<46> 指向性を持つ音

 たとえば道を歩いていて花の芳香に足を止める。辺りを伺う視線は彷徨い、ようやっと香りの元を、随分と離れた建物の二階、道路を挟んで向こうの家の庭先、あるいは、すれ違ってもうずっと後方まで行ってしまった見知らぬ誰かの手提げの中に見つける。赤紫、水色、黄白、もしくは薄桃色の花弁は、あまのじゃくに揺れる。

 漂うそばから薄められ消え去ってしまう芳しさは、指向性を持ってただ一人の鼻先に自らを届け、やはり悪戯の儚さで楽しませると同時に失われていく。

 それは選んだ誰かに繋げる存在の証明。いつ切れるやも知れぬか細い線が導く自我。

 頼りなくとも非力でも幽かでも確かに、あなたが気づいてくれるのなら、私は在る。

 その音も。

 ただひとりだけを。




「ロディさっロディいっっ」

「ルうぅっ」




 叫び声が部屋の空気を割いた。

 呼応する声は部屋の後方上部に設けられた明かり取り用の細長いガラス窓を壁ごとぶち破り、破片と残骸を派手に撒き散らして登場する。どどんがしゃんという音に、私に覆い被さろうとしていた男が咄嗟に固まる。クスリが馴染んだ脳には何が起きたのか瞬時に理解できない。動こうと、あるいは怒鳴ろうとしたのかもしれない。

 だが、緩慢な反応を待つお人好しなどいない。

 名乗りも口上もすべて後回しに、剣の切っ先から吹き出た風で男を壁まで飛ばし、得物を投げ捨て床を蹴った。

 トンと軽い音だけを床に残して、その音が誰かに届く頃にはすでに壁に張り付いた男の腹に膝をめり込ませていた。どごん、部屋全体が揺れる。

 怒気に毛が逆立つ。揺らめく魔力が実際に毛を上方に漂わせ、金色を輝かせる。


「人の女に手を出すヤツぁ」

 男の横面に拳をめり込ませ、崩れるのを加速させる。再び部屋を揺らす音を立てて床に叩きつけられた男は声も出せずに大人しくなった。


「はいはーい。証人殺しちゃ駄目だからねぇ〜ルージュちゃんお待たせ。怖かったわよねぇ、アイツも怖いわよねぇ?」

「ルージュさまっっ」

 エコー姐さんとガラ・ムールスも一緒だ。

 ガラはすぐ側に寄ると潤んだ目をこちらに向けた。しっかりと目を合わせ、大丈夫、間に合ってくれたから、というと、ほぉっと詰めた息を吐き、素早く縄を切る。それから振り返った。


「ジルベール様っ残しておいてくださいよ?」

「イヤだね。俺の手で粉微塵にしてやる」

「だから、殺しちゃ駄目だって。まだ」


 エコー姐さんはロディさんの剣を拾うと、こちらに歩きがてら転がった破片のひとつを蹴飛ばす。

 棚の横、何もない壁に当たって砕けた。


「まだ俺たちの明日は決まっちゃいない。奈落は簡単にこちらを向く。気まぐれにな」

 同じ口から出たとは思えない厳しい男の声で元護衛騎士団小隊長エルンスト・コラーグは言う。ロディさんは懐から出した拘束具と剣を交換しながら、何てことないという調子で返す。

「俺は心配してませんよ、隊長。アイツもオンナが掛かってるんだ。しくじる筈がない」

「なるほど」


 短く応えるとしゃがみ込み、華麗な手付きで白目を剥く男の手足を拘束する。そして、ガラに顎をしゃくった。

「俺たちオトコは結局オンナのケツの為に働いてるってワケだ。ここはしばらく任せる。我々はこちらから館を捜索する」

 扉に手を掛けて、ガラが並ぶのを待つ。先に出ろといいつつ尻をぽんと叩いて、顎下から振り上げる平手打ちを食らってよろめく。そういう関係?



「ル・・・ゴメン。怖い思いを」

 ロディさんはソファの横まで来ると膝をついて視線を合わせ、頬に付いた涙の跡を指先で優しく拭う。目元に触れる手に閉じた目を開くと、こわばった笑顔があった。

 怖い思いをしたのは彼も同じだったのだろう。私を抱き締め、いや、縋るように抱きついた。背に回る頼りがいのある手が温度を、首筋に埋まる優しい頬が弾力を、鼻先をくすぐる金色の髪が呼吸を、そして近づく胸が鼓動を感じとる。

 彼が彼として生きていくために必要な、私という存在を。

 私がもはや彼なしでは生きていけない以上に、彼は彼自身を保つ為に私の存在が必要だった。

 このジルベール・アダンという男はどうしようもなく身勝手な男だ。

 しかし、だからといって彼を否定することはできない。私もまた自己中心的な思慕を彼に寄せていたのだから。

 結局、一方通行がどこかでかち合ったときに各々が、相手と自分の感情が同じだと信じるだけで、互いの恋情や愛情を保証するものなど何ひとつ存在しない。

 それでいい。

 私は彼の髪を掬い、彼の匂いを吸い込む。汗と泥と男臭さと、必死に私を求める彼そのものをぜんぶ。


「ル・・が、俺の色を身に付けていてくれたから。すぐに見つけられた」

 少し顔を離して私を見つめたロディさんは、やっと落ち着いたようすで柔らかに微笑んだが、それを受け取った時を思い出す私の心臓は、どうしようもなく赤面するのだった。

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