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 ここは私の実家ではあるが、今は誰も住んでいない。


 3年前に母が脳溢血で急に亡くなり、後を追うように1年前に父も亡くなった。それ以降、ここでピアノ教室を開いている私がこの家の名義を受け継ぎ、両親の貯金は全て妹の桜子さくらこに相続された。


 私に最初にピアノを教えたのは母だった。そもそも、ここでピアノ教室を最初に開いたのは母だったのだ。私はそれを引き継いだ二代目、と言えるのかもしれない。


 そして父は高校の国語の教師だった。二人の教育者の間に産まれた私は、ピアノのそれはともかく、人に物を教える才能には恵まれていたらしい。自慢じゃないが私の代になってから評判もぐんと上がったし、生徒数も増えた。おかげでここを改築し、7型のグランドピアノを一括で購入して置けるくらいにまでになっている。


 とは言え、私の生活の基盤はここではない。現在の私の自宅はここから3キロほど離れた、3LDKの分譲マンション。そこに夫婦二人きりで暮らしている。


 玄関に鍵をかけ、さらにホームセキュリティをONにする。駐車場に停めてある緑色の愛車、ミニ・クーパー・40thアニバーサリー・リミテッドのドアを開ける。


 大学卒業後に新車で買って以来、もう二十年近く乗っていて、さすがに色々壊れることもあるが、その都度行きつけのショップに頼んで修理してもらっている。私のお気に入りだ。現行のBMWミニは私の趣味に合わない。やはりミニと言えばクラシックだ。


 シートに腰を下ろした瞬間、スマホが着信した。夫の良祐りょうすけさんだ。県立病院の消化器医師。


『もしもし、百合子? 今いい?』


 心なしか、疲れを感じさせる低い声。


「ええ。なに?」


『ちょっと手術が長引きそうなんだ……夕飯、先に食べててもいいよ』


「分かったわ。頑張ってね」


『うん。それじゃ』


 ……よかった。これで少し時間的に余裕が出来た。いつもは時間が無くてスーパーの惣菜で済ますことも多いが、今日は久々にクリームシチューにでもチャレンジしようかしら。ホワイトソースを一から作って。


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「ただいま」


 結局、良祐さんが帰宅したのは22:00過ぎだった。


「お帰りなさい」


「おお、いい匂いだな。シチューか」


 良祐さんが鼻をヒクヒクさせる。クリームシチューは彼の好物だった。私は既に食べてしまったけど、白ワインを隠し味に入れて作ったお手製のホワイトソースは、自分でもなかなかのものだったと思う。


 そう言えば、私に大きな影響を与えた少女マンガの一つである、くらもちふさこの「いつもポケットにショパン」の主人公は、シチューが得意料理なのだった。だけど……ぶっちゃけ、シチューってそんなに難しい料理じゃないのよね……


「私は先にいただいちゃったけど……お酒だけ、ご相伴しょうばんするわ」


「ありがとう」


 良祐さんが上着のジャケットを脱いで、ハンガーに掛ける。


 その時。


「……?」


 なぜか、違和感があった。


 なんだろう。


 だが、それに気を取られている場合ではなかった。シチューをよそわなくては。


 私はダイニングに向かう。


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 よほど空腹だったのだろう。良祐さんは生野菜サラダを一瞬で平らげ、シチューを続けざまに3杯もおかわりした。お酒を飲む時は、彼はご飯は食べないのだ。


 私は冷蔵庫から冷え切った二つのタンブラーとビーフィータージン、シュウェップスのトニックウォーターを取り出し、ライムを切ってタンブラーの上で絞る。そしてそれらに氷を入れ、ジンとトニックウォーターを注ぐ。ジンは少しだけ多めに。バースプーンでくるりとステアして、出来上がり。タンブラーの一つを、良祐さんに差し出す。


 乾杯。チン、という乾いた音がダイニングに跳ね返る。


 タンブラーを傾けると、炭酸が口の中ではじけ、柑橘系とアルコールの香りを振りまく。鼻腔でそれを堪能しつつ、ひりつく刺激を喉ごしに楽しむ。今日のジントニックは上出来だ。


「……それがさぁ、腹腔鏡ラパロで見たらS字結腸シグモイドが背中にびっちり癒着しててさ……しかもこれが全然剥がれないんだよ。おかげで6時間もかかっちゃって……」


 アルコールが回ってきたのだろう。良祐さんの頬に赤みが差してきた。私は昔から酔ってもあまり顔に出ない性質たちだ。


「それで、手術は成功したの?」


「ああ。超音波でなんとか剥がして患部を摘出した」


「そう……大変だったわね」


「ああ……本当にな……」


 良祐さんの目が、すわり始めた。このままでは彼はここで寝てしまう。


「あなた、着替えてお休みになったら」


「……そうさせてもらうよ」

 

 のっそりと良祐さんが立ち上がり、寝室に向かって歩き出す。。


 いつもなら洗い物は彼の仕事だが、さすがに今日は無理だろう。私は食器を重ねて、キッチンのシンクに向かう。


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 風呂から上がり寝室に入ると、思った通り、良祐さんは大いびきをかいていた。部屋の灯りは点いたままだ。おそらく酔っ払った彼は一刻も早く横になりたくて、それを消す余裕すらもなかったのだろう。


 若い頃は彼のいびきで眠れないこともあったが、今ではもうすっかり慣れたものだ。今日は割とレッスンが長時間続いたので私も疲れていたが、彼のようにそのままベッドに飛び込んで眠るわけにはいかない。眠気をこらえて私は三面鏡の前にすわり、ナイトクリームを取り出す。


 若い頃はこんなことをしなくてもなんともなかった。だが、さすがに不惑と呼ばれる年齢ともなると、肌の手入れを怠るわけにはいかない。男もつらいけど、女もつらいのよ。


 顔と手のケアを一通り済ませ、ようやく私は良祐さんの隣に自分の体を滑り込ませて掛け布団を羽織る。


 出会った頃の激しい恋慕の情は、既に失われて久しい。だけど、それに代わって私の中には、安心感、とでも表現されるような、彼に対する穏やかな気持ちがあった。おそらくこれが夫婦愛、家族愛と呼ばれるものなのではないか。私はそう感じていた。それで私は十分満足していたのだ。幸せ、と言えば、そうなのかもしれない。


 そして、それは今後もずっと続いていく。その時の私はそう信じていた。


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