<4> 名前のない落とし物

「社長ぉおお〜〜」

 出版社の扉を開けるとなしに情けない声が出た。

「あらあらルリルーちゃん、お昼は食べた?」

 衝立の向こうから大人の色気をふんだんに纏った女性の声がした。たった一人の従業員の哀れみを誘う態度に、一切の動揺もない返し。要するに忙しいのである。

「一番の箱、今週のファンレター。今日発売の関連本も届いてるけど、どうせ読まないでしょう?」

「えぐえぐ。聞いてくださいよ〜〜」

「聞いてるわよ。二番の箱は校正のオシゴト。今週中だから。それで?」

「ガルボのコーヒー、砂糖入れずに飲んじゃったんですよぉ。苦い〜〜」

「それだけ?」

「今はそれだけです。残りは勤務後に」


 仕事モードに切り替えて自分の机に戻る。

 今日の午前中は本屋さん二軒に売れ行きの確認、それから契約作家お二人の執筆状況の確認と外回りの仕事だったから、自席に着くのは初めてだ。

木の椅子に社長手作りのクッション。お尻の下と背中に当てる部分がくっついている特製品。長時間の座り仕事は腰に負担が掛かるのよってこれを愛といわずに何をやいわん。


 紙とインクの匂いを胸いっぱいに吸い込んだら、さっきの出来事はもう頭の中から消えている。

 自作に対するファンレターをまず手に取る。社長が開封し、チェック済みだ。

作品が話題になって売れ行きが上がった頃から、少しずつおかしな手紙が混じるようになった。

 その手紙を思い出すとまだ微かに手が震える。

『フシダラなオンナにバツを与えよ』

 新聞の切り抜きを動物の血で汚した脅迫文。女性ファンがよく使う可愛らしい便せんの中に入れられていた。

 私の代表作『エル・グランデ夫人の書簡』の主人公の名はエル夫人、そして覆面作家である私の筆名もエル。特に思いつかなくて適当に決めたのが拙かった。同名のためか、小説の内容が手紙だという性質上のものか、夫人と作者を同一視する人がいる。

 その上で、嬲りたい、攫いに行くといった身の危険を感じさせる内容の手紙がちらちら混じるようになり、ついには脅迫文まで来たということだ。

さらにエスカレートすれば、危険な魔導具や刃物などが同封されることもあると、社長がすべて確かめてくれるようになった。社長は私よりも魔力も高いし、鑑定の魔導具の取り扱いにも長けているから、安全に確認できるんだって。

 もちろん普通のファンレターの方が圧倒的に多く、応援や感想、批評から批判までさまざまな意見、読者の意思表示を受け取っている。そのいずれもが他者の視点からの『書簡』であり、今後の創作の種となるものとしてすべて大切に読むことにしている。

 それは小さな出版社の社員であり作家である私の、最も重要な業務のひとつといえた。



「あぁ〜〜いいお湯でした。社長ぉお風呂ありがとうございましたぁ」

「一緒に住んでるんだから毎日のことなのに、律儀ねぇ」

「いえ居候の身なんで。お礼くらい幾ら言っても足りません」

 仕事上がりは一緒に社長の家に帰る。といっても、外階段で一階上に行くだけ。リビングダイニングキッチンと風呂トイレ、私室三つの一般的な間取りの部屋だ。

 十六の誕生日に家を出てその日のうちに働く場所と住む場所を同時に見つけられた幸運を、私は噛み締め感謝し続ける。

 安易に考えていた街での生活に想像力が足りなかったことを、ファンレターや新聞や街の噂話さまざまなことから知ったから。


「それでね」

 夕飯を食べながら、カフェ・ガルボでの出来事を報告する。

 ここに住む時の条件の一つが、外で出会った人、特に初めて会う人については細かく報告することだった。人を見る目を養い、出版社の仕事にも役立てよとのことだ。

私自身の印象とともに報告、と少々難しい注文も付いている。今までは特に難しいと思ったことはなかったが、今日の方についてはとても難しい。

 私はロディと名乗った彼をどう思ったのだろう。


「何というか・・・つかみ所のない人、でした。こう、胸と腕の間に挟まれたり、帰り際に頭の上に接触していったり、と、行動もよく分かんなかったし」

 ガタン。ダイニングチェアを倒す勢いで社長が立ち上がる。

 仕事中は団子に纏めている青紫色の髪を下ろした、女性の色気増量中の社長の頭から湯気が上るのが見えた。

「エコーは?何をしていて?」

「姐さん?その場にいて、カトラリー揃えてました。あ、あと今日もオムライスがとても美味しかったっ」

 そう、と嫋やかに笑んだ社長は、そのまま私の前まで来ると、今度は口元だけで笑った。目は三角だ。ちょっと怖い。

「その男はこう、したのでしょう?」

 座る私の上に被さり、頭頂部に軽く触れる。

「あ、そんな感じ。すごい!何で分かったの?」

「キスよ」

「え?」

「その不心得者はルリルーちゃんの頭にキスを落としていったのよ」


『先払いで』

 ロディさんの声が蘇る。

 心臓が、波打った。

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