15.七年目


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 ──────


 大丈夫だよ。

 

 初めて数学教師から複素数を習ったとき、「殺すぞ」と思ったのは君だけじゃない。


 虚数iの部分でこめかみを突き刺して、「虚ろだからダメージないはずですよ」と微笑んであげたくなったのは君だけじゃないんだ。


 数学教師っていうのは点Pを止めることもできないまま人前に立っている恥知らずなんだ。寿司屋がまだ跳ね回っている魚を出してきたらどうなる? 腸抜きされて群馬に国外追放されるよね?

 

 だからあんな奴ら気にしないで。君はこの式だけ解ければいいんだよ。



 僕+君=?



 分かるよね? え? 「最高のカップル」? ……惜しいなぁ。あ、「史上最高のカップル」? う〜ん、もう一声!


 ほら早く答えて! 僕「=」の上下のバーに挟まれてて段々潰されていってるから! 早くっ! ねえ、早く! 死んじゃう死んじゃう!ミンチになってやがて灰になってこの世に愛だけを残しちゃう!



 ボルケーノ伯爵「それもありじゃ」



 確かに! さすが伯爵です!

 

 ──────



 我ながら震える。今日もまた名作を書いてしまった。


 キャンピングカーの小ぶりなダイニングが今の僕の書斎。ベッドと運転席とここの三箇所をベルトコンベアのように周回するだけの生命になってから数ヶ月経つ。我こそは進化の到達点である。


 買い溜めしている封筒に便箋を入れ、唾液こころを込めて切手を貼り付けた。さあ、ポストを探すついでに旅を続けよう。


 あてがあるわけじゃない。これ以上寒くなる前にもっと南の方へ行きたいとぼんやり考えている程度だ。しかし東京を出発点とした車旅にはしばらく大幅な南下の道筋がない。和歌山で行き詰まってしまい、結局今は四国を目指している。


 まったく、日本列島は長野あたりにピンを指して反時計回りに十五度ほど回転させた方が可愛げが出るだろうに。その際に発生する遠心力から”君”を守る為、家の壁をプニプニした素材(いわゆるプニ材)に取り替えておかねば──


「これもポエムのネタにするか」


 旅は良い。景色が刺激を、時間が思考をくれる。


 おかげで僕のポエムは絶好調である。長らく苦しんでいたスランプから抜け出し、すっかり完調したと言っていい。何もかも捨てるという決断はきっと、間違っていなかったのだと思う。


 置き去りにしてきたものたちへ思いを馳せてしまう時もある。だがその気持ちすらも湧いたそばから置き去りにして、僕は前とも分からぬ方向へ進んでいく。


「……お」


 トンネルを抜けると海が見えてきた。


 以前は海なんてものはどれも一緒だと思っていた。だが「この海なら“君”は海の家で買った焼きそばを食べるのに何分何秒かかるか」と考えると毎回違った結果になるため、案外個性があるのだと気がついた。


 ちなみにこの海だと八分十六秒ってとこだ。九分を切ることはなかなかない。実に良い海だ。確かにあの波の白さと岩肌の黒さ。コントラストが美しい。


 ────せっかくだからちょっと降りてみるか。


 僕は安全な場所に車を停め、「粘着ポエマー登場〜♪」と口ずさみながら世界に姿を現した。風と波の喝采を浴びながらガードレールを跨いで、切り立った岩場へと進んでいく。


 デコボコした足場はいかにも危なっかしい。頬にかかる水飛沫も冷たい。わざわざ好き好んで踏み入るような場所ではないのかもしれない。


 それでも、こうして目的もなくただ気の向くまま行動するたび、僕はこう思うのだ。


「……自由だな」


 僕はいつどこで“君”を想ってもいい。これが僕がどうしても手に入れたかった、君と僕だけの世界。


「……あ! 今こそアレのチャンスだな!」


 自由について考えているとふと思い出した。以前テレビか何かで目にして、いつか僕も挑戦してみたいと感じていた競技がある。この場所は実に相応しい。


 僕は小走りで車に戻り、戸棚からアイロンとアイロン台を取り出した。


 エクストリーム・アイロン掛けをご存じだろうか? 雪山や海上など、アイロン掛けとは程遠い環境であえてアイロン掛けするというスポーツだ。存在からして冗談みたいだが、オリンピック種目にしようなんて動きもあると聞く。


 この自由な発想は創作者として見習いたいものがある。実践して学ばせてもらおうではないか。


 適当なシャツを一枚拾い上げて再び岩場に赴く。しっかりした四つ足があるはずのアイロン台がまともに立たない。当たり前のことだが、服を平らにするという作業は平らな場所でやるべきだ。


 どうにか鉄板をシャツに押し当てる。しかし水飛沫が遠慮なく降り注ぎ、シワをどうこうする以前に洗濯からやり直すべき状態になっていく。


「本末転倒過ぎる……!」


 良い意味で滑稽だ。本当に意味不明な競技だが、意味を問うこと自体がナンセンスなのだろう。そこにあるのはアイロンへの深く倒錯した愛情だけだ。


 僕も”君”が好き過ぎるあまり強く抱きしめて角砂糖サイズに圧縮してあげたい衝動に駆られることがある。愛は時に凶暴で、愛する者をも傷つけてしまうことがある。しかしその傷を塞ぐのもまた愛なのだ。


 ……ってことを、このスポーツは表現しているのだろう。実に示唆に富んでいる。これは明日のポエムのネタになりそうだ。


 ああ、明後日は、明々後日は、君を何に例えよう。世界には概念があり過ぎる。これは面白くなってきた。デスクの前ですら数千のポエムを書けたんだ。もっと色んな光景を目にすれば、きっと。


 僕はアイロンセットを片付け、記録八分十六秒の海を日が暮れるまで眺め続けた。自由を噛み締めるように時間を浪費して、この旅の続きに期待を膨らませる。



 ────君と僕だけの世界。最高の決断だった。


 誰に邪魔されることなくいつまでも”君”に浸かっていられる。

 僕は心の底からこの旅を楽しんでいるんだ。

 いっそ永遠に続けよう。何の憂いもない。悲しくも虚しくもない。


 良いんだ。僕はこれがしたかった。


「……良いんだよ、これで」


 頭の中を駆け巡る「本当に?」という問いかけをかき消すように、僕は呟いた。

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