箱の中のリトルガールズ

おもながゆりこ

第1話


   プロローグ




「あんたは小さいうちに、死んだものと思っているからね」


 女は冷たく言い放ち、幼女に背を向けた。


 幼女の眉が曇る。


 台所に立つ母親の後ろ姿を、ただ茫然と見ている。


 水の音だけが響いていた。




「早くご飯、食べなさいよ」


 目の前に食器を乱暴に置かれた幼女は、心の中でこう思った。 


 死んだものと思っている自分に、何故ご飯を食べろと言うのだろう。


 母親の顔をちらちら窺い見ながら、何の味もしない食事をそれでも口に運ぶ。




「早くお風呂、入りなさいよ」


 幼女は衣服を脱ぎながら、また思った。


 死んだ自分に、何故風呂へ入れというのだろう。


 救いを求めて母親の顔を見たが、女は知らん顔だった。




「早く寝なさいよ」


 寝室に追いやられながら、幼女は母親の手を握って左右に振った。


 自分に関心を持って欲しい一心で、振り続けた。


「おかあさん。ねえ、おかあさん」


 震える声で母親を呼ぶ。


 その手はすぐさま振り払われた。


「あんた悪い子だから、あたし相手にしない」


 顔色を見ようとした瞬間、冷たい背中を向けられる。




 パジャマ姿のまま追いかけてくる娘に、女はくるりと向き直った。


 そして娘の目線までかがみながら、念を押す。


「あんたは小さいうちに死んだものと思っているからね。病気かなんかで」




 その言葉は、幼女の潜在意識の奥へ、ゆっくりと沈み込んでいった。




 凍りつくような空気の中で、幼女はこう悟る。




 ああ


 わたし


 死ななきゃ


 いけないんだ。












           ★








 その高校には3日しか登校せず、早々に退学届けを叩きつけてやった。アタシの人生にこんな学校、必要ないと思ったからね!

 …といえばもっともらしく聞こえるが、実際はイジメが始まりそうで、恐ろしくて耐えられなかったんだ。同じ1年生は勿論、上級生までアタシを凄い目で睨んでいる。

 そりゃそうだ。登校初日からバッチリ化粧をキメ、まっ茶髪に染めた髪に逆毛を立て、花まで飾り、制服をアタシ流にアレンジして行ったんだから。目立つに決まっているよ、んなもん。早速校長室に呼ばれて説教をくらった。

「君はこの学校で何を学びたいのかな?」

だと。あほか!気にいらなきゃ首切れよ、バーカ!


 2日目の朝は、2年生の女に怒鳴られた。

「何でお前だけ違う靴履いてんだよ!何でだよ!!」

 いーじゃん、アタシの勝手じゃん。制服にヒール履いちまって、わりーかよ!

 3日目は3日目で、アタシの姿を見た途端に1年生の女どもが走って逃げやがった。

 3年生は聞こえよがしに言った。

「わあ、凄いのが来た」

 あーあー、居心地わりーよ!!ってか、居場所ねーよ!


 もう翌日からは行かなかった。

 学校なんて嫌いだ。昔から大嫌いだ。

 働きてーよ。働いて金貯めてこの家出てーよ、こんな家!

 で、喫茶店のウエイトレスに応募して、その日から雇ってもらった。

 嬉しかったね。立ち仕事は確かにきついけど、金の為だもん。そりゃー我慢しまっせ。学校よりずっといい。

 

 アタシは中学2年生の時から、地元じゃ有名な「サセコ」だった。人の目や、自分の将来なんてものはどうでも良かった。

 自分をたいせつに?なあに、それ。アタシはこんな心も体も人生も、ちーっともたいせつでも何でもないよ!

 オヤジはアタシを見るたびに、苦虫をつぶしたような顔で頭をむしり、オフクロはただヒステリックにわめき散らしていた。アネキはアタシとまったく目を合わさず、そこいら中で自分に妹などいないと言い張っていた。

 電話も取り次いでもらえず、手紙も日記も盗み読みされる、暴力と放置に満ちた極端過ぎる毎日は地獄だったよ。

 学校にも家にも居場所はなく、行く当てもなければ理解者もいない、世界一孤独な状態がもう何年も続いていたさ。涙も枯れ果てていたし、奴らの前で泣くのは悔しく、意思表示をしない化石に変わる以外に何をすればいいのか分からなかったね。

 誰に何を言っても無駄だったし、その気力もなくなっていた。奪われちまったさ。…って、誰に奪われたんだろうねえ。


 特に中学時代なんて、何すりゃいいか分かんなくて、途方に暮れちまったよ。アルバイトさえできないしね。中学生を雇ってくれる所なんてありゃしないよ!

 勉強も出来なかったし、体育もダメ。音楽や絵画にも興味ないし、仲間はいたけど、カレシはいるような、いないような、自分だけが宙にポンと浮いているような感じ。有り余るエネルギーをどう使っていいか分からず、近付く男は手当り次第に喰いまくってやった。

 男と抱き合っている、その瞬間は満たされた。もしかしてこの人ったら、アタシを愛してくれるかな、と期待した。しかし合わさっていた体が離れた途端に心も離れ、アタシはもっとさびしくなった。

 アタシはろくでもない男ばかりが自分に寄って来ることに辟易しながら、そいつらを突き放したり、傷つけられたり、そしてまた性懲りもなく新たなる男を見付けては、どうにかこの心の痛みを癒やそうとしたが、癒してくれる男なんてもんはいなかった。

 バイトも長続きせず、あちこちの喫茶店やらスナックやらで、ちょこまかバイトしては何かしら面白くない事があって辞める。で、またすぐ次のバイトなり男なりを探すって訳。これの繰り返し。

 将来どうすんの?なんて聞かないでよ。アタシには将来なんてありゃしないんだからさ。いつ死んでもいいんだから!


 アタシ、沖本マリ、16才。

 キャンディーズもピンクレディーも解散し、山口百恵が引退して間もない昭和五十年時代、見えない明日にもがき苦しむ自殺志願生だった。


 それは嬉しくないサプライズだったぜ。真夜中、未成年の分際で大酔っ払いをかましながら、よろよろと家に帰ったアタシは、突然何者かの襲撃を受けたのだった。

 真っ暗な家の中に入った瞬間、確かに異様な雰囲気を感じ取った。

 誰かいる。そう思った次の瞬間、アタシは胸ぐらをつかまれ足をすくわれた。ひっくり返ってドアに頭を打ち付け、なおかつ腹を蹴りあげられる。

 何だ、こいつら。すぐさま応戦するものの、敵は図体のでかい男3人だった。闇の中、見知らぬ男どもを相手に大トラ状態のアタシは死闘を繰り広げる。だが相手は手加減をしない。アタシはたちまち引き倒され、めちゃくちゃに殴打され、あっと言う間に失神した。

 薄れゆく意識の中で、オフクロの声が聞こえた。

「ではお願いします」


 意識が戻ったのは車の中だった。

 ロープでぐるぐる巻きにされたアタシは後方座席の更に後ろ、荷物置き部分に転がされ、身動きできない状態だった。アタシャ、荷物じゃねーっつーの!!

「おう、こいつ起きたぞ」

 アタシの前に座っていた男が、前にいる2人に声をかける。

「何なんだ、てめぇらあっ」

 とりあえず叫んだ。無理もない。本当に何なんだろうと思ったのだから。

 次の言葉は出る間もなかった。アタシは顔面に受けたパンチによって、再び気絶しちまうのだった。


 ひどい悪臭の漂う、不気味極まる部屋に投げ込まれた。

 ガチャリ。ドアが無情に閉められる。

 真っ暗で何も見えない。ハンパじゃないアンモニアの臭いが鼻をつく。ようやくロープをほどかれたアタシは、半分気絶したまま汚い板の上をごろごろ転がる。

 何が何だかさっぱり理解できない。ここがどこで、今が何時で、あいつらが誰なのかも。

 たったひとつ分かるのは「自分がまだ生きている」って事だけだ。

 闇に目が慣れ、ぼんやりと見えてきた。そこは一面、素人が建てたと思われるプレハブの小屋だった。床も壁も天井も、すべて薄手の板で出来ている。しかしブチ壊せる程の薄さではない。

 壁一面に、何とも気味の悪い絵が描かれている。座禅を組む大仏の絵だ。部屋の隅に大きなアルミ缶が置かれてある。そこに大小便がされているらしく、ひどいアンモニア臭はそこから漂っていた。ああ、吐きそうだ。何でこんな目に遭うんだ。

 アタシは痛む全身をさすりつつ、朝まで固い板の上に転がったまま一睡もできなかった。


 ドアが開き、朝日が差し込んだ。2人の男のシルエットが浮かんでいる。闇に慣れたアタシの目にはイテーほど眩しいぜ。アタシは三角座りをしたまま、男どもをジロリと睨みあげる。

「どうだ、反省室で一晩過ごした気分は」

 このヒデー部屋、反省室ってーのか。アタシは黙っていた。一言も口を利きたくなかったぜ。

「来な」

 アタシは男どもに両側からしっかりとふんづかまえられ、その部屋を後にする。

 アンモニアの悪臭には、最後まで慣れる事はできなかった。


 その後、そいつらにメッタ打ちにされた可哀想なアタシは、腫れ上がった顔を押えつつ、またどこぞの部屋にブチ込まれていた。

 ガチャリ。また乱暴にドアが閉められる。

 

「大丈夫?」

 誰かの声がする。女の子の声だ。それだけは認識できたが、返事をする気力がない。

「新入園者?」

 別の声がそう言った。誰だろう。そして、シンニュウエンシャって何の事だろう。

 アタシはとりあえず声の主を確認すべく目を開け、自分の周囲を幾人もの少女がとり囲んで心配そうに見入っているのに驚いた。ざっと見て15人は居る。

 だが全身痛んでたまらず、何か言う気力も体力も何もなくまた目を閉じる。ただ寝ているのがこんなに気持ちの良い事とは初めて知ったぜ。

 ああ何て事だ。さっぱり訳がわからん。昨日から殴られっぱなしだった。一体ぜんたいどういう事なんだ。しかし何となくではあるが、この少女たちだけは自分に危害を加えないだろうという不思議な安堵感があった。

 疲れ果てたアタシは静かに眠り落ちていった。


 随分よく眠ったような気がする。

 いつの間にか二段ベッドの下部分で眠っていたアタシは、ひとりの少女に起こされて目覚めた。彼女に続いて次から次へと少女たちが集まって来る。最初にアタシを起こした少女が明るく言った。

「うち、チカコって言うん。行ってりゃ高2なんやけど中退しとうたい。名前何て言うと?」

 あまり答えたくはなかったが、無視する訳にもいかず短く答える。

「マリ、行ってりゃ高1だけど中退してる」

 少女たちが一斉に歓声をあげた。

「うわあ、良かった。喋るるやなか」

 …って事は、みんなアタシが喋れないって思ってた訳?

 別の少女が興味津々って顔で聞いてくる。

「どこから来たん?」

「千葉」

と答えると

「フサエは広島からじゃよ」

だって。

 自分を名前で呼ぶとは幼いねって思ったら、その子なんと13歳だって、へー。

 チカコが言う。

「うちは長崎から来たと。みんな全国から来とうばい」

 もっとへー、だった。20畳くらいの室内には所狭しと二段ベッドが並び、様々な年代の女たちがそこからも物珍しそうにアタシを見ている。何なの?その視線は。

 もう一度集まってきた少女たちを見る。彼女らは一様に髪を短く刈られ、ジャージの上下をまとっている。年頃の娘がまさか自分の意志でそんな格好をする筈がない。

 アタシは青ざめてきた。ようやく訳が分かってきたのだ。自分が更生施設に叩き込まれたらしいって事を。

「ここ、どこ?」

 アタシの質問に、チカコが答える。

「光の園」

 光の園…?ゾッとした。耳を疑うとはこの事だ。その名前をアタシは知っていたのだ。


 当時、世間を騒がせた事件のひとつに「戸沢学園事件」というのがあった。

 それは学園とは名ばかりで、実態は親に見放された不良どもがブチ込まれる更生施設の代表格であり、内部では度を越したスパルタ教育が連日行われ、死者を何人も出した事でマスコミが大騒ぎして有名になったのだ。

 校長こと戸沢明という男は逮捕されたものの、施設そのものは存続している。アタシら不良仲間の間でも、少年院より恐ろしい場所としてしばしば話題になる程だった。

 その戸沢学園に迫る勢いで収容者を増やしていたのが光の園だった。

 ただし光の園は、戸沢学園と大きく異なる点がある。

 戸沢が非行少年少女の更正を目的として造られたのに対し、光の園はもともと「精神病者の社会復帰」を目指して立ち上げられた施設だった。

 それがいつしか不良息子や不良娘に悩む親たちの駆け込み寺と化し、新聞や雑誌にも取り上げられるようになっていったのだ。第二の戸沢学園、という見出しの元にデカデカと載っていたその記事を、アタシも目にしたことがある。

 場所は静岡県。千葉の自宅から、随分と遠い所まで来ちまった。

 内容は寺。つまり宗教団体であり、監禁されている者(60人くらい)以外は僧侶だった。

 お上人(おしょうにんさん)と呼ばれる代表者が取り仕切っており、その妻(奥さんと呼ばれていた)が実質的なナンバー2、ナンバー3が本祥(ほんしょう)さんという40歳くらいのおっさん、男性僧侶(坊さんと呼ばれていた)が20人くらい。女性僧侶(尼さんと呼ばれていた)がだいたい10人くらい。坊さん、尼さんの中でも「幹部」とか色々いるらしい。よく分かんねーよ。

 と言っても得度(光の園ではこのような言い方をした。このずっと後に、ある新興宗教団体が毒ガスを撒き散らすという大事件があり、出家という言葉が定着した)している者のほぼすべてが、最初はアタシと同じように、親なり亭主(これ悲惨だね!)なり親戚なりに無理矢理叩き込まれた「精神病者」あるいは「ワル」で、ここで生活していく内に病気が治ったり、自己の悪に目覚めたりして、坊さんや尼さんになったとの事だ。

 少女たちはよっぽど暇らしい。聞きもしないのに、ペラペラとよく喋ってくれた。こっちはただ聞くしかない。そして驚くしかない。

 みんな本当に全国津々浦々から集まって来ていた。ん?正確には集められていた。北は北海道、南は沖縄から、全国どこにでも光の園は「お迎え」に行くらしい。

 ただアタシの関心はそんな事より何より、いつになったら出られるのか?という一点に集中していた。しかしそれは

「当分は無理」

という一言で、素気無く振られる事となる。

 なんちゅうこった!親は遂にあたしを捨てた訳だ。ごみじゃあるまいし。

 うんざりしながら室内を見回す。…と、そこでアタシは実際に鳥肌を立てる事になった。

 壁と「会話」を交わし続けるばーさん。

 頭から毛布をかぶり、ただ一点を見つめ、時折独り言をつぶやく若いんだか何だかよく分かんねー女(後から知った事だが、発狂してしまった人というのは、その時点で年令が止まってしまう為、いつまでも老けないという事だ。つまり年令不祥な顔立ちをした者が多い)。

 ベッドの上に腰掛け、おかしくもないのに大口を開け、声を出さずに笑い続ける女。その口からは絶え間なく涎が流れ続けている。

 その横には顔にまったく表情のない女が、ただ立ちすくんでいる。

 彼女らが「精神異常者」である事は、無知なアタシにさえ一目瞭然だった。震え上がったよ。アタシャそういった人を間近で見た事が一度もなかったのだから。本当に眩暈がする程に怖かった。少女らはともかく、この異常な女どもと同じ部屋でずっと過ごす事になるなんて、冗談じゃないよ、心底ぞっとするぜ。同室にいて、どう気をつけりゃいいのさ!

 彼女らに襲われぬよう(これも後から知った事だが、彼女らは基本的におとなしく、幻聴を聞いて誤解して暴れるとか、何か刺激をしない限り、勝手に襲い掛かってくる事はなかった)気を払いながら窓を見る。そこには青い鉄格子が何本もはめこまれている。鉄格子の隙間から見える部屋をさしてチカコに訪ねた。

「あの部屋は?」

 チカコは一旦そこに目をやってから答えた。

「奥の院」

「じゃあここは?」

「奥の院の奥」

 つまり女子は女子で監禁されているが、まだマシなのは奥の院、どうしようもないのはその奥、という訳だ。何だ、そりゃ。まだ信じられず、悪夢を見ているような気分だった。自分がそんな所にブチ込まれちまったなんて、ああ何て事だ、どうすりゃいいのさ。


 ガチャリ。部屋の鍵を開ける音がする。

「おう」

と言う声と共に、3人の男が入って来た。アタシを家まで迎えに来て、散々殴ってくれた男が2人いる。ひとりはバリカンを手にしている。

 何だ、こいつら。アタシは身構えたが、男らはずんずん近付いて来る。

「あっ」とも何とも叫ぶ暇はなかった。


 …数分後、奴らによって長かった髪を、ほとんど坊主頭に近い状態に刈り込まれたアタシは、己の頭を何度も触りながら、ただただ泣き崩れていた。

「長い髪は悪霊に引っ張られて、発狂する可能性が高いので切らなくてはならない」

という、狂っているとしか思えない理由の元に。あーあ。


 食欲などまるでない。第一ここの食事は、臭くて臭くて食えたものではなかった。よく刑務所の食事を「臭いメシ」というが、ここのメシがまさにそれだった。どう離れてもクッセーの、クッセーの!人間の食うものとは思えねーよ!

 アタシは吐き気を堪えつつひと口だけ飲み込み、後は残した。アタシの残したものを、みんなが分けて食っている。嬉しそうに、こんなものよく食えるな。しかもアタシの食いかけだぜ。しかしみんな食う以外に楽しみはないらしく、よく食っていた。

 人の食べカスさえも

「頂戴、頂戴」

と叫んで、まあ喜んで食う事、食う事。ひと粒のご飯も残しやしない。

 アタシは自分にあてがわれた粗末なベッドに横たわり、ひたすら眠り続けた。眠っている間だけは何も考えなくて済んだからさ。

 だが目覚めるたびに、一瞬ここがどこか分からず、ああ夢でなく本当に監禁されているんだと思い知らされ、何ともやりきれないさびしい気持ちになったよ。

 朝なんて来なきゃいいんだ。また不愉快な一日のスタートだぜ。もう生きたかねーよ。監禁されるくらいならいっそ死んじまいたいよ。  

 まったく食わない、動かない。この部屋に鏡はないが、自分が日に日に痩せ落ちていくのが、手に取るように分かる。これじゃまるで寝たきり老人だよ!

「マリちゃん、寝てばーいるとほんまに病気になっちゃうよ」

 マユミもタカエも心配そうに言ってくれるが、どうしようもなかった。アタシは布団をかぶり、つらいやら、悔しいやら、さびしいやら、なんやらで泣いた。

 しかし泣いてばかりいるのはアタシだけではなかった。チカコ、タカエ、マユミ、アキコ、フサエ、ケイコ、ナオヨ、ミナコ、ノリコ、アサコ、ミカ、カズミ、クミコ、ミツエ、みんなよく泣いてた。

「シャバに出たい」

 そう、ここから外は娑婆(シャバ)だった。

「家に帰りたい」

 どうにも出来ない少女たちが、悔しさ余って地団駄を踏む。周囲は、慰める事も励ます事も出来ない。

「ここから出たい」

 それは全員の思いだったのだから。


 光の園では一日に7回、お経をあげる。

 朝5時に起床してまず1回、そして例の「臭い朝飯」を食ってからまた1回、「臭い昼飯」の前に1回、食い終わって後片付けをしてからまた1回、3時にまた1回、臭い(くどいようだが本当に臭いのだ)夕メシの前に1回、8時の消灯前、とどめを刺すかのようにもう1回(いっそとどめを刺してくれ)。

 そして毎週日曜日に、光の園に入っている者がひとり残らず本道(ほんどう)という場所に集まり、盛大に「お祭り」を行うのだった。お祭りったって、楽しいお祭りじゃないよ。みんなで延々お経をあげるだけだ。

 この時に入園者の家族が、遠路はるばるやって来て参加する事もあり、面会はこの時に限られている。入園して1ケ月間は面会が禁じられている。その面会時間も20分と短く、たいていの者はただ泣くだけで終わっちまう。話にも何もなりゃしない。ただ会うだけだ。

 アタシのオヤジとオフクロは一向に現れる気配はなかった。アキコの親もマユミの親も頻繁に手紙をよこして来るが、アタシには葉書一枚来なかった。

 仲間のキミコの両親と、2人の弟が面会に来た時の事だ。キミコは普段すこぶる元気な娘で、みんながシャバ恋しさに泣いている時でも泣かなかった。自分はもう一度あんな家に戻るくらいなら、死んだ方がマシだと言い張り、母親の再婚相手を包丁で刺した事もあると勇ましく言っていた。心から憎悪し、憤慨した顔でそう言っていた。

 入園して2回目のお祭りの最中の事、全員がお経を唱えている中、アタシはキミコが声を殺して泣いているのを見た。悲しくて、悲しくて、堪えきれないといった様子で、何だろうと心配になる。

 そしてお祭りが終わった直後、キミコは家族に駆け寄り、しがみついて号泣していた。見ているアタシらは誰も何も言わなかった。責めもせず、なじりもせず、ただじっと見ていた。言葉などいらなかった。キミコの気持ちが分かるから、自分もきっとそうするだろうから。

 また別の時、病人さん(精神病者の事をこのように呼んだ)のひとりであるチヨミちゃんに、父親から箱詰のお菓子が届いた。

 チヨミちゃんはかなり重度の精神分裂病(当時はこのような言い方をした。今は統合失調症と病名が変更されている)であり、時々幻聴を聞いて暴れ出したりする為、みんなに敬遠されている。敬遠というより、アタシら不良少女は、その時点でまだ精神病者を特別視していたような気がする。何となく自分らとは別世界の人のような、そんな目で見ていた。

 尼さんのひとりから、その箱詰の菓子を受け取ったチヨミちゃんは、同室の人々全員に菓子を配って回った(この時チヨミちゃんが、アタシの目をきちんと見た上「マリちゃん」と、名前を呼んでくれた事が今も忘れられない)。自分のしもの始末すらできないチヨミちゃんに、そんな気配りが出来る事にも驚いたが、みんなに菓子を分けた後、床に座り込み(椅子などなかったからね)声を出さずに泣いている姿にはもっと驚いた。

「やだ、チヨミちゃんが泣いてるっ」

 ヤスエが声をあげた。

 みんなが、呆然とチヨミちゃんを見る。

 そして

 全員が

 同時に泣いた。


 俗に世間の人々は、一度発狂した者はもう決して正常には戻らないと思っている。勿論アタシもここに来るまではそう思っていた。しかしそれは間違いである事に、その時はっきり気付いた。

 精神病は治る。チヨミちゃんのその姿が証明していた。

 チヨミちゃん、頑張って。チヨミちゃん、どうか治って。

 アタシは祈るような気持ちで、受け取った菓子をたいせつに食べた。


 シャバでいつも、昼過ぎまで眠っていたアタシら不良少女にとって、朝の5時に起床というのはなかなか堪える。消灯は8時なのだから、消灯してからすぐに眠れば寝不足という事はあり得ないのだが、長年の不規則な生活に慣れきっている上、暗い中でべらべらと喋りまくっているアタシたちは、そうそう光の園の思惑通りにいきゃあしないよ。みんながみんな、ぱんぱんに腫れ上がった瞼でむっくりと起き上がる。

 ああまた朝が来やがった。不快極まりない一日のスタートだぜ。すぐに朝のお経。みんな寝癖のついた頭のまま(短髪なりに癖はついた)、経本を片手に部屋の中央にあるちゃぶ台に集まる。

 ガチャリ。尼さんのひとりが鍵を開けて(奥の院から、奥の院の奥に通じるドアには鍵が二つもかかっていた)入って来る。

「おはようございます」

 頭を下げ、読経が始まる。

 般若心経(はんにゃしんぎょう)。

 何を言っているのか、意味しているのか、さっぱり分からない。ただ、昔オフクロがよく唱えていたぜ。何も分かっていないままに、アタシも経を唱える。こんな事をして何になるのだろう。これで非行、あるいは病気が治るものなのか。

 読経が終わると、必ず尼さんの説教が始まる。病人さんにはあまり言わないが、アタシら非行グループにはかなり手厳しい。みんなここに来るまでにどんな事をして来たか、どれだけ人に迷惑をかけ、傷つけ、多くの人を悲しませたか、今反省すべきである。そうすればきっと救われる。少なくとも一年はここで修行しなければならない。仮に親が連れて帰ると言っても、立ち直るまではお上人さんが許可しない。みんなで一緒に頑張るんだ。

 同じ話を毎朝聞かされる。毎朝聞かされていい加減飽きそうなものの、アタシたちは聞くたびに泣いた。とめどなく泣きながら、それぞれの故郷を、家族を、ひたすら思った。

 アタシを含む非行少女たちは、それぞれ不幸な家庭に生まれ育っていた。

 親が離婚しただの、愛人を作っただの、食えないくらい貧乏だったの、うわっつらを撫でたような不幸(これだけでもじゅうぶん深刻だ)ではなかった。

 ただ話を聞くだけでは「ありきたりの不幸」だろうが、当のアタシらには真剣に取り組まなければ、あるいは逃避せざるを得ないほどの課題だった。そしてその課題から、多くの少女が逃げた。ひとりでしょうにはあまりにも重い荷物だった。支えてくれる人は誰もいなく、本来味方である筈の親には突き放され、若いながらも嫌という程の辛酸を舐めさせられていた。


 例えて言うなら…。

 そう、例えて言うならアタシは…。

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