16

黒部に連れられて、俺達は地上に上がってきた。其の後、車で三十分程、搬送されて俺達は廃墟に入れられた。


元は何かのビルだったのだろう。幾層階に連ねられた建物の中、俺達は最上階へと通された。


「久し振りだな、誠慈」


其処で待ち受けていた男が、静かに言った。其の男は、俺が最も慕っていた人物だった。


俺は驚きを隠せないでいる。


「どうして、アンタが此処に居るんだ!?」


男は静かに笑う。


四十代の精悍な男だった。スーツを纏った其の体には、妙な静けさを纏わせていた。まるで、狩りをする為に気配を消して獲物を狙う狼の様な、そんな静けさだった。


男にもう一度、問い掛ける。


「どうして、此処に居るんだ、兄さん!?」


『――――!?』


百合とエコーは驚きを隠せないでいた。男は俺の兄だった。香元家の長男。名は、香元礼。


「どうしてって、俺がヴォルフの頭だからだよ。お前を呼び出した理由が解るか?」


静かに笑いながら、礼が言う。


「お前と勝負をしたいからだ。お前の其の絶対嗅覚よりも、俺の此の鼻の方が優れていると言う事を証明したい」


自信に満ちた表情で、礼は俺を見ていた。匂いが全くしないが、其の胸中に抱く感情は恐らく怒り。


礼は俺を憎んでいるのだろう。



   ●



まだ、俺が十歳の頃だ。父は俺を香元家の跡取りとして、正式に公表した。まだ幼い俺は、其の事を良く理解し切れないでいた。戸惑いを隠せないでいる俺に、父はいつも叱責の声を向けた。


「お前は香元家の全てを背負わなければならない人間だ。こんな事で心を乱すな。お前は兄の様に、私を失望させないでくれ」


父はいつも、兄の礼を引き合いに出した。


礼は香元家の長男だったが、香元家に取って不要な存在として扱われてきた。礼が父の愛人との間に出来た子だからだ。


詳しい事は良く解らないが、俺と礼は腹違いの兄弟だった。


本妻の母を持っていると言う理由で、俺は次男で在りながら香元家の正当後継者として選ばれたのだ。実際、俺には絶対嗅覚が在る為、周りの人間は納得していた。けれど、本当の天才は兄の礼だと俺は考えていた。


父も其の事に気付いていた筈だ。確かに嗅覚だけならば、俺の絶対嗅覚に礼は及ばない。だけど礼の作る香は、言葉では表し難い不思議な力が在った。


――魔力。とでも言ったら良いだろうか。例えば、皆の嫌われ者に礼が作った香水を付けるだけで、皆の人気者に変える。落ち込んでいる者に其の香を纏わせると、途端に明るく溌剌とさせる力が在った。


実際、礼の母は魔女の家系だったらしい。魔女の力を使い父を誑かせて、礼を身籠らせたと聞いた事がある。


そんな理由で、父は礼の才能を認める訳にはいかなかった。


「父さんは、兄さんが怖いんだね。匂いで解る。貴方は兄に恐怖している」


そう言った刹那、父は激怒して兄を家から追い出した。


「良いか、礼。お前は二度と香元家の敷居を跨ぐ事を許さん!!」


其の言葉を聞いた瞬間、礼は笑っていた。


父は気付いていないが、礼の作った微弱な香が辺りを漂っていた。


礼は父に追い出されたんじゃない。


自ら出て言ったのだと、其の時に思った。



   〇



「一つ勘違いをしている様だから教えてやる。俺はお前を憎んじゃいない。只、純粋にお前と勝負したいだけだ」


静かに笑う。其の笑みは、恐ろしいまでに深い闇を漂わせている。一体、何を企んでいるのだろう。礼は己の体臭をコントロールする術を持っている。故に俺の絶対嗅覚は効かない。


「俺達の勝負に、ギャラリーは必要ない。彼等を別室に連れて行ってくれ黒部」


黒部は言われる儘に、クリスとエコーを連れて何処かへ行ってしまった。


「仲間をどうするつもりだ?」


「別に、どうもしないさ。勝負が済めば、開放してやる。但し、其の女だけは別だ。お前には、其の女を賭けて貰う」


「彼女は関係ないだろう。此れは俺達、兄弟の問題の筈だ。どうして、彼女の命を賭けなければならないんだ!?」


「俺は本気のお前と勝負がしたいんだ。だから、お前の大切な者を賭けて貰う。其れに俺達には、其の女の身柄を抑えておく必要が在る」


礼は冷酷な笑みを百合に向ける。俺は庇う様に、百合に向いた礼の視界を遮る。背後から、不安の匂いが伝わってくる。


護る。絶対に護る。俺は彼女を死なせない。


勝つ。絶対に勝つ。俺は礼に勝って、彼女と日の当たる道を歩くんだ。絶対に、護り抜いてみせる。


「どうした、誠慈よ。匂いが乱れているぞ?」


不安が――恐怖が心の底から沸き上がってきていた。在の日、百合を自らの手で死へと追いやった絶望が甦って来る。


何故だ。何故、今頃になって俺はびびっちまってる?


――畜生。怖い。失うのが怖い。又、百合を自分の所為で失うのが怖い。


恐怖に抗わなければならない。何が在っても、負ける訳にはいかない。


「気付かないのか?」


礼が羽織っているコートのポケットから、小瓶を取り出した。其の中に入っている液体は、香水だ。封をしていても、俺の鼻に匂いが届く。


「俺が付けている此の香――『FEAR』は人の恐怖を煽る効果がある。勿論、俺のオリジナルだ」


魔女の香。父は礼の作る香水を、そう呼んでいた。


「絶対嗅覚が仇になったな。お前の其の鼻の良さが、俺の香の効果を強めているのさ」


礼は冷ややかに笑う。其の視線は冷たく俺の心に突き刺さり、内側から崩していく。


恐怖に抗い切れなかった。だけど、どうしても諦め切れない。


二度と大切な人を失って堪るか。俺は絶対に百合を護ってみせる。百合の心から、力強い匂いが伝わってくる。


――そうだ。


俺は絶対に負ける訳にはいかない。


「ほぉう、お前も魔女の香を作れる様になったのか」


百合から、淡い桜の香りが漂っていた。


俺の作った香水を付けたのだ。彼女の匂いが香の匂いと合わさって、俺の心に届く。


百合の想いが、俺の心へ伝わってくる。


とても力強い気持ちが、俺の中へとなだれ込んでくる。


「負けないで、誠慈。私は貴方を信じてる。絶対に、勝って一緒に帰ろう」


「あぁ、絶対に勝つ。心配しないで。俺は誰にも負けない」


いつの間にか、恐怖は消えていた。


「香の力に打ち克ったか。だが、勝負はまだ始まってすらいない。今から、そんな調子で勝てるのか?」


礼は余裕だった。だが、其の余裕が隙を生むと言う事を教えてやる。其の勝ち誇った顔に、敗北を刻んでやる。


「既にお前は俺の術中に掛かっている。其の強気の思考に、違和感はないのか?」


言われて気付く。知らぬ間に、さっきと違う香りが漂っている。乾いた土の匂いが、爽やかに鼻を通していた。


「お前の心を、俺が操ってやるよ。魔女の香に、酔い痴れるが良い!!」


声高く、礼が笑う。


だが、俺は負ける訳にはいかなかった。

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