第2話『From Dusk Till Dawn 中編』

1.


「無事かね。怪我はないか。噛まれたりは」


内ポケットから取り出したハンカチで仕込み杖の刃についた血を拭うと、老紳士は床に転がる犠牲者たちの死体を一瞥して、


「ここいらで狂犬病の患者が暴れていると言われてね」


その一つがぼくの足下にも転がっていた。窓から差し込む月明かりが、死体を幾つも保管するこの部屋を儚く照らす。


「あなたは……」


「そうだな。わたしの名前は」老紳士が近づき、「クレプスリー。衛生局の者だよ」


明らかにわかる偽名。胡散臭いけれど、何も考えられなくなったぼくは何の疑いも無しに受け入れている。


と、クレプスリーがペンライトを取り出し、


「これを見てくれ」


「……これは」


「アレだよ。『メン・イン・ブラック』という映画に出てくるアレだ」


その一瞬後に、目の前で閃光が走った。


ウィル・スミスが主演した映画の、目撃者の記憶を消す便利なアレ。


「真冬の肝試しもいいが、ほどほどにな」


とはいえ、クレプスリーは、アレがぼくに効かなかったことに気付いていなかったらしい。カメラのフラッシュでいつも白眼を剥いてしまう恥ずかしい癖が、今回は上手く働いていたのだ。


「連れの男性は残念だが、運が悪かった。お悔やみ申し上げる」


そして、ぼくは現実を受け入れるしかなくなった。


ダレンの死に。シャロンの死に。


「ダレンッ」


胸の前で十字を切るクレプスリーを押しのけて、ぼくはダレンのもとへ駆け寄った。


ダレンの首は骨が見えるほど深く抉れていて、女が噛みついた痕が残る腕は筋肉の腱がほつれている。タイルの床に広がるべっとりした赤い血。


「ああ……そんな……」


「さあ、後はわたしに任せて、きみは帰ったほうがいい。親御さんが心配しているぞ」


クレプスリーが急かすように言う。


ぼくは床に転がる犠牲者の死体を見た。飛び散った血の色は暗くてよくわからないが、それでもダレンの真新しい血の色とは違う。

離れたところでは少女の顔が真っ二つにスライスされて、腐った脳みそをこぼしていた。さっきまで動いていたのが不思議なほど腐乱していて、ニュースによれば、この一ヶ月以上前に死んでいるはずなのに。


「ウイルスに感染しないうちにはやーー」


「これは狂犬病なんかじゃない」


「ーーなに」


「この人たちはスナッチャーの犠牲者だ。二人は最初から死んでたんだ」


「医者が勘違いしていたんだな。たまにあるんだよ、そういうのは」


呆れているのか、やれやれというようにクレプスリーは頭を振った。


「それで、スナッチャーとやらについて知っているのかね」


「……そうだよ。それに、居場所について検討もついてる」


この時、ぼくはダレンの言葉を思い出していた。ほとんど当てずっぽうなダレンの推理。ダレンの言葉がこんな風に役立つなんて。


「妹も友人も」ぼくはダレンの死体を見やる。「スナッチャーのせいで死んだ」


「奴はどこにいる」


「どうして、衛生局の人間が殺人鬼を追うのさ」


「感染原の可能性があるのでな」


ばつが悪そうにクレプスリーは咳払いする。


食いついた、と思った。患者を殺したーー最初からそれは死んでいたがーーこと自体がおかしい。なにかしら知っているのは間違いなかった。


「教えるには条件がある」


「何だね」


「この人たちは何だったんだ。なぜ、シャロンが殺されたのか。なぜ、ダレンは死ななくちゃいけなかったのか。ぼくはそれが知りたい」


ぼくたちの間に沈黙が続く。一瞬、外から声が聞こえた気がした。


ややあって、


喰屍鬼グールだよ、これは」


「……グール」


「それらは死んだ人間の肉体を動かし、生者を襲う。言うなれば、ゾンビ。歩くウォーキング死体デッドというわけだ」


「あり得ない……」


「あり得ない、か。信じないのならそれもいい」


クレプスリーの言う通り、にわかには信じられなかった。だが、目の前で起きたことは全て現実だ。


「わたしは教えたぞ。次はきみの番だ」


と、クレプスリーは部屋の入り口の方向を気にした。受付が騒がしくなっている。


騒ぎを聞きつけた警官が調べにやってきたらしい。


「ぼくも一緒に連れていけ。ここで警察に捕まられば、奴を追えなくなるね」


警官たちが近づいてくるのが分かる。複数の懐中電灯の光が入り口から見えた。


「……仕方ないな」クレプスリーはこめかみに手を当て、「わかった。いいだろう」


だが、と続ける。


「ここでやり残したことがある。後で落ち合おう」


「じゃあ、北に二区画ツーブロック先の路地裏で待ってる」


そうして、ぼくは窓から逃げた。


ダレンとシャロン。二人の死体を残して。


2.


あの人を待っている間、何度、夜空に浮かぶ月が雲に隠れ、再びその姿を見せただろう。


と、クレプスリーが杖をつきながら現れた。


「奴はどこかね」


「ここだよ。この下だ」


ぼくたちは今にも殺人事件が起きそうな雰囲気の路地裏にいる。足下にはマンホールがあり、ぼくはその蓋を指差した。


逃げてきた方向へ消防車や救急車の列がサイレンを鳴らして通りすぎていく。


「ふむ、下水道か。これなら日光に邪魔されることなく、日中移動することができる。考えたな」


正直に言って、ダレンの推理に納得するとは思っていなかった。けれど、クレプスリーは確信している。


スナッチャーはつまりーー。


「何者なんだ、そいつは」


そこで、クレプスリーはぼくの方へと歩み寄り、杖でマンホールの蓋を開けた。


下水道の臭い。


なんとも言えない臭気が開けた瞬間に押し寄せる。


「ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』ぐらいは知っているだろう」


「古い小説でしょ。それはただの物語だよ」


「一八八五年、ヴァン・ヘルシング教授がドラキュラ伯爵を退治した。小説の出来事が実際に起きていたとしたら。いや、事実を小説として記録していたというべきだな」


「スナッチャーは吸血鬼ヴァンパイアだって言っているように聞こえるけど」


「その通りだ。犠牲者が喰屍鬼グールとなっていた以上はそういうことになる。グールは、ヴァンパイアに襲われた人間の成れの果てであるのでね」


思わず、ぼくは首を振った。馬鹿げている。


「じゃあ、それを追うあなたは何なんだよ」


「わたしか。わたしはそうした怪物達フリークスを狩る変人フリークさ」


クレプスリーは、ニヤリと笑う。


「怖じ気ついたかね。逃げるなら今のうちだぞ」


「誰が」と、ぼくは吐き捨てる。


ここで逃げ出したら、誰がシャロンとダレンの仇を取るのだろうか。ぼくが終わらせなくちゃいけない。二人のためにも。


「では、先に降りてもらおう」


「また、レディファーストか」


クレプスリーに言われるがまま、梯子を使って下水道へと降りていく。鼻につく糞便の臭いが増し、ぼくは顔をしかめる。


「知っているかね。その由来は、中世のヨーロッパで女性を盾代わりにして、自らの身を守る習慣から生まれたそうだよ」


ぼくを見下ろすクレプスリーの顔はまだニヤついていた。


3.


真っ暗な下水道が続く。臭いには慣れてきたが、べっとりとまとわりつくように、人々が営んだ生活の成れの果ての臭いが充満している。手に持った懐中電灯で辺りを照すとはいえ、その明かりは周囲の闇に比べると心もとない。


さっきまでレディファーストがどうとか言っていたクレプスリーは、ぼくの先を歩いていた。


手にダレンの首をぶら下げて。


最初、戸惑い共に憤りも覚えたけれど、「これ」が奴を追う、とクレプスリーは言った。


ダレンも喰屍鬼グールとなっていたのだ。


ぼくはクレプスリーの言葉を思い出す。

ゾンビのように、グールに噛まれた人間もグールとなる。グールは互いに襲わない。


それは死者の脳内に潜り込んで、生者が発生させるシナプスの光と同じように屍体の脳味噌へ電気信号を送り続けるのだという。だから、頭部を破壊するとグールは機能を停止するのだろう。


逆にそれを利用したというわけだ。


グールは臭いで自分達以外を区別している。その機能をハッキングして、自分と同じグールにだけ反応するように変更できるとしたら。


グールが主である吸血鬼ヴァンパイアを襲うところを見たことがない。


ダレンの頭を開いたクレプスリーは、そう言って、再プログラムし直すことでスナッチャーを追うように仕向けたのだ。嗅覚を強化しながら。


医療用のメスとプログラム用に使用する小さな器具を用いて「手術」するその光景を、ぼくは目の当たりにしなくちゃいけない。


痛みを感じないはずダレンが、声にならない呻き声を漏らすその光景を。


生きていれば人間で、死ねば物。そう簡単にわりきれるもんじゃない。親友ならなおさらだ。


その時、ふと、疑問が脳裏をよぎった。


ダレンとダレンだった何かを区別するものはどこにあるのだろうか、と。


魂には二十一グラムの重さがあると言ったのは誰だったっけ。


死体安置所モルグに忍び込んだ時点で、ぼくは世界の闇へと片足を突っ込んでいる。


人狼ウェアウルフ魔女ウィッチ、そして、フランケンシュタインの怪物ザ・クリーチャ


彼ら、あるいは彼女たちは、人知れずひっそりと暮らしていて、そうした怪物達に襲われる人間が少なからずいる。


世界中で理由もわからず失踪した人たちや、未解決も殺人事件。


その幾つかが怪物達の仕業かもしれないのだ。


クレプスリーは、そうした怪物達を狩る組織の人間だった。


そうして、ぼくたちは終着点へとたどり着く。


人が通れるほどの大きさがある壁の割れ目の前で、ダレンが鳴いた。


「ここだ」とクレプスリーは言う。


クレプスリーはダレンを地面に置き、踏みつけようとしたが、ぼくがそれを制止させる。


けじめを着けるのはぼくだ。


クレプスリーがくれたマッチの火で、ダレンを焼いた。


ありがとう。最後まで手伝ってくれて。


それはもうダレンですらないのかもしれないのに、ぼくは涙を止められなかった。


どれほど泣いていただろう。最期の一滴を服の袖で拭って、割れ目の中を通り抜け、ぼくたちはついにスナッチャーと対峙する。

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