3

 瞬く間に時が過ぎて、一月が経った。


 季節はすっかり夏になっていた。七月半ばの茹だる様な暑さが温室育ちの俺には辛い。暑さに項垂れている俺の姿を見て、百合はいつも笑っている。


 百合は昼間、バイトをしている。夕方の五時に店を出て、六時前には買い物を済ませて帰ってくる。其の後は二人で夕食を作ったり、音楽を一緒に聴きながら心を通わせたり、穏やかな時間を過ごしていた。キスをしては愛しさが込み上げて、抱き締めては切なさが締め付ける。どんなに幸せを感じていても、不安は紛れない。どんなに愛していても、悲しみは途切れない。百合は時折、とても悲しそうな表情をする。其れが何を意味しているのかが、悔しいけど解らない。百合との距離が埋まらない。悲しみを、解ってあげれない。心が痛くて、仕方がない。堪らなくなって、気を紛らわす様に後ろから抱き締めた。


「就職、決まった?」


 首筋に優しくキスをすると、百合が尋ねる。


「駄目だった」


 部屋は桃の香りが甘く漂っていた。百合を待っている間に今朝、即席で作った香を焚いてみたのだ。


「どうやら、ドルフィンの奴が手を回してるみたいで、何処も俺を採ってくれないんだ」


 そう言った瞬間、微かにアドレナリンの匂いを感じた。


「怒ってる?」


 優しく窺うが、小さく首を振るだけだった。


 百合の態度に微小な不安を抱いたが、何も言えないでいた。


 そして二人共、何も言わないまま眠った。




 ピアノの音で目が醒めた。繊細で美しい曲調が、心を安らげていく。


 百合がピアノを弾いていた。


「音楽には不思議な力が在るの。不安を和らげ、人を穏やかな気持ちにさせる。音楽から、希望を見出す事だって出来るのよ。私は、そんな音楽が大好きなの」


 楽しそうに語る百合。俺は黙って、彼女の言葉に耳を傾けた。


「小さい頃から、音楽家になるのが夢だったの。色んな曲を創って、色んな人に聴かせるの。其れを聴いた人達は皆、笑顔になって。其れまで悩んでた事も全部、笑い飛ばせるぐらいに元気になって欲しいの!!」


 子供の様に目を輝かせて、無邪気に笑う。ピアノの調べに乗って、希望や期待の匂いが伝わってくる。


 明るい曲調。


 ——百合の笑顔が、とても綺麗で又、魅せられる。


「此の世は辛い事ばかり。だけど、どんなに不幸な状況でも幸せになれると思うの」


 弾む指。弾けるリズム。


 彼女はとてもポップで、キュートだ。


「誠慈に出逢えて私は今、とても幸せだよ」


 部屋に満ちる愛しさと、優しい音楽。


 ゆっくりと流れる時間。穏やかな気持ち。


「だから誠慈にも、幸せになって欲しい。もっともっと、笑顔になって欲しい!!」


 ——音楽は次第に加速していく。


 激しく、優しく、心地良く、高鳴るメロディが俺の中に溶け込んでいく。


 愛しく、切なく、本当に心地良く、重なる音楽と彼女の心が発する匂い。——伝わるよ。百合の想いが。——込み上げるよ。百合への想いが。急速に重なり合って、引き込まれて、弾けていく。


 ——愛している。


 聞こえてくるビートは、俺自身の鼓動。


「私は音楽で、世界中の人を幸せにするの!!」


 だけど、不意に悲しみの匂いが流れてくる。


 ——又だ。畜生。


 ピアノの音が止まる。


「だけど、もう其れも叶わない……」


 一体、何が百合を悲しませているのだろう。俺には解らない。


「今からでも、遅くないじゃないか!!」


「駄目なのよ、私は……」


 途切れる言葉。


 墜ちる沈黙。


「ごめんなさい。今、朝ごはん、作るから……」


 俺は其れ以上、何も言えなかった。

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