第2話 少年の名は

「あ、こ、こんにちは……」

「……こんにちは」

 なんとか声をかけると、彼はか細い声で返事をする。

「えっと、ご飯持ってきたんだけど、食べられる?」

「うん……」

 少年はゆっくりとした動作でベッドから出ると、椅子に腰掛けた。

「さあ、どうぞ」

 リザがトレイをテーブルの上に置くと、少年は静かに食事を始める。

 少年が食べ終わるまで、リザはこれはどういうことなのだろうと考えた。

(どうして、こんな小さな子どもがこんなところにいるの?)

 ここはどう取り繕っても、子どもに良い環境だとは思えない。むしろ、病気になってしまいそうだ。

(でも……何か事情があるのかもしれないし)

 だけど、リザにはその事情というものが想像できない。

「……あの、少しいいかしら?」

 少年の食事が終わってから、リザは声をかける。

「はい……なんですか?」

「あなたは、どうしてここにいるの?」

 少年の事情が何もわからないので、直接聞いてみることにしたのだ。

 とはいえ、小さな子だし、何も事情を聞かされていないかもしれない。

 それならそれで構わなかった。

 しかし、予想に反し、彼はどうして自分がここにいるのかわかっている様子であった。

「……ぼくは」

 ぽつりとつぶやかれる声。小さく、ぼんやりしていると聞き逃してしまいそうなその子の言葉にリザはじっと耳をすませる。

「ぼく……は……」

 だが、言葉を続けようとする少年の顔は苦しげに歪み、口を手で抑え始めた。

「ぐっ……」

「え、だ、大丈夫!?」

 少年は椅子から落ちて、床に座り込む。

「苦しいの? 痛い? どうしたの!?」

 どうするべきかわからずとにかく必死に彼の背中を擦っていると、少年の口から何かがこぼれ落ちた。

「我慢しないで、吐いて大丈夫だよ」

 それを嘔吐物だと思ったリザだが、少年は首を横に振って拒否する。

「大丈夫、大丈夫だから」

 我慢できなくなったのか、とうとう少年は口にあるものを吐き出した。

 そして、その吐き出されたものを見てリザは言葉を失くす。

(これは……泥?)

 床に広がるそれは、人の体内から出てくるものとしてはあまりに不適切だ。

「げほっ……ごほ、ぶはっ……」

 そうしている間にも、少年は吐くことを止められずどんどん泥が彼の口から溢れ出てくる。

 リザははっとして彼が少しでも楽になるように、擦るのを再開した。


 しばらくして、ようやく少年が落ち着いた時には床にはおびただしい量の泥が広がっていた。

「大丈夫? 苦しくない?」

 リザの問いかけに、少年は小さく頷く。

 ぐったりした様子だが吐き気はないようで、リザはほっとした。

 それから床に目を向ける。

(これだけの量の泥……本当にこの子から出てきたの?)

 目の前で起きた出来事なのでそれは間違いないのに、それでも信じられない。

 それほど異常な量の泥が少年の口から出てきたのだ。

「さ、ベッドで休みましょう」

「……うん」

 リザは少年をベッドに横たえる。

 そのまま少年は眠りにつき、リザは室内にある箒に手を伸ばした。

 以前からこの部屋から出てきた騎士が抱えていたズタ袋の泥の正体がわかった。

 あれは少年が吐き出したものなのだ。

(でも、どうして泥なんて……?)

 リザは眠る少年の顔を見つめる。

 どこからどうみても普通の少年。あどけない表情で眠っているが、先程までの苦しそうな表情や、あの暗い眼差しが脳裏にこびりついて離れない。

 何か力になりたい。

 掃除が終わったリザはその足で使用人頭の元に向かった。


「あ、あの、すいません!」

 リザが声をかけると、使用人頭は眉を寄せた顔で振り返る。

「なんだい、そんな大きな声出して。まさか何かやらかしたんじゃないだろうね」

「いえ、その……あの小屋にいる子どものことなんですけど」

「あの子がどうかしたのかい」

「あの子……泥を吐いたんですけど」

「ああ、それがどうかしたんだい?」

 落ち着き払った使用人頭の態度から、彼女はあそこに子どもがいることも、泥のことも知っていたらしい。

「どうかしたって……とても苦しそうでし、あんなところに一人きりでは可愛そうだと思って……」

 リザの言葉に使用人頭は顔をしかめる。

「しょうがないだろ。あの子をあそこに置いておくように指示されているんだから」

「そんな……どうしてですか?」

「知らないよ。ある日突然、騎士団のお偉いさんたちが連れてきたんだ。詳しいことなんて聞いてないよ」

 昨日の騎士たちも言っていたが、あの子の処遇は上層部の意向のようだ。

 ということは、あの子があそこにいるのも、泥を吐くのも、深い事情があるのかもしれない。

 そうであるのなら、見張りの騎士や使用人頭のようにそのままにしておくのがいいのだろうか。

(でも……やっぱり放っておけない)

 リザには、あの子のような暗い目に覚えがある。

 彼女が育った孤児院には、様々な事情で親と暮らせない子どもが集まるのだが、中にはあんなふうな目をした子もいた。

 そして、あんな目をしている子どもは往々にして、長生きできないのだ。

「それならせめて、誰かが話し相手になるぐらいのことはできませんか? あんなところに一人ぼっちなんて、きっと心細いと思うんです」

 リザはあの子がいた部屋を思い返す。

 窓を締め切り、最低限の家具しかない殺風景な部屋。あんなところにいたら、リザだって苦しくてたまらないだろう。

 せめて、誰かが寄り添ったほうがいい。

 そう思ったのだ。

 リザの言葉に使用人頭は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。

「余計なことを考えるね……私たちには仕事があるんだ。そんな人員割けるわけないだろ」

 どうにも使用人頭は、あの子どもと関わりたくないように見える。

 それは彼女だけではなく、見張りの騎士や他の人間にも言えることだ。

 恐らくは厄介事に巻き込まれたくないのか、上の人間に目をつけられたくないのか、もしかしたら泥を吐く少年を不気味に感じているのかもしれない。

 リザに彼女たちを責めることはできない。

 彼女だってきっと、話で聞いただけであったなら進んで関わろうとしなかっただろう。

 誰だって自分の生活が大事だ。

 けれど、リザはあの子と会い、あの暗い瞳を見てしまった。

 自分がここで何もしなければ、あの子はずっとあのままに違いない。

 そう思うと、リザは何かをせずにはいられなかった。

 だから、使用人頭に言い募る。

「それじゃあ……私があの子の面倒をみるのはダメですか?」

「は?」

「もちろん、仕事はちゃんとやります。だけど、手が空いた時にはあの子のところにいっても大丈夫でしょうか?」

 他の誰にもやりたがらないのなら、自分がやるしかない。

 そう思ったのだ。

 そんなリザに、使用人頭は呆れた顔をする。

「はあ……んじゃ好きにおし。ただし、何があっても私は知らないし、責任はあんたにとってもらうからね」

「はい、わかりました」

 こうして許可を得たリザは、夜にもう一度あの少年のもとに向かった。




「こんにちは」

「……こんにちは」

 少年は部屋にやってきたリザに、少し驚いたような表情を浮かべる。

「食事を持ってきたんだけど、具合はどう? 食べられる?」

「食べられる……」

 少年は昨日と同様に食事に手を付けた。

「おいしい?」

「……うん」

「そう、よかった」

 食事中、少年はちらちらとリザに何度も視線を送る。

(……もしかして、私がいると邪魔かしら?)

 少年の反応にリザはそんなことを思った。

(どうしよう……いきおいで自分がやるって言っちゃったけど、この子からすれば知らない人と一緒にいる方が嫌だったんじゃ……)

 この子の意見も聞かずに勝手なことをしてしまったと、リザは後悔に襲われる。

 けれど、とりあえず今は少年と話してみることにした。

「あの、ね……私、これから時々、ここに遊びに来てもいいかしら?」

「……え?」

「えっと、その、私ここに来たばかりでね、まだ仲の良い人がいないの。だから、あなたと仲良くなりたいって思って……あ、でも、無理そうなら言って。我慢させたいわけじゃないの」

「…………」

 リザの言葉に少年は顔を俯ける。

 やはり、独りよがりだったかと感じ、リザがどう言葉を撤回しようかと考えていると少年がポツリと呟く。

「ぼくのこと……気持ち悪くない?」

「え? 気持ち悪い? どうして?」

 言葉の意図がわからず問いかけると少年が顔を上げた。

「だって……泥……」

 泥。

 その単語で少年が何を言いたいのか、リザは察する。

 だからすぐに少年に告げた。

「大丈夫、気持ち悪いなんて思わないわ」

 小さな体ではありえない量の泥を吐き出す姿は、たしかに異様ではある。

 けれども、それでこの子どもを恐ろしいなんてリザは感じなかった。

 しかし、きっとこの子は何か心無いことを言われたことがあるのだろう。

 もしかしたら、こんなに小さな子が笑わないのは、そのことも関係しているのかもしれない。

(私に何ができるかわからないけれど……でも、できることをしよう)

 そしていつか、この子に笑顔が戻って欲しい。リザはそう思った。

 その為にも、まずはこの子と仲良くならなくてはいけない。

「私の名前はリザっていうの。あなたは?」

「……ユアン」

 小さな声で名乗った少年。

 彼を巡って大きな決断を迫られることになるなんて、まだリザは知らない。

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