オレンジハンガー

 クローゼットを開いた。


 黒いハンガーにかけられた私の洋服たちは隙間なく重なり合っている。多いなぁと思う。

 ワンルームの六畳の部屋に備え付けられた、ありふれたクローゼット。

 私は他人のクローゼットの中身を見たことがない。だからこの洋服たちが、一般的に多いのか少ないのかなんて分からない。少なくとも私は、下着や靴下を使い捨てするものだと思っているような人種ではないし、穴が開いたりほつれたりしないかぎりは洗って使い回すただの小市民だ。どこかのお嬢様に「私はお洋服をたくさん所持していますのよ」なんて言った日には、「あら本当ね。こんなに部屋着をお持ちになっているなんて羨ましいわ。ところでデート用のお洋服と、旅行用のお洋服と、お友達とランチにいくときのお洋服と、ディナーに行くときのお洋服と、パーティー用のお洋服と、わんちゃんとお散歩に行くときのお洋服はどこにあるのかしら」なんて言われてしまうかもしれない。

 誰かと比較したわけではなく、このクローゼットにかけられた洋服たちが一着を除いてすべて私のものだと思ったら、多いなぁと思ったのだ。

 あの日さっちゃんは、仕事帰りに私のアパートにやってきた。テレビの配線を繋げてくれる約束だったのだけれど、部屋に着くなり「面倒臭い」と文句を言った。


「疲れてるなら今度でいいよ。私テレビあんまり見ないし」

「冗談じゃない。俺が今テレビを見たいんだ」


 さっちゃんはそう言ってスーツの上着を脱いだ。


「ハンガーある?」


 積まれた段ボールのなかから黒いハンガーを一本出して、さっちゃんに渡した。


「これ小さいよ。スーツが型崩れするじゃん。もっと大きいの買っておいて」


 これから何度も、さっちゃんはこのアパートにやってくることになるのだろうと私は思った。同じようにさっちゃんも考えているのだろうということを感じて、胸の奥が、きゅうっとなった。それを悟られるのが悔しくて、私はさっちゃんの口癖を真似た。


「やだよ。面倒臭い」

「そんな生意気なこと言ってると、引っ越し祝いあげないよ」

「引っ越し祝いって、その紙袋? 何が入ってるの?」


 さっちゃんは持っていた紙袋のなかから、タグの付いたままのパーカーを出して私に渡した。


「これ男物じゃない? 私には大きいよ」

「当たり前じゃん。俺が着るんだから。俺がここに来たとき用の部屋着にするんだ。いつも綺麗に洗っておいてね」


 それは引っ越し祝いとは言わないと思ったけれど、さっちゃんがあまりに無邪気に笑ったので、私もつられて笑ってしまった。

 パーカーはほとんど白に近いライトグレーだった。胸のあたりにDOMINOとプリントされていた。

 さっちゃんは洋服のセンスがはっきり言ってない。さっちゃんはスーツが一番似合う。着替えたパーカー姿も間抜けだった。

 間抜けで、ひどく可愛いかった。

 そういえば、私がさっちゃんのことをさっちゃんと呼び出したのは、この日からだった。さっちゃんは「変なあだ名をつけるな」と怒っていたけれど、繋がったテレビを見ながら、二人で宅配ピザを食べるころにはすっかり馴染んでいた。

 次の日、私は大きなハンガーを百円ショップで買った。さっちゃんがすぐに見つけられるように、オレンジ色のハンガーを選んだ。ハンガーは三本セットだったので、私は余った二本を捨てた。普段はグレーのパーカーをかけておいて、さっちゃんがきたときはスーツをかけるために使った。

 オレンジ色のハンガーは思った以上に目立って、クローゼットを開くたび、私を幸せな気分にさせてくれた。少し、前までは。

 意識的に見ないようにしていたクローゼットの右端に、オレンジ色のハンガーはかかっていた。当たり前のことなのに、それが不自然に感じられた。

 太陽みたいだ思っていたオレンジ色は、よく見るとチープで安っぽかった。ハンガーを手に取る。べたついたプラスチックの感触。汗をかいているのはハンガーではなく私の掌なのだけれど、この先の運命を悟ったハンガーのひや汗のように感じてしまう。

 大きなハンガーは軽いけど、大きなパーカーはずしりと重い。

 ハンガーを斜めにかたむけて、ゆっくりと外した。さっちゃんが真夏でも着ていたこのパーカーは綿95パーセント、ポリエステル5パーセントでできている。「ポリエステルが5パーセント入っていると、袖が伸びにくいんだ」とさっちゃん自慢げに私に話した。洋服のセンスはないくせに、変なこだわりを持っている男だった。

 さっちゃんのパーカーに、私ははじめて袖を通した。柔らかくて暖かい。裾も袖も長くて、まるでパーカーに抱きしめられているようだった。

 そのとき、微かに甘い花の香りがして私はうずくまった。

 私は知っている。この香りは、私の家にある柔軟剤の匂いだ。私はもう、さっちゃんの匂いを思い出すことができない。

 パーカーの右腕に、いびつな丸い染みが広がった。その染みが消える前に、私はパーカーを脱いだ。ポリエチレンのゴミ袋は、乾いた音でパーカーを受けとめた。オレンジ色のハンガーも一緒に放りこむ。縛ろうとした瞬間、思い直してハンガーだけを取り出した。

 私は新品の黒いパーカーを、オレンジ色のハンガーにかけた。彼は体が大きいから、きっとXLサイズで丁度良い。

 近づいてきたバイクのエンジン音が、アパートの前で止まるのが分かった。きっとこれから何度も、私はこのバイクの音を聞くことになるのだろう。

 アイラインが滲まないように、私はそっと、目尻をティッシュでおさえた。

 

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