第4話 『the Cry 前編』

1.


暗い森。背後からはけだものの咆哮。

紅い満月が不気味に輝く夜、ぼくは息を切らしながら走っていった。


月が水平線に沈むまで血に飢えた怪物から逃げ続けなければならない。


一瞬の判断ミスが命取りだーーこれが原因で、ぼくは『こちら側』の存在になった。


けれど、後悔はしていない。ビビっていただけ。


「ウォオオオワァアアアンッ」


人間の叫び声とも獣の唸り声とも判断がつかない咆哮が再び聞こえた。ついで、木々が揺れる。ぼくは振り返った。何もいない。


ホッ、とため息をついて、ぼくは胸を撫で下ろす。


息がすでに上がっていた。左右の方向感覚すら失って、同じ光景が続く深夜の森を休まずに駆けていく。


空に浮かぶ満月の光が唯一の頼りだった。


と、不意に獣の臭いが鼻につく。


血と臓物と肉を求めて森をさ迷う、怪物の臭い。

人間を狩る捕食者の臭い。化け物の臭い。


ぼくは咄嗟に木の影に隠れた。息を殺す。まだ見つかっていない。


怪物はぼくを探している。

今夜の獲物はぼく自身だ。


周囲の様子を確認しながら、怪物は木々の裏を一つずつ見て回っていく。生きた心地がしない。ゆっくりと、確実に、ぼくへと迫ってきている。「死」がすぐそこまで姿を現している。心臓の鼓動が早くなるのを抑えられない。


そして、遠くの方で物音が鳴った。


怪物はその場を離れ、音が聞こえた方向に走っていく。


しめた、と思った。命拾いしたと思った。ぼくは急いで立ち上がり、怪物が去っていった方向とは逆に逃げようとする。


それが最初で最後の判断ミスだった。


ボキッ、という音が足下でしたのだ。小枝を踏んでしまったらしい。気付いた時には遅かった。


怪物が背後で息を漏らす。

人間の邪悪な嗜虐性と獣の純粋な残虐性を宿したギラついた瞳がぼくの姿を映している。

四本の大きな牙から、だらり、と涎を垂らして。


ぼくが生前に見た光景がそれだった。


2.


正直に話すとしよう。

ぼくが彼らフリークスの仲間入りした話を。


あの一件のあと、ぼくは脱け殻のようになっていた。間に合わせのカバーストーリーに記憶を書きかえられて、この時点ではシャロンとダレンの最後を覚えてさえいなかった。偽の記憶は、二人が事故に巻き込まれて死んだことになっている。


けれど、あの男の存在までは忘れられなくて。


ぼく個人の記憶が消されたところで、犠牲者たちがニュースで取り上げられなくなったわけじゃない。


不自然に止まった謎の連続猟奇殺人について、ワイドショーの有識者たちは常識に囚われた憶測を語っていた。


とはいえ、それも「消費期限」が切れるまでの話だ。あの街を離れた頃、人々の話題は別の州で発生した無差別殺傷事件に取って代わられている。


それでも、二人の本当の最後を思い出すきっかけには十分だった。


首なしの死体。継ぎ接ぎの屍体。


小さな違和感が大きな綻びとなって、グロテスクな光景が洪水のように脳内へ押し寄せた。ダレンを見殺しにしたこと。シャロンを自分の手で下したこと。人間の脳は、記憶を完璧に忘れられるようにはできていない。曖昧な記憶が曖昧なまま。


だから、クレプスリーだけが頼りだった。


あの男に会えば、事件の一部始終を知ることができると思ったのだ。


夜明けの街に消えた老紳士が意識を失う直前に見た最後の光景だった。けれど、本名も、どこにいるのかも、何をしているかも知らない。


唯一の手掛かりは、奇妙な事件に関わっていたこと。


そこで、ぼくは考えた。


ウェブを使って、似たような変わった事件を調べたわけだ。スーパーのレジ打ちのアルバイトを辞め、一日中ネットに張り付いた。


何週間も。何ヵ月も。


ほとんどは人間が犯人のもので、すでに逮捕されていたり、昔の未解決事件だったりしたが、中には簡単に説明できないようなものもあった。


そして、見つけた。


「ハンターズ・ネット」とかいうオカルト好きが集まるアングラな掲示板で。


もしかしたら、もう一度、クレプスリーに会えるかもしれない。


そういうわけで、ぼくは森に囲まれた小さな田舎町へとやってきていた。


3.


「コーヒーを一つ。あと、オムレツも」


適当に入ったダイナーでカウンター席に座り、ぼくはウエイトレスにそう注文する。


仕事終わりだろうか、夕方の店内には恰幅のいい中年男性が何人かいた。店に入る際にちらりと顔を確認されたが、よそ者であるぼくが珍しいからだろう。たいした観光資源のないこの町に観光客が足を運ぶ理由がない。カウンター越しに立つオーナーは愛想が悪かった。後は若い女性が一人。


変な詮索されることなく、注文した料理が運ばれるまで、ぼくはこれからのことを確認する。


この町へはある事件を調べるためにやってきていた。


ジェヴォーダンのけもの。あるいは、野獣。


ネットで見つけた地方の小さな新聞記事ーー記事名は十八世紀のフランスで起きた事件からそのまま引用したらしいーーによれば、満月の夜毎、森の中で男性ばかりの遺体が発見されていた。


身体をズタズタにされた状態で。

はらわたを地面に撒き散らしながら。


最初の犠牲者は二年程前で、その後、一時期はぱったりと被害は止んでいたが、最近になって新たな犠牲者が増えはじめている。


町の住民たちは熊か何かの野生動物の仕業だと思っているらしく、初めのうちは森を捜索していたけれど、今では満月の夜になる度に家に閉じ籠っていた。


そして、この日はちょうど満月だ。


と、ウェイトレスが料理を持ってきてくれた。ぼくは礼を言い、オムレツを一口食べて、コーヒーを啜る。


ダレンのようにブラックで飲んだが、やっぱりまだ苦い。


とはいえ、ここ最近、言動や行動がダレンのそれに近くなっている。


人の記憶はある種の物語だから。


そうした物語はやがて血となり肉となり、いつの間にか、手の動きや立ち居振舞いが刻まれている。長く連れ添った夫婦が互いに似通ってくるように。考え方や話し方はシャロンに似ているけれど。


シャロンならどう思っただろうか。ダレンなら何を言っただろうか。


たぶん、狼男ウルフマンのせいだ、と言ったに違いない。満月の夜だから、と。


実際、間違っていないと思う。スナッチャーの事件も吸血鬼が犯人だと当てた者が掲示板には少なからずいたからだ。


「……あの、すみません」


不意に女性から声をかけられた。

振り向くと、褐色肌のエキゾチックな美人が立っていた。


「は、はい」


「私の家までついてきてくれませんか」


女性に慣れていないぼくは思考がショートした。


4.


「ごめんなさい。いきなり変なことを言って。でも、助かりました。ありがとうございます」


「べ、別に大丈夫ですよ。一緒に歩いただけですし」


ぼくはダイナーを出て、彼女を自宅まで送った。それでさよならするはずなのに、どういうわけか、彼女の部屋にいる。


小綺麗なアパートのワンルームだ。部屋は埃一つ見つからないほどに綺麗に掃除されていた。


彼女の名前はリサ・ブランドル。


緊張であまり顔を見ることはできなかったけれど、見たところ、ぼくより年上のようだった。二十代後半だろうか。少女にはない、知性に裏打ちされた美しさを纏っている。


普通、大体の男性なら女性の部屋に二人きりになって嬉しくないはずが、妹以外の異性に慣れていないぼくは気の効いた返し一つもできない。


部屋に入るなり、すぐに淹れてくれた果物の香りフレーバー付きの紅茶も冷めてしまっている。


ソファの隅で、ぼくは借りてきたネコのようにおとなしくしているだけだった。


「私、体格の良い人が苦手で。それに、今は何かと物騒ですし」


こんな感じでリサの部屋に向かう途中も気まずい状況が続いていた。リサもリサで人と会話するのが苦手なのか、当たり障りのないことを聞いてきて、ぼくも当たり障りのないことを答える。


リサは、ストーカーに悩まされていたらしい。


人通りの少ない田舎道を歩きながら、そう言っていた。


数週間前から誰かに尾行されている気がして、誰かに家を見張られているようだった。直接的な被害はないが、犯人に心当たりもない。


そういうわけで、一人で尾行される恐怖よりも見知らぬ男と一緒に歩くことを選んだのだ。


ぼくのような見た目の人間なら変なことをされないと思ったのだろう。紅茶を出してくれてたのは、せめてものお礼だったのかもしれない。


「ジェヴォーダンの獣、ですね」


ぼくは町の住人に事件について訊くチャンスを逃さない。


「こんな小さな田舎町の出来事なのに、あなた見たいな人も知ってるなんて意外です」


「偶然、新聞記事で見かけたので。でも、動物が意図的に人を殺すことってあるのかな」


それが彼女の琴線に触れた。


「人間だけが殺し合うって思う人が多いけど、他の動物だって同族を殺すことがあるの。チンパンジーがいい例よ。雄の成獸が別の群れを襲って殺すこともあるから」


「動物に詳しいんですね」


「……ええ。彼氏が動物が好きだったの。今はどこにいるかも分からないけれど」


そう言って、リサは部屋の隅の棚に置かれた写真立てを悲しそうに見た。離れていて、よく見えなかったが、彼氏の写真に違いない。


ぼくは落ち込んだリサに耐えられなくなり、話題を元に戻す。


「あ、そう言えば、チンパンジーと人間の遺伝子の違いって九十九パーセント同じみたいですね。それじゃあ、その一パーセントの違いが魂を造り出すのかな」


「フフッ、面白い考えね」


振り向いたリサは微笑んでいた。


「でも、その説にはちょっとした言葉のトリックがあるのよ。それに、そんなこと言えば、人間とバナナだって半分ほど遺伝子が同じだわ」


ぼくたちは笑った。


こんなに笑ったのは何時だろう。リサはシャロンに似ている。見た目は似ていないが、醸し出す雰囲気が似ていた。シャロンともたまに同じような会話をしたっけ。


けれど、そんな幸せな時間は長く続かない。


「また、あの人がいる……」


カーテンを開けたリサが、外の通りを確認したのだ。


そこに立っていたのは、クレプスリーだった。

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