、宝前、廊下等の窓から見える「小さな空」しか見ていなかったのだ。反省室には窓さえなかった。

 この空を、愛おしいようなこの空を、ずっと見ていたい気もしたが、父さんに急かされて助手席に乗る。

「マリーッ」

 みんなが口々に叫んで手を振る。

 あたしも助手席から大きく手を振り返す。

「ありがとーっ、みんな元気でーっ」

 父さんがエンジンをかけ、車は走り出す。


 ああ

 光の園が

 遠ざかって行く。


 みんなが手を振り続けている。

 あたしもいつまでも手を振り続ける。

 光の園はどんどん小さくなって行く。


 あたしはここにいた9カ月間を忘れないよ。

 有り難う。有り難う。心から有り難う。

 あたしは涙を拭き、正面に向き直った。

 そして明日に向かって、ぐいと顔を上げる。

 父さんは黙ったまま運転している。

 車はどんどん千葉に、我が家に、近付いて行く。


 そして…。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る