白雪城の伯爵
千夜野
第1話 白の眠り姫
白い闇の中にたゆたっている。そこには何もない。ずっとない。
明日も昨日も、夢も現も、痛みも哀しみも。微睡みの中でただ、ゆだねていれば良かった。何も変わらず、何も起こらず、何も感じず、大きなものと一つになって、永久に……
「――」
不意に、波紋が生まれる。ほんのささやかな揺らぎ。けれどそれは確かな変化だった。何度も何度も繰り返され、やがて泡立ち、小さなうねりとなっていく。水面から、水底へ向かって。
「――エ」
声。そう気付いた時、うねりは抗いようのない大きな渦となって、巻き上げていく。何を? 誰を? ――私を!
「リーリエ!」
突然、世界は息を吹き返した。
ぼんやりと色づく無数の像。またたくたびに、辺りが輪郭を取り戻していくほどに、それまで一体となっていたはずのものから剥離してゆく。目覚めかけた意識が異物のごとく投げ出され、〝私〟は生み落とされた。
「リーリエ」
あお――。青……蒼。
それが、まっさきに浮かんだ言葉だった。目前に広がった色。虹彩。
「ああ、やっと……僕の許へ戻ってきてくれたんだね」
深い深い、その蒼。切なく揺らぎ、零れ落ちる雫。
「リーリエ――愛おしい、僕の妻」
この世で最も美しく哀しい瞳が――私でない誰かに向けられていた。
*
その名で呼ばれることに、未だ慣れない。
リーリエ……リーリエ? と。二度目に呼びかけられてから、ようやく少女はそれが自分への呼びかけだと気付くことが出来た。
目の前には、スープを掬った匙が差し出されていた。
「大丈夫? どこか、痛い?」
視線を上げると、匙と椀を持った青年が心配そうにこちらを覗き込んでいる。空白になっていた思考が回り始め、思い至る。自分は今、寝台の上で、彼に世話をされていたのだった。慌てて頭を振った。
「ごめんなさい、一瞬、頭がぼうっとして」
もう何ともない、と口早に言い添える。少しだけ探るように見つめられたものの、納得したのか彼は小さく息を吐いた。持っていたものを脇へ一旦置いて、こちらに向き直る。
「それなら良かった。でもね、一つだけ言わせて」
「……はい」
「そんなことで僕に謝らないでいいんだよ、リーリエ」
ごめんなさい、と言いそうになるのを、〝リーリエ〟は何とか堪え、頷いた。
「遠慮もしないで。だってここは君の家で、君の部屋で、僕達は――」
相手の双眸、その深淵な蒼が一心に向けられる。包み込むような優しさと慈しみに満ちた声音で、励ますように、諭すように彼は言った。
「夫婦、なんだから」
それはまるで、無二の宝物を慈しむかのような響き。
けれどリーリエは気まずく目を逸らし、返すべき言葉を思い付くことが出来ない。
それは感情の問題ではなく――記憶の問題だった。
わたしが、と。何度目になるか分からない問いかけを、また繰り返してしまう。
「わたしが貴方のことを――何を憶えていなくても?」
あの日。〝リーリエ〟が寝台で目覚め、初めてこの美しく、哀しげな眼差しと出逢った日。
その見も知らぬ青年は、喜びもあらわにこちらを抱きしめ、涙さえ流していた。けれど、リーリエは彼のことはおろか、自分のことすら何一つ、赤子同然に分からなかった――憶えていなかったのだ。
『君は本当に長い間、眠っていたんだ。病気でね、ずっと死の淵に居て』
ありのままにそのことを伝えても、彼は少し驚いただけで、動揺した様子は見せなかった。
『君がこうして、戻ってきてくれた。僕にはそれだけで充分なんだよ』
そして彼は、自分はリーリエの夫なのだと告げた。
『大丈夫。目覚めたばかりで、君はまだ少し夢の中に居るだけなんだ。体が回復すれば、きっと少しずつ思い出していくから。あせらないで……』
「もちろん、当然だよ」
今もまた彼は、迷うそぶりもなく頷いた。何度目か分からない問いかけに対する、何度目になるか分からない答え。それでも嫌な顔一つせず、どころかそれを語るのが幸せで堪らないと言わんばかりの口調なのだった。
「君が忘れていても、僕が憶えている。君がたとえ全てを思い出せなかったとしても、君が僕の妻であるということは何も変わらない。君が不安になるなら、何度だって言うよ。僕は君を、愛しているって」
手許に温もりが宿る。壊れ物に触れるように優しく、彼の両手がリーリエの手を包んでいた。
あいしている――。その言葉に見合う返事をいつも見つけられない、と思う。今回もまた曖昧に頷くことしか出来なかった。
「ありがとう……伯爵」
それだけは答えると、相手は微笑んでくれていたが、少しだけ淋しそうだった。反射的に口走る。
「あの、いつか、思い出したら……」
「うん、でも、無理はしないで」
――それは、彼と交わした初めての約束。
『お願い、リーリエ。約束して欲しいんだ』
いつか君が全てを思い出したら。僕のことを、夫だと認めてくれたのなら。
『その時は必ず、僕の名前を呼んで』
――それが夫婦に戻った、証となる。
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