透明な音

 初めて彼の演奏を耳にしたとき、なんて精緻な演奏なのだろうと思った。

 温度も色彩も無い、けれどもどこか心に残る音。それが彼の音色の第一印象だった。


 出会いは、ピアノの先生に誘われた小さなホールでのコンサートだった。

 地元で活躍中の若手演奏家たちが集うコンサートということで、どの奏者も個性溢れる素敵な演奏で、私は聴き入ってしまった。


 コンサートが終わり、ロビーで先生と話をする。

「明子ちゃんも、もう大学生かぁ。無事に志望校に合格できてなによりだね」

 先生は感慨深げに言う。

「やっとひと息付きました」

 中学生の頃からピアノレッスンを受けている池内先生は初老の男性で、音大を目指す人たちを中心に指導するベテランの先生だ。先生の教え子の中には現役ピアニストもいる。

 

 しばらく話をしていると、長身で線の細い男性が先生に挨拶にやってきた。コンサートであの透明な音色を奏でた彼だ。

 池内先生は、待ってましたとばかりに私に紹介する。

「彼は八條はちじょう智昭くん。僕の教え子だよ。智昭くん、彼女は菱本ひしもと明子ちゃん。4月から大学生なんだ」

 智昭は私を一瞥してからペコっと無言で頭を下げた。私もそれに倣う。

「彼はとても才能があるピアニストでね、ここらの若手では一番のテクニックを持っていると思うよ」

 先生は上機嫌で続ける。

「明子ちゃん。また4月からレッスンを再開するの言っていたけど、彼に教えて貰うのはどうだろう。きっと若い者同士、お互い高め合えると思うんだ」


 先生の笑顔を受け、思考を巡らせる。

 昨夏の初め頃、受験のためしばらく休むと告げた際、先生はこれから音大受験の指導で忙しくなると言っていた。本来、先生はプロのピアニスト育成のためのレッスンを生業としている。

 私が中学の頃からこの先生にレッスンをしてもらっているのは、この地域の有力者で、音楽振興に力を入れている私の父から直々に頼まれたからだ。

 私は音大の受験をしなかったし、あくまで趣味で弾いていきたいので、この先生のレッスンに固執する必要はなかった。そして、先生は、そんな私を他の人に任せたいのだろうと推測する。


「私はそれで構いません。父にも私からそう伝えておきます」

 そう言うと、先生は明らかにホッとした様子を見せた。

「そうか。それはよかった。彼は意外と教えるのが上手いし、きっと良いレッスンが受けられるよ」

 私は彼に向かって礼をした。

「よろしくお願いします」

「……こちらこそ、よろしくお願いします」

 彼はニコリともせずにそう言った。


***


 それから、週に1回、私の家にきてもらって彼にレッスンをしてもらうことになった。

 

 無口で表情が顔に出ない彼に最初はどうなるのかと思ったけれど、池内先生の言うとおり、教え方は丁寧で的確だった。

 そして、彼は粗雑なところがまったくなかった。物腰が柔らかくどこか上品な言動は、当初は25才と若い彼を快く思っていなかった両親の心をしっかり掴み、時折レッスンの後、夕食に誘われるまでになった。


「僕が教えられることは、技術だけだから」

 その言葉通り、彼は演奏技術の向上に特化したレッスンをし、曲の解釈や、感情の込め方などには一切踏み込まなかった。けれども、情感が込もった弾き方を否定することはなく、どちらかというと感情を盛り込みがちな私の演奏も正すことはしなかった。


 しばらくすると、年齢が近いこともあってか、気兼ねなく話せるような関係になった。

「智昭先生のピアノって不思議ね。感情がないように聴こえるけど、聴いているとちゃんと楽しい気持ちになったり悲しい気持になったり、感情が揺さぶられるもの」

「奏者の感情がなくても、音の並びや強弱、速さを緻密に制御する技術があれば、聴いた人の感情を想起させることができる演奏ができると思っている」 

 私の疑問に彼は淡々と答える。

「楽しい曲を弾いたり、悲しい曲を弾いたりする時、先生の心は動かないの?」

「僕はもともと感情が表に出る方ではない。だから技術で相手の感情を呼び起こすんだよ」

「相手の気持ちを揺さぶるってこと?」

「そう」

 彼のピアノとの向き合い方が垣間見えた気がする。彼は音色を紡ぐの職人のようだと感じた。


「先生の音は透明な感じがする。見えないけれど確かに存在しているような」

「透明、か。君の表現はおもしろいね。僕が透明なら、君の音は色彩豊かでとても華やかだ。君の感情は聴いた人の心に真っ直ぐに届く」

「私の音は先生のとは正反対ね。」

「そうだね。僕の音と君の音は相容れない。けど、僕は君の鮮やかな音を好ましく思うよ」

 彼はそう言うと、薄く微かに笑ったような気がした。

 私はなんだかくすぐったくて、とても嬉しくなった。

 

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