第14話 悪夢

 ユアンが生まれ育った家は古く狭く小さいところだった。

 生活は貧しくとも、両親は優しく、ユアンは幸せな日々を送っていた。

 けれど、ある時からその日常は変わってしまう。

 何があったのかユアンにはわからない。けれど、両親が言うには父は仕事を失ってしまったらしく生活は急速に悪くなっていった。

 生活が悪くなるにつれ、優しかった両親も変わり、夫婦喧嘩が絶えずユアンにも辛くあたるようになったのだ。

 それでもユアンはきっとすぐに、また優しい両親に戻ってくれる、と信じて耐えた。

 そうしているうちに、ユアンたちの家に見知らぬ人が訪れるようになる。

『この世界には理不尽と不条理に満ちています』

 その人物はユアンたちにこんなことを言った。

『清く正しく生きても報われず、強欲でずる賢い奴ばかりが得をする。正義は悪にくじけ、貧富の差は開くばかり。それはこの世界が仮初の世界だからです。だから正しい秩序が保てず、あなた達のような人が苦しんでいる。エギヒデム様をこの世界にお呼びし、真の世界を作っていただかなくてはならない』

 ユアンにはその人の言っていることの意味がよくわからなかった。

 けれど、両親はその人の話を真剣に聞いていて、その様子がなんだか少し怖かったのを覚えている。

『エギヒデム様は寛大で慈悲深い方です。あの方がこの世界においでになるのをお手伝いすれば、その者たちは真の世界での永遠の幸福を約束されます。さあ、共にエギヒデム様に仕えましょう』

 何故かそのままユアンと両親は家を出て、見知らぬ人がたくさんいる場所で暮らすことになった。

『ねえ、家にはいつ帰るの?』

 ユアンの質問に、両親は笑って答える。

『何を言っているの? ここが私達の家でしょう』

『そうだよ。同じようにエギヒデム様に仕える者たちがいるこここそが、私達のいるべき場所だ』

 ここにきてから暴力を振るわなくなり、以前のように穏やかに笑うようになった両親。けれどもどうしてか、以前とは違うように思える。

『……わかった』

 けれど、わがままを言ってしまえばまた暴力を振るう両親になってしまうような気がして、ユアンは気づかないふりをして二人の言葉を受け入れる。

 本当は、ここに連れてきた人や周りの大人が怖かったけれど、両親の為に我慢しようと思ったのだ。

 ある時、ユアンたちをここに連れてきた人物が突然やってきて、両親にこう言った。

『我々はエギヒデム様をこの世界にお招きする為に儀式を行っていますが、なかなかうまくいかないのです。どうが、あなた達のお力添えをお願いしたいのですが』

『導師様の頼みであれば断るわけにはまいりません。我々にできることでしたら何でもいたします』

『ですが、私達に何ができるでしょう……財産なんてほとんどありません』

『いやいや、お二人にはお金なんかよりも、もっと大切な存在がいるではありませんか』

 導師と呼ばれたその人はユアンを指差す。それに合わせて両親の目もユアンに向けられた。

『その子をエギヒデム様の神子にするのです。そうすれば真の世界が産まれた時、あなた達もその子もエギヒデム様の寵愛を受ける特別な存在となれるでしょう』

 こうしてユアンは神様に捧げられたのだ。

 それから、見知らぬ大人たちがユアンの体にいろんなことをした。

 何をされているのかわからなかったけれど、どれも痛くて苦しくってしょうがなかった。

 止めて。ごめんなさい。お母さん。お父さん。助けて。許してください。もうわがままは言いません。帰りたいよ。いい子になります。出して。もうやだ。誰か。

 どの言葉も聞き入れられることはなく、誰も気にしてくれない。

 ユアンの他にもユアンと同じようなことをされていた人はたくさんいた。ユアンほどではなくとも子供もいたし、老人もいた。

 けれど、その人達は動かなくなるとどこかに連れて行かれ、そのまま戻ってこず、段々と数が減っていく。

 気づけばユアン一人だけになっていた。

 そして、その時は突然やってきた。

『げほ、ごほ……げぇ……!』

 突然、口から泥が吐き出されたのだ。

 止めようとしても止まらなくて、泥はあっという間に周りに広がった。

 それを見て、周りの大人達は歓声をあげた。

『ついに、ついに完成したぞ!』

『エギヒデム様の門だ!』

『これで私達は救われる!』

 それからというもの、大人たちはユアンに泥を吐かせ続けようとした。

 泥を吐くのは苦しくて嫌だったけれど、誰も助けてくれない。

 ユアンは両親が恋しくてたまらなかった。

 だが、そんなある時、とうとう両親が来てくれたのだ。

『……お父さん……お母さんっ』

 ユアンは必死に二人へ手を伸ばした。

 きっと両親は自分に手を伸ばして抱きしめてくれる。

 そう思ったのだ。

 けれど……

『…………どうして』

 傷つき苦しんで泥を吐く自分を見て、両親は嬉しそうに笑うばかりで、決して自分を助けようとはしてくれなかった。

 これがユアンの過去に起きた出来事であり、起きる直前まで見ていた夢である。




「ぐっ……げほ、げほっ……ぐぇ、ぐっ……」

 ベッドの上でユアンはうずくまっている。

 その口からはとめどなく泥が出てきて、ベッドや床を汚していった。

(どうしよう、止まらない……止まらないよぉ)

 気が動転しつつもなんとか口を抑えようとするも、体の奥から泥が溢れてきてどうしようもない。

(ゲオルクさんに見つかっちゃう……早く、止めなきゃっ)

 とても優しくていろいろ教えてくれる兄のような人。そんな人にこんなところを見られて、どんな反応をされるか想像するのも恐ろしかった。

 嫌われるだろうか。怒られるだろうか。怖がられるだろうか。気味悪がられるだろうか。

 もしかしたら、ここを追い出されてしまうかもしれない。

 そう思うとますます悲しくなって、泥が溢れてきてしまう。

 気持ちを落ち着けようとすればするほど焦りが生まれ、ユアンの目に涙があふれた。

(助けて……助けて……リザお姉ちゃんっ)

 その時、ドアが開いて誰かがユアンに駆け寄る。

「ユアン君!」

 部屋の状況から何があったのか把握したリザは、必死の表情でユアンに手を伸ばした。

「どうしたの? しっかりして、ユアン君!」

「リザ……おねえ、ちゃ……」

 信頼する人が来てくれて、ユアンの気持ちは落ち着きを取り戻す。

 泥も止まり、リザがユアンを抱き上げた。

「あのね、昔の夢みて……それでね……泥、吐いちゃった」

「そう……大丈夫よ。私がいるからね」

「……うん」

 ユアンを安心させるように優しい言葉を投げかけるリザ。

 それにほっとするユアンだったが、扉の向こうにゲオルクの姿を見つけ、体を強張らせる。

「……」

 ゲオルクはじっとユアン達を見つめていた。

 いつから見られていたのかわからないが、リザと一緒に来ていたのなら泥を吐いているところも見られたはずだ。

 どんな反応をされるかわからず、ユアンが彼を見つめているとそれにリザも気づいてゲオルクに目を向ける。

「ゲオルクさん……」

 彼女のその声は僅かに震えていて、不安がにじみ出ていた。

 二つの視線を受けつつ、ゲオルクはゆっくりとした足取りで二人に近づく。

 そしてユアンに手を伸ばすと、その涙を拭う。

「……どこか痛いところはないか?」

 彼の口から出てきた声は、とても優しかった。

「……うん。大丈夫」

「そうか。それじゃあ、ちょっとここを片付けるから、今日はリザさんのところで寝ような?」

「……うん」

 小さく頷いたユアンに微笑みかけたゲオルクはリザに目を向ける。

「ユアンを頼む」

「ええ。わかりました」

 リザに抱えられたまま、ユアンは部屋を出た。

 ゲオルクの真意はわからないが、最悪の事態は避けられたようで安心感が胸に広がる。

 リザの部屋につくと、ユアンの体はベッドに寝かしつけられた。

 泥を吐き続けて体力を消耗した体はすぐに眠りに襲われ、目蓋が下がっていく。

「リザお姉ちゃん……」

「大丈夫。今夜はずっと傍にいるから。だから、安心して眠って?」

「うん……」

 リザの指先が優しく額や頬を撫でる。

 それだけでユアンは満たされたような気持ちになり、幸せそうな顔で眠りにつく。

 今日はもう、悪い夢を見ずにすみそうだ。

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