『恋』

「どうぞ。入って」

 彼に促されて玄関をくぐる。

 彼が住んでいるは5階建てマンションの最上階にある窓の大きな部屋だった。

 

「散らかっててごめん」

 彼はそういいながら洗面所へ行き、私に大きなタオルを渡してくれる。フワフワして気持ちがいい。彼のシャツを被っていたのでびしょ濡れになったわけではないが、そこそこ濡れている。私は丁寧にタオルで水分を取っていった。


 そして、一段落ついた頃、首にタオルを巻いた彼がコップを持って台所から出てきた。

「夏とは言っても少し冷えただろう」

 そう言って、渡されたコップを見ると、カフェオレが入っていた。

 部屋の隅に置かれたソファーに座り、カフェオレに口を付ける。

 彼は着替えてくるとまた部屋を出た。

 部屋を見回してみる。部屋の中央に小ぶりのグランドピアノが置いてあり、楽譜があちこちに散らばっていた。テレビもなく家具も最低限なその部屋は、音楽と向き合うことだけを目的としたものだと感じた。

 ピアノに近づいて、そこに置いてある楽譜を見る。手描きの楽譜だった。確か彼は作曲もしていると言っていた。

 その曲を口ずさんでみる。とても綺麗な曲だ。

「あっ。それは!」

 彼が慌ててやってきて、楽譜を隠すようにする。

「これ、先生が作曲したものでしょ? 聴きたい。弾いてみて」

「これは……」 

 躊躇する彼にもうひと押しする。

「先生の曲が聴きたい。ね、お願い」

 手を組んで上目遣いで頼み込むと、彼はため息をついてピアノに腰掛けた。

 私はわくわくしながらソファーに座る。


 彼は深呼吸を1つしてから、鍵盤に手を置き、指を動かし始めた。

 その旋律は、川の流れのように滑らかな質感だった。細やかな音が繊細に重なり、滔々と続いていく。聴いていると、日の光を反射して水面がほんの一瞬光ったような、鮮やかなものが見え隠れしているそんな感覚にとらわれる。その見え隠れするものから思い起こされるのは、喜びや楽しみなどの温かな感情。私は目を閉じてその音色に身を任せた。


 曲が終わっても私はしばらく夢心地だった。目を開けると、心配そうにこちらを見る彼の姿があった。

 視界がぼやけている。

「なんで泣いてるの」

 彼は焦ったようにこちらに歩いてきて、ティッシュを取って私に渡す。

 私はそれを受け取りつつ、そんなこと構っていられないと、興奮して言葉を放つ。

「先生。すごい! 喜びの感情がわっと溢れて来てたよ。これ全部、私の中にあった感情なの? 」

「……たぶん、僕の中にもあった感情じゃないかな」

 彼は照れたように言う。

「この曲は君を想って描いたんだ。そしたら、自然と感情が湧いてきた。こんなことは初めてだ」

 彼が真っ直ぐに私の顔を見る。

「この曲の題名は『恋』きっと僕は君に恋しているんだ」

 その言葉に私の想いも溢れて、思わず彼に抱きついた。


***


 それから、私たちは、レッスン以外の日も会うようになり、たいていは彼の家で過ごした。

「私も『恋』を綺麗に弾きたいのに、難しすぎるよ」

「あれは僕だけが弾ければいいんだ。君に向けた曲なのだから」

 私は納得いかず口を尖らせる。

「じゃあ、即興で連弾しよう。ピアノでいっぱい愛を語ってね。智昭はピアノの方がいっぱい好きって感じるもの」

「……君はまた恥ずかしげもなく」

「ほら!」

 私は高音を弾き始める。彼も左隣に座って奏で始めた。

 私の音と彼の音が絡み合って、想いがどんどん高まっていく。そんな感覚が頭を支配し、2人はいつまでもピアノを引き続けた。



***


 そうしたある日、夕食の後で突然父に呼ばれる。

「八條君だが、彼は東京に行くことになった。彼の演奏を気に入った人がいてね、あちらで演奏活動ができるように取り計らったよ。だから、彼はもうこちらには来ない」

 私は、目の前がさあっと暗くなった。

 父が私たちのことを知ったのだと直感した。そして、引き離そうとしていると。

「智昭……先生はなんと?」

「こちらからの申し出に喜んでくれていたよ。明子にもよろしく伝えてくれって」

 突然のことに頭が回らない。

「彼は発展途上だ。お前にはもっと合う人がいる。レッスンはまた池内先生に頼んでおいたから」

 父の言葉が遠くに聞こえた。



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