家に帰ったが未だ、イルカは帰って来ていない。


イルカの帰りが遅いので、探しに行く事にした。もうすっかり日も落ちて、辺りは暗くなっていた。もしも、イルカの中のドルフィンが目覚めたら、間違いなく俺の所為だった。俺は自分の都合を押し付けて、彼女を傷付けてしまった。もう何を言っても、何をやっても、彼女は許してくれないかもしれない。


だけど、放っておく訳にはいかなかった。正直、何を話して良いのかも解らない。そんな自分が許せないでいる。イルカを傷付けておきながら、どうする事も出来ないのが許せなかった。どうして、もっと彼女の事を考えてあげられなかったんだろう。幾ら後悔した処で、何の意味も成さない。


確かに俺は、イルカに百合を重ねていた。そんなイルカに惚れていたが、結局はイルカを見ていた訳じゃなかったのかもしれない。イルカの気持ちも考えるべきだった。


――辛いよな。


勝手な愛ばっかり押し付けて、相手の気持ちも考えてない俺の想いなんて、辛いだけだよな。


俺は心底、後悔していた。


浜辺を歩いていると何処かから、ヴァイオリンの音色が聞こえてきた。ふと、イルカの顔が頭を過ぎり音のする方へ走っていた。其処で、ヴァイオリンを弾いていたのは、クリスだった。漆黒のスーツに身を包んだ彼は、此の間とは雰囲気が何処か違っていて、まるで別人の様だった。


 美しい調べを纏わせて、彼は佇んでいる。


其の傍らでイルカがしゃがみ込んで、静かにクリスの演奏を聞いていた。イルカは一瞬、此方を見て又、直ぐに視線をクリスに向け直した。だけど、彼女からは優しい匂いがして少し安心した。だが其れと同時に、楽天的な考えが浮かんでいる自分に腹が立った。


傷付けた心は簡単に癒える物じゃないのに、俺は何を期待しているのだろう。イルカは今、何を思っているのだろうか。幾ら考えても、俺には解らないのだろうな。だけど、彼女の心を俺は繋ぎ止め様としている。愚かな男だと、自分でも思う。


彼女の中の百合を呼び起こさなければ、何(いず)れはドルフィンにイルカは乗っ取られてしまうかもしれない。其れだけは、どうしても止めなければならない。


だけど、イルカの意思は一体、どうなるのだろう。俺は今まで一度でも、イルカに目を向けただろうか。もっと彼女の気持ちを考えなければならなかった。どうすれば、イルカの心を救えるだろうか。どうすれば、此の想いは伝わるだろうか。


「貴方は一体、何を悩んでるんですか?」


演奏を終えたクリスが、サングラスを取って言う。彼の目が余りにも澄んでいて、驚かされた。



「私は盲目なんだが、人の心の内側が時折、見えるんだ。貴方は今、とても悩んでいる。後悔と悲しみに苛まれている。そちらのお嬢さんも同じだ。だけど、どちらも本心では、元に戻りたがっている」


クリスは深く溜め息をついた。


「二人共、もう少し素直になるべきだ」


クリスは再びヴァイオリンを弾き始めた。


とても澄んだ音色で、優しいリズムだった。俺は我を忘れて、聞き入っていた。イルカも同じ様に、クリスの演奏を黙って聞いている。彼女の胸の内が匂いとなって、伝わってきた。


別に俺を許した訳ではないだろうが、悲しみは不思議と消えていた。只、優しい匂いに満ちていて、心が落ち着かされる。俺は彼女の事が好きなんだなって、今更になって思う。


百合と同じ優しい匂いを感じて、イルカが篠崎百合で在ると言う事を、俺は改めて確信した。百合は確かに彼女の中に息衝(いきづ)いている。俺はイルカが何者で在ろうと、全力で愛そうと誓った。百合への想いが、ヴァイオリンの音に誘われて、イルカの内へと吸い込まれて溶けていく。


彼女は百合なのだ。


そう思った時、想いが溢れて涙が零れていた。


イルカの目にも同じ様に、涙が溢れていた。


知らぬ間に夜が明けていて、優しい日差しが差し込んでいる。ヴァイオリンの音が緩やかに流れて、心を優しく染めていく。穏やかな感情と激しい想いが、ゆっくりと混ざり合っていく。イルカ――百合への想いが急激に高まっていく。


俺は堪らずに叫んでいた。


「俺は百合、君が好きだ!!」


百合が愛しくて、愛しくて堪らない。


「私も誠慈が好き。だけど、私は百合さんじゃない……」


「君は百合だよ。匂いで解るんだ。何の根拠も無いかもしれないけど、君は百合なんだよ。俺は君が好きなんだ!!」


「そんな事言われても、信じられないよ!!」


百合の目から涙が溢れていた。震える声で、そう叫ぶ百合が愛しかった。


「もう一度、信じてくれ。今度は絶対に裏切らない。二度と君を傷付けたりしない!!」


何も言わない百合。流れるヴァイオリンの調べ。何処からか、海豚の鳴き声が聞こえてくる。優しく囁く様に、海豚が鳴いている。


ヴァイオリンの音が、急に激しく高鳴る。


クリスのヴァイオリンの音色には不思議な力が感じられる。不思議と心を導いてくれる気がして、勇気づけられる。


「俺は百合に出逢えて、幸せになれた。君はどんな時でも強く、美しかった。何者にも靡(なび)く事のない其の強さに、どんどん惹かれていった」


「其れは私じゃない。百合さんの事じゃない!!」


「君は百合だよ。誰が何と言おうと君は、篠崎百合だ。俺が愛した百合なんだ!! 此れを付けてみて。百合の為だけに作った香水だ。付ければ君が、百合であると証明してくれる。そして、俺の気持ちも伝わる筈だから」


 暫く考え、悩んでから、百合は答えた。


「解った」


桜の香りが、甘く淡く儚く優しく、百合の匂いと混ざり合って、溶け込んでいく。百合の為だけに作った香。百合との想い出を……百合への想いを全て注いで作った香だ。


「不思議な匂い。まるで、貴方の愛に包まれている様に、心が落ち着くの」


一拍置いて、百合が静かに不安げに言った。


「本当に、信じても良いの?」


「信じてくれ。今度は、絶対に裏切らない。君の事を幸せにする」


百合の震える肩を、優しく抱き締めた。


俺の腕の中で、彼女の匂いが優しく心地良く、堕ちていく。想いが愛しく本当に心地良く、満ちていく。


「愛してるよ、百合」


「私も、誠慈を愛してる」


音楽と優しい匂いに包まれて、俺達はキスをした。


其れが合図であるかの様に、ヴァイオリンの音が止まった。


「どうやら私のコンサートは、もう必要ない様だ。君達から、迷いが消えたのを感じる。さぁ、そろそろ行きなさい」


不思議な男だった。まるで、全てを見透かされている様だ。


彼の音楽が、自然と心を導いてくれる様だった。不意に、音楽は人を幸せにすると言う、百合の言葉を思い出した。


「クリスは帰らないのか?」


「私は此処で人を待っているんだ。どうしても、会わないといけない人物がいる」


「そうか。クリスには随分と世話になったな。ありがとう」


「礼には及ばない。私は暫く此処にいる。いつでも、訪ねてくると良い」


「貴方の音楽は、とても素晴らしいわ。私もいつかは、貴方以上の音楽をピアノで表現したいな」


百合の顔には、笑顔が浮かんでいた。


「君なら出来るさ」


優しくクリスが微笑んだ。

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