第4話 原作者・百目鬼肇のアンチモラル


 

 

「あ、先生、ようこそ。今日は東京からですか?」講堂の出入り口に抜かりのない目を泳がせていた佐藤プロデューサーが、滑稽な黄縁眼鏡をきらりと光らせた。


 処女作『フリーター豚・ジロー』の思いがけないヒットで、いまや堂々と作家を名乗っている百目鬼肇(66歳)が小太りの半白髪を小股でヨチヨチ運んで来る。

 親戚の揉め事に巻きこまれ当地に嫌気がさしたとかで、県立高校教諭を定年退職すると東京に移住し、妻と共に港区のタワーマンションで悠々自適と聞いていた。


 臆面もない揉み手の佐藤プロデューサーに、ほんの少し顎を上下させた百目鬼肇は、縁なし眼鏡の奥の灰色の眸をすっとすぼめると、文花を見て、香山悠太を見た。

 年齢相応の深い豊麗線にチリッと皺が奔る瞬間を、文花は見逃さなかった。

 

 ――そりゃあそうだよ、うしろめたいよね。

 

 薄く微笑み返しながら、この場にいない諒子社長に替わってうそぶいてやる。

 詳細な事情を承知している香山部長は営業マンの慎みを自ら放擲ほうてきするものと見え、長い脚をAの字に開き、母校の大先輩の自称作家と対峙姿勢のかまえである。


「いよいよですね。いかがですか、初めてのご著書が映画になる、滅多にない幸運へのご感想は?」空気を読めないのか、あるいは敢えて読まないのか知らないが、佐藤プロデューサーがここぞとばかりにヨイショを試みたが、「いや、別に……。若いみなさんの情熱に、正直、戸惑っていますよ」商業ベースの煽てに乗っては、元エリート教師の沽券に拘わるとばかりに、百目鬼肇は木で鼻を括ってみせた。


 先生と仰がれつづけて40余年。骨の髄まで染み付いた鼻持ちならない教師臭が新品らしいオーダーメイドのブレザーの、丹念な縫い目からも立ち昇っている。


 他者の意を迎えたり喜ばせたりのサービス精神とは無縁で生きて来た人物特有の傲岸不遜に呆気なく弾き飛ばされた佐藤プロデューサーが、文花はほんの少しだけ気の毒になった。

 

「あ、社長」

 佐藤プロデューサーの声があきらかに怯える。

 振り返ると、今度こそ文花の母の諒子だった。


 本日は文花編集長の介添えに徹そうというつもりなのだろう、諒子が持っている仕事用のスーツのなかでもとりわけ地味なグレーのパンツスーツを着用している。


 身体を動かすことを厭わない諒子は、娘の文花と同じカジュアル系ファッションの着心地を喜ぶが、さすがに今日ばかりは綿パンにスニーカーとはいかず、PTAのオバサンが履くような冴えないパンプスを如何にもぎこちなさげに履いていた。


 いまから15年前、文花が小学5年生のとき、自ら創業した会社も家庭も捨てた父が、代議士秘書の女性と出奔したとき37歳だった諒子は、以来、すべての金気かねけを遠ざけた。ネックレス、イヤリング、ピアス、ブレスレット……娘の文花には惜しみなく買ってくれるのに、自分のアクセサリーはなにひとつ欲しがらない。今日の装いの唯一の彩りと言えそうなのは露草色の水玉スカーフだけだが、5月の高原を吹き渡る涼風のような色彩が実年齢よりかなり若々しく見せている。


「ごめんなさいね、遅くなって。国道の渋滞に巻きこまれちゃって。あのあたり、いつもそうでしょ? あれ、ほんと、なにとかしてもらわなきゃ……」同じ目に遭った香山部長に諒子社長が訴えているとき、高砂警察署の交通課長がパトカーを降り、短足をせかせかと運んで来る場面が窓越しに見えた。映画のロケで路上撮影の許可をもらったので本日の試写会に招待してあったのだが、まさに狙ったようなタイミングである。


 いっせいに噴き出した4人をよそに、一度も運転免許を所持しないため、ひとりだけその意味を解せない百目鬼肇の、粉吹き芋のような頬がぴくりと引きつる。

 素早く見て取った諒子社長が、吉祥天のような頬にゆるふわパーマをやわらかく揺らせながら「百目鬼先生、本日はおめでとうございます。いよいよ封切でございますわね。わたくしども翡翠書房といたしましても、まことに光栄に存じますわ」懐かしい旧友に贈るような祝詞をあっさり述べたので、座が一気に和んだ。


 処女作の映画化に舞い上がり、翡翠書房にはいっさい内緒で教え子の新聞記者の伝手を頼り、東京の出版社に新装版の出版を依頼するという、教師や文筆家以前に人としての道義にもとる行為に憤慨していたことなど、ちらりとも仄めかせない。


 さすがは海千山千で鳴らした諒子社長。

 外面如菩薩げめんにょぼさつ内心如夜叉ないしんにょやしゃを地で行っている。

 オトコマエな母に、文花は心からの喝采を贈った。

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