それは、雨の日のことでした。

長月瓦礫

前編


それは、雨の日のことでした。

遠い遠い、昔のことです。窓が朝から涙を流していました。

ずっと荒れた天気が続き、鈍色の空が広がっていました。


元々、外には出られない体です。

雨の音を聞きながら、今日も本をめくっていました。


部屋の中は安全で、怖いことは何もない。

けれど、外に出られない自分が何よりも嫌いでした。

医者も匙を投げた難病を抱え、何年もこの部屋に閉じこもっているのです。


閉ざされた部屋にいるより、すべてを捨てて死後の世界を旅したい。

そのほうが自由で、ずっと魅力的だった。


両親が残した財産なんて、死ぬときは残らない。あてのない旅に必要のない物です。

何も持たずに、人は死んでいく。

そんなこと、分かりきっているはずなのに。


なぜ、私は今も生きているのか。悪魔でも何でもいいから、殺してほしかった。

気がつけば、魔術書を見ながら魔法陣を床一面に描いたのです。


悪魔を召喚して殺してもらおう。

この魂を代償にして、誰かの願いを叶えてもらおう。


そう思って、白墨を手に取って、床へ滑らせました。


こうして、床一面に描いた魔法陣の前に座り、道具を並べました。

単語を噛み締めるように、ゆっくりと言葉を刻んで詠唱すると、床が一瞬だけ白く光りました。

けれど、何も現れません。


「しょせん、ただの噂ということね」


悪魔なんて、この世にいるはずもないわ。

なんだか馬鹿馬鹿しくなって、掃除をしようと立ち上がりました。

雑巾を取ろうとしたその手を掴む人がいました。


「大変申し訳ございません、召喚士様。

先方の都合で、遅れてしまいました」


腰まで伸びた金髪がカーテンのように揺れたのをよく覚えています。

金色の眼は私をはっきりととらえていました。


声も上げられず、私はそのまま立ち尽くしていました。

窓も閉め切られたままなのに、どこから入ってきたのでしょう。


「先方の都合?」


「ええ、思っていたより手間取ってしまいました」


聞くべきことはそれではない。

他にもあるのは分かっているけれど、体が言うことを聞きません。


人に会うのなんて、本当に久しぶりのことだったのです。

あいさつをするのも忘れたまま、その人を見つめていました。

魔法陣の中心に立って、膝をつきました。


「改めまして。私は魔界評議会幹部がひとり、『色欲』でございます」


真っ黒のスーツを着ていて、まるで死神みたい。

この人なら私を殺してくれると、確信を持てました。


「魔界評議会……聞いたことがあるわ。魔界を統治しているんですってね。

さっそくだけど、私のお願いを聞いてくれるかしら」


「どうぞ、何なりとお申し付けくださいませ」


つばをのんで、ゆっくりと息を吐き出した。


「私を殺してほしいの。私の魂をあげるから、誰かの願いを叶えてあげて」


魔界はこの世界に現れた異世界で、大罪の名を持つ悪魔が統治しています。

この人が治める世界は、どんな場所なのでしょう。治安が悪いとも聞くし、逃げ延びた先にたどり着く場所だとも聞く。


いずれにせよ、私には関係のない話です。

殺してもらうだけの相手なのですから。


「それはできません。召喚士様」


「えっ……えぇ? それは、どうして?」


彼はきっぱりと首を横に振りました。

断られるとは思ってもいなかったから、変な声で叫んでしまいました。


「少なくとも、私にはできません。

召喚されたご本人様自身を殺すことなど、どうしてできましょうか」


正論が飛んできて、私は面食らってしまいました。


「死にたいと本気で考えている奴のことを思えと言われても、不死身となった私にはできるはずもありません。死にたいと思うことすら、許されないのですから」


私の思っていることを見てきたかのように、続けたのです。


「だからこそ、どんな状況であったとしても、私はあなたに生きていてほしいと願うのです。私の勝手をどうか、お許しください」


深く頭を下げました。

今もなお、雨は降り続いています。雨音が沈黙をかき消すのです。


「それが、明日のことであったとしても?

私が明日、死ぬかもしれない命だったとしても、同じことを言うの?」


たまらなくなって、強い口調で聞き返しました。

死を目的に召喚したのに、それを拒否される。

砕け散りそうな心を必死に繋ぎとめて、どうにか立っていました。


少しだけ黙ってから、はっきりと彼は答えたのです。


「それならば、私はできる限りのことをしましょう。

安らかに眠れる居場所を作り、心臓の音が鳴りやむその時まで、おそばに居ましょう。

それでも満足できないのであれば……」


考えるようにうつむいた後、優しく私の手を取りました。


「骨の髄まで、貴方のことを愛しましょう」


まっすぐに見つめるその両目に、偽りはありませんでした。

今すぐ死ぬ命ではないけれど、この人は本当に殺すつもりはないんだ。

そうと分かると、死とは違った意味を持つ恐怖がせり上がってきました。


「信じられないわ。何でそんなことを言えるの?」


頭の中が真っ白になって、何も言葉が浮かびません。

その真剣な眼差しが怖くて仕方がないです。


「私、どうすればいいかしら……断られるとは思ってもなかったから、それ以外のことは本当に考えてなかったの。

これじゃあ、ただのイタズラみたいじゃない」


「貴方が気にすることでもありません。事実、そういう輩も多いのです」


彼が言うには、私のような自殺志願者に呼び出されることが多いらしいのです。

魂を操れない彼らにとって、これほど困ることもない。

今みたいに説得して諦めてもらうか、別の願いを聞いて金銭や値打品などで取引しているとのことでした。


「今日はこのような魔法陣を描いて、お疲れでしょう。

また明日、同じ時間に会いに来ます。願いごともそれまでに決めておいてください。それでいいですか?」


彼は緩く笑みを見せ、立ち上がりました。

去ろうとするその人の腕を私は掴んでいました。


「待って! 私、ネル・ヒューイットっていうの!

貴方、名前は?」


「リヴィオ・アメリア。またね、ネル」


片手を上げて、姿を消してしまいました。

膝が笑ってしまって、その場に座り込みました。

扉の叩く音を忘れてしまうほど、「またね」の一言が頭の中を回ってたのです。


「失礼します、お嬢様。今、誰とお話していたのです?」


いつまでも反応がないのを見かねたのか、クレアが部屋に入ってきました。

幼い頃から私の面倒を見てくれている使用人も、床いっぱいの円陣に驚きを隠せずにはいられないようでした。


「これは一体、誰を招いたのです? こんな大きな魔法陣、何を呼んだのです?

ああ、ついに邪教に身を投じるだなんて……こんな恐ろしいこともない!」


「別に、誰でもいいでしょう。外の話を聞きたかっただけよ」


「細かい話は後にしましょう。とにかく、今はお休みください」


床に就くように促され、大人しく毛布をかぶり、青ざめた顔で慌ただしく部屋を出て行く背中を見ていました。


部屋に取り残された私は、祈るように手を組みました。


どうか、夢でありませんように。

意識はゆっくりと闇に落ちていったのです。


***


それは、次の日のことでした。

時間通りに、リヴィオは私の部屋に来てくれました。


「昨日のことは、夢なんかじゃなかったのね」


「自分で魔法陣を描いたのに、その言い方はないんじゃない?」


苦笑しながら、どこからともなく小さな薔薇の花束を取り出しました。


「まごうことなき現実だよ、残念ながらね」


金色の目を細めて、それを差し出しました。

本当にささやかな贈り物でも、私にとっては嬉しいものだったのです。


「それで、願いごとは決まった?」


ゆっくりと深呼吸を繰り返して、花束を握りしめました。


「昨日、骨の髄まで愛してくれると、そう言ったでしょう。

だからね、私が死んだあとに骨を受け取って欲しいの」


元々、短い命なのです。他にやりたいことなんて、思いつきません。

もちろん、自分が死んだ後のことなんて、確かめようがないことなのは分かっています。それ以上に、私は昨日の言葉と恐怖を信じてみたかったのです。


「それまでは、私のところに来てくれると嬉しいけれど……ダメね、いくつもお願いしちゃいけないわ」


「そんなことはないよ。

具体的であればあるほど、実行しやすいから」


契約が成立した合図でしょうか、床の魔法陣が再び光ったのです。


「それじゃあ、それまで何して遊ぼうか?」


片目を閉じた彼の手の中には、トランプの束がありました。

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