第2話


 ざわめく時期



       1


 十月十二日、日曜日。

あつくん……?」

「っ!?」

 瞬間、双眸で見つめる眼前の光景に、三神みかみあつはこれまでの人生で一番の驚きを得た。

「篤くん!」

「……細井ほそい

 篤が待っていたエレベーター。扉の上にある回数表示灯が徐々に数を減らし、ようやく一階に到着したエレベーター。その扉が開くと、そこになんと細井ほそいあいがいた。瞬間、まるでそうなることが運命づけられていたかのようにぴったりと目が合う。視界にある細井藍の瞳には大粒の涙が浮かんでいく。刹那、藍は地面を思い切り蹴って篤の胸へと飛び込んできた。

「っ!?」

「篤くん篤くん篤くん篤くん!」

 藍は上擦った声でひたすらに篤の名前を呼び、篤の胸で泣いていた。


 今日が十月十二日の日曜日。篤が聞いた話によると、六日の火曜日から細井藍が学校を休んでいる。それを知ったのは一昨日の金曜日。その内容は入院中の兄、細井蒼あおの容態が急変したということで、妹の藍は学校を休んで四六時中その付き添いをしていた。

 昨日、篤は蒼のこと、また藍のことが心配になり病院を訪れていたが、どちらにも会うことはできなかった。その理由は、病室が変わっていたから。ロビーで問い合わせたのだが、親族でない篤は教えてもらうことができず、打つ手がなくそのまま帰路につく。

 その夜、容態が急変したという蒼のこと、そして病院で不安を感じているだろう藍のことを考えていると、とても勉強に身を入れることができなかった。その日は諦めてベッドに潜るも、その頭は常に病院にいる二人のことを考えてしまい、なかなか寝つくことすらできなかった。

 睡眠不足のまま迎えた十二日の日曜日、やはり勉強に集中できず、もう居ても立ってもいられなくなり、昼過ぎにこうして愛名あいな大学付属病院を訪れていた。昨日は諦めて帰ったが、とにかく病院の端から端まで見て回れば何か分かるかもしれないと、エレベーターを待っていたら、開いた扉の向こう側に藍がいて、いきなり抱きつかれた。

 篤は、泣きじゃくる藍を気づかないながら、人目を気にして北病棟と南病棟の間にある中庭へと移動していた。

「……ごめんね、ごめん……ごめんね、篤くん……」

「いいから。そんなの別に謝ることじゃないから」

「ごめんごめん……わたし、どうしたらいいか分からなくって、どうすることもできなくなって……不安で不安で……不安で。わたし……」

「ほら、ゆっくり落ち着いていけばいいよ。今はちょっと頭がこんがらがってるだけだよ、きっと」

「ごめん……」

「謝る必要ないから」

 中庭に設置されているベンチに座り、篤は横にある頭をやさしく抱える。そうやって支えていないと、その存在は大きな波に襲われる砂の城のように脆くも崩れていってしまいそうだったから。

「……細井……」

 篤は藍のことをしっかりと支えつつ、不謹慎かもしれないが、そのか細い存在を愛しく感じていた。

 本日は晴天と呼ぶのにふさわしい天候で、この中庭には大勢の人間がいた。芝生で座っている子供、病院服を着て散歩している老人、親に押されながら病院へと戻っていく車椅子の男の子など、人気は決して少なくなかった。のだが、運がいいのか、二人が座るベンチ周辺には誰も近寄ってこなかった。それは、篤と藍のただならぬ雰囲気に、周囲から気づかわれていたのかもしれない。どうあれ周りに誰もいないのは取り乱す藍を落ち着けるのに非常に都合がよかった。

「……ごめん……うん、大丈夫だよ。もう大丈夫だよ。ごめんね。へへっ、篤には変なとこ見られちゃったね。ごめんごめん。あー、もう、駄目だなー」

「気にしてないから」

「篤くん、やさしいんだね」

「べ、別に、やさしいとか、そんなんじゃないよ」

「ふふふっ」

 スカートのポケットから、特にこれといった柄のないハンカチを取り出して涙を拭き、藍は声を出して笑った。ようやく自身を保つことができるようになったのだろう。けれど、その笑顔は、少しでも強い風に吹かれると脆くも壊れてしまいそうな儚さを滲み出していた。

「……お兄ちゃんね、意識がなくなっちゃったんだ……」

「先輩が!?」

「うん……」

 六日前の月曜日、細井蒼は突然の昏睡状態に陥ったという。前日まではベッドの上とはいえ、通常と変わることなく会話を交わせていたのに、その日以来喋るどころか眠ったまま目を覚ますことがなくなってしまったらしい。

 そんな兄の急変に、決して受け入れられることのできない『万が一』の恐れが藍の全体を包み込み、翌日の火曜日からずっと学校を休んで病院で蒼に付き添っているのである。

「……なんかね、ちょっとでも気を抜いてるとね、わたし、すぐいやなこと考えちゃうの。お兄ちゃんがこのまま目を覚まさずに死んじゃうんじゃないかって……もう不安で不安でね、怖くてしょうがないの……。そうやって、気がつくと頭ではお兄ちゃんが死んじゃうことを想像している自分がいて、それがいやでいやで、でも、どうすることもできなくて。あーあ、いやな子だな、わたしって駄目。お兄ちゃんが死ぬわけないのに。死ぬわけないよ。だって、あのお兄ちゃんだもん。あのお兄ちゃんなんだよ。わたしの大好きなお兄ちゃんが死んじゃうわけないのに。絶対そんなこと、そんなことないのに……」

 藍は篤を見つめる。

「ねっ、篤くんだってそう思うよね? お兄ちゃん、死ぬわけないよね? だってだって、こんなにもわたしが大好きなお兄ちゃんなんだよ。こんなにも、こーんなにも。お兄ちゃんがわたしを残して死んじゃうわけないよね? ねっ? ねっ? そうでしょ? 篤くんだってそう思うよね? ねっ? ねっ?」

 藍の大きな瞳には、再び光ものが浮かんできた。

「……死んじゃうわけない……そんなわけない。そんなわけないんだよ。わたしがいるのに、お兄ちゃんが死んじゃうなんて、そんなことない。そんなこと絶対ない。ないに決まってる。あー、もー、わたしの馬鹿ぁ」

 藍は震える声で兄の死を否定する言葉を繰り返すのだが、そう口にすればするほど、その頬には目から零れる筋がいくつもできていく。

「っすん……死なないよね? っすん……お兄ちゃん、死んじゃわないよね? ねっ、篤くん? そんなことないよね?」

 小さく音を立てて洟を啜る。

「っすん……お兄ちゃん……お兄ちゃん……」

「…………」

 篤は、縋るように向けられた視線に対し、どんな言葉も返すことができなかった。それどころか何も思い浮かべることすらできなかった。ただ、すぐ横にいる弱々しい存在に、どうにかしないといけない気がしていて、けれど、伝えるべき言葉が出てきてくれない。そんな自分が焦れったくて仕方がなくて、だから、抱きしめた。ベンチに座ったまま、細井藍のことを力いっぱい抱きしめた。それが篤にできることだった。

「細井」

「……やだ……いやだ……いやだよぉ! お兄ちゃんが死んじゃうなんて、そんなのいやだよぉ! お兄ちゃん! お兄ちゃん!」

「細井」

 背中に回された力強い藍の腕に、篤は負けじと力を込めて抱きしめる。腕の中にあるそのか細い存在が、どこにも零れてしまわないよう、少しも崩れていってしまわないよう、篤は力いっぱい抱きしめる。

 それが今の篤にとって、目の前で取り乱す藍のためにできる二番目のことだから。

「…………」

 篤はまだ高校生。これまで社会に出たことなどなく、ましてや医学の知識なんてまったくない。篤は本当に何の能力も知識も力もないただの高校生に過ぎない。世界に選ばれてなどいない、何も世間に認められてもいない、優れた才能などない、どこにでも転がっているようなあり触れた高校生。無力の存在。

 そんな篤では、取り乱して泣きじゃくる藍のためにできることなんて知れている。不安定な少女の心を救ってあげるなんてできるはずもなく、その深い悲しみをきれいさっぱり拭い去ってあげられることなんてできるわけがない。

 けれど、できることなら助けになってあげたい。苦しい思いを取り除いてあげたい。だから篤は、藍のためにしてあげられる上から二番目のことを、泣きじゃくる藍をやさしく抱きしめる。少しでも、その支えになれるように。

「…………」

 だが、いくら篤が自分にできる二番目のことを実行していても、それが現状を好転させるものではないことを認識していた。

 そして、篤には自覚がある。自分にはまだ一番目が残っていることを。

「…………」

 それは、こんなに絶望を抱きつつある藍を至福へと導くことができる魔法のようなもの。現状をいい方向へと急転させる奇跡と呼べるもの。その魔法は篤にしか唱えることができない。

 けれど、いくらその魔法を使えるとはいえ、物凄く大きな代価が必要となる。それはもう、篤のこれからの人生を棒に振ることと同等なもの。そんなもの、いくら藍を好いているとはいえ、とても今の篤に支払う勇気などなかった。

「…………」

 篤はまだ高校生なのだ、その人生には明るい未来がある。将来がある。輝かしい明日が待っているに決まっている。とてもここでその人生を放棄することなどできやしない。

 いくら体が大きくなったとはいえ、篤はまだ子供なのだ。

 何も得られてすらいない小さな存在なのである。

 十七歳。

 高校三年生。

「…………」

「お兄ちゃん! お兄ちゃん!」

「…………」

 患者や見舞客の心を和ませるためにある中庭。そこに設置されたベンチ。泣きじゃくる細井藍の震える声が、いつまでも篤の胸を叩きつづけている。強く、強く、ただそうしているだけで激しい罪悪感を抱いてしまうほど、激しく。

 不意に木々がざわめく。篤の髪を撫でるように、さらには心を掻き乱すように吹き抜けていく十月の風は、まだ僅かに夏の匂いを残しているのだった。


       2


 十月十七日、金曜日。

 夜七時、三神篤は庄上しょうがみ緑地公園にやって来ていた。すぐそこに川幅の広い川が流れている。庄上川。ここはかなり河口近くなのでその幅は百メートル以上あった。

 日が落ち、暗闇に包まれながら篤は川に向かって足を伸ばしている。川面まで一メートルほどのコンクリートの斜面、そこに腰かけている。その目には向こう岸のさらに向こう側に見える無数の人工的な明かりを映していた。

「…………」

 この地より遙か遠方へと旅をするであろう吹き抜けていった風に、篤の腰ぐらいまである長い草が右から左に倒されていた。そこから姿も見えなければ名前も変わらない虫の音がこの世界の大半を支配している。

「…………」

 午後七時。夏ならまだ世界は明るさを有しているだろうが、さすがに十月中旬ともなると暗い。百メートルぐらい後方に設置されている外灯と、近くにある噴水の横に照明がある程度で、それではとても篤がいる周辺まで光が届くことはなかった。けれど、それだけでも隣に誰かいれば十分その顔を判別できる明るさはある。

「…………」

「端的にいくよ」

 篤の横、冬服の海田かいだ高等学校の学生服に身を包んだ渡辺わたなべ竜矢たつやが口を開く。

「知ってるよね、細井の兄さんのこと?」

 そう黒縁で丸い眼鏡を押し上げながら渡辺は篤のことを見つめている。

「三神が、知らないわけないよね?」

「……先輩の何を?」

「今日僕たちが待ち合わせした病院、愛名大学付属病院に細井の兄さんが入院してること、知ってるよね?」

 渡辺は間髪容れずにつづける。

「そして、この前の日曜日、細井の兄さんにトラブルが起きたこと、三神ならもちろん知ってるよね?」

「…………」

 渡辺の問いに、篤は言葉を返すことはなかった。渡辺と二人でこの時間この場所にいる、ただそれだけでその質問をされることは十分予測できていたことなのに。

 今朝のこと。篤はいつものように海田高校に登校して下駄箱で下履きから学年ごとに色が分かれているスリッパに履き替えていると、突然渡辺に声をかけられた。単純に驚いた。渡辺とは同じクラスであり、出身中学も同じだが、これといって仲がいいわけでもなく、普段ほとんど喋るような相手ではない。なのに、まるで待ち伏せでもされたかのように前に立たれ、ほとんど強制的に本日放課後の約束を取りつけられた。

『細井の兄さんのことで話があるんだけど』

 その一言によって。

 放課後、午後六時に愛名大学付属病院のロビーに待ち合わせだった。そこから最寄りの亀舞かめまい駅で電車に乗り、今はこの庄上緑地公園へとやって来た。

 この誰もいない場所で、二人きりで話をするために。

 二人で細井蒼に関する話をするために。

 そのために、この人気のない静かで暗い場所が選ばれていた。

「今ね、僕のおばあちゃんが愛名病院に入院してるんだよ。知らなかったでしょ? 入院のために田舎から出てきてるんだよ。だからね、時間見つけてはよくお見舞いにいってるんだよ。この前の日曜日も」

「…………」

「三神もいたよね、日曜日」

「…………」

 いた。あの日篤は、泣きじゃくる細井藍を落ち着かせるよう、病院の中庭で抱きしめた。それは藍のためにその時の自分にできる二番目のこと。

「…………」

「あの日、細井の兄さんにトラブルがあったよね? 僕はあんまり詳しいことは知らないけど、聞いた話だと命に関わるほどの大変な事態だったらしいよ」

「…………」

「あの日さ、三神は病院で何をしてたの?」

「…………」

 あの日、篤は中庭で震える藍のことを抱きしめて、それから。

「…………」

「あれ、三神がやったんでしょ? やったんだよね? いったいどんな理由があったかは分からないけど。三神、なんであんなことをしたの?」

「…………」

「どうして三神は、細井の兄さんを殺そうとしたのさ?」

「違う!」

 投げつけられた言葉を全力で跳ね返すべく、篤は怒鳴り声を上げた。熱という熱が一気に脳天まで達し、相手の発言を否定するべく叫びつづける。

「違う違う! 違う違う違う違う! 違うんだ! 殺そうとしたわけじゃない! おれはそんなこと! そんなことない! そんなこと!」

「落ち着いて、三神。ほら、僕たち以外には誰もいないよ。誰も聞いていないから。だから、冷静になって、僕に事情を聞かせてくれないか? もしかしたら力になれるかもしれないし」

「違う! 違うんだ!」

 渡辺の声などその耳には届かず、首を横に振りながら叫んだ直後、篤の脳裏にあの日のことが克明に蘇っていた。


 あの日、十月十二日の日曜日、篤は藍に案内されて南病棟二階にある集中治療室を訪れた。その部屋では以前の病室とは違い、多数の機械が稼動していた。それは中央にあるベッドを取り囲むように設置されていて、いくつもの管が昏睡状態にある細井蒼へとつながっていた。

 部屋に入ると、ベッドに横たわる蒼に、藍は目にたくさんの涙を溜めながら、抱きついていった。『お兄ちゃんお兄ちゃん』震える声で兄のことを呼びつづけて。

 しかし、眠りつづける細井蒼はどれだけ妹が求めようとも、目を覚ますことはなかった。

 そのまま……そのまま時間だけが過ぎていくが、一切変化はない。ただ機械音しかしない部屋で刻々と時間だけは流れていき、太陽が西の空へと顔を隠す時刻となる。

 篤は、心身ともにふらふらな状態の藍を家まで送ることにした。病院に、兄の元に残ると主張する藍を強引に引っ張ってでも家まで送り届けていったのである。極限状態まで疲労の色がその顔に表れていたから、休息の必要性を感じて。

 藍を送り届けた帰り道、篤は思った。

『このままじゃ駄目だ』

 このままでは駄目だと思った。このままでは、藍が駄目になってしまう。

 やまいに臥せっている兄のせいで、藍の人生が狂ってしまう。

 今年は大事な受験の年。あの調子では間違いなく受験に失敗するだろう。それどころか、兄の看病につきっきりで、出席日数が足らずに高校を留年してしまう危険性だってある。

 藍にとって絶対的である細井蒼が床に臥せているせいで、細井藍の人生そのものが破滅してしまうかもしれないのだ。

 駄目になってしまう。藍が駄目になってしまう。この世に蒼という大きな存在がいる限り、藍が駄目になってしまう。

 このまま蒼がいる限り。

 蒼がこの世に存在する限り。

 蒼の存在は、藍が生きていく上で足枷となっていた。

 藍にはまだ輝かしい未来があるのに、目覚めることすらない蒼のせいで正常な生活から逸脱してしまっている。あの放心した目でベッドで眠る兄に抱きついていた姿を目の当たりにした瞬間、そう実感した。

 駄目だ! このままでは駄目だ!

 駄目なんだ!

 だから!

 だったら!

 思考がそこまで辿り着いたとき、もう迷いはなかった。まるで篤という存在自体が見えない手によってその方向に導かれているように、躊躇なくそちらへと突き進んでいく。

 篤は気づくと、愛名大学付属病院に戻ってきていた。細井蒼が眠る集中治療室の扉を閉める。部屋には主以外は誰もいなかった。篤にとってそれは、まるで神様に祝福されているような絶好のシチュエーション。

 藍を家まで送ってからここまで足を運んだことと同様に、それに一切の迷いなく、稼動する機械から蒼の鼻に伸びているコードに手を伸ばす。

 そうすることが、自分たちが存在するこの世界のためになると確信して。

 疑うことなく、これですべてを正しい方向に進めると信じて。

 すべてはその一歩から。

 コードを掴む手に力が入る。

 深い闇がそこには存在していた。


「そんなつもりなんてなかったんだ!」

 今の篤には、後悔の念しか持ちえていなかった。冷静になってあの日のことを振り返ると、もう自分の体が、心が、存在そのものがどうかしていたとしか思えない。なぜあんなことをしてしまったのか!? まるで悪魔に全身を操られていたように思えて仕方なかった。

 別に受験で悩んでいたわけではない。将来について絶望を感じていたわけではない。今という時間を生きることを苦だと思っていたわけでもない。ただ単純に、細井藍のことを思っただけ。ただそれだけ。それだけだったのに。

 その本当に真っ直ぐで純粋な思いが、あれを招いてしまった。

 あの、奪命だつめいの行いを。

 そうなると知りながら。

「……おれは……」

「三神……悪いことは言わないから、自首しよう」

 篤は、悪いことをしようとしてしたわけではない。

「絶対ばれるって。監視カメラの記録とか、指紋とか調べれば、絶対」

 ただ藍のことを思っただけ。藍の幸せを思っただけ。

「逃げられるもんでもないし……自首した方がいいって」

 藍と幸せになることを望んでいただけ。

 それだけ。

 ただ、それだけ。

「なんだったら、警察まで僕も一緒についてってあげるから」

 幸せになること、それが何より大事だと思う。篤は幸せを望んでいる。藍との幸せを強く、心の底から望んでいる。

 それを欲して、あれをしたのだ。

 なら、幸せを手にしなければならない。

 どうあっても。

 なにがなんでも。

 絶対に。

「自首しよ」

 今、篤の目の前には渡辺がいる。それは絶対に手に入れなければならない藍との幸せの障害でしかない人物。まるで今も病で臥せている細井蒼のように。

 邪魔者。

「今日が無理なら、明日でいいからさ」

 篤が望むものを、目の前の存在が阻もうとしている。

 それなら、そうやって自分の前に立ち塞がるというなら、排除しなければならない。

 それは、稼動する機械のコードを抜いたあの日と同じように。

 迷いなどいらない。

 躊躇なんてする必要もない。

 排除する。

 この手で排除する。

「三神」

「…………」

 篤は立ち上がった。戸惑いや躊躇いといった言葉はそこには存在しない。即座にその両腕を渡辺へと伸ばす。

 その首元へ。

 闇を、その表情に張りつけて。

「うぐぅ!?」

「…………」

 渡辺は手足をばたつかせて抵抗してくる。篤は暴れる渡辺を倒し、全体重をかけるようにしかかっていく。

「ぐぃ!」

「……っ」

 渡辺は小柄である。クラスでも一、二を競う背の低さ。百六十センチもないだろう。その分力が弱い。それを数値化して分析したとき、どう考えてもサッカー部で鍛え上げた篤を引っ繰り返すことなどできるはずがない。

「ちぃ!」

 けれど、篤は体を押し返された。火事場の馬鹿力のごとく、草むらに押し退けられたのだ。

 篤は素早く起き上がり、授業で習ったラグビーのタックルのように、渡辺の腰目がけて飛びついていく。それにより、コンクリートの斜面を転げ落ちるようにして二人は川へと落ちていった。

「だぁ! 三神!」

「…………」

 暗闇の中、渡辺の切羽詰まる怒号が聞こえてきたが、そのおかげ

で篤は暗闇における渡辺の位置を把握することができた。下半身に流れてくる水の抵抗を感じながらも、篤は渡辺の腕を掴み、こちらに引っ張る反動で一度水面に沈める。透かさず首元へと手を伸ばし、その細い首を掴んでまた水面へと沈めた。

「…………」

 暴れる手足が水面を激しく波立たせる。けれど、決して渡辺の声が暗闇に発せられることはなかった。篤が腕を突っ込んでいる辺りからは大きな泡がいくつも浮かんできては弾けていった。

「…………」

 そうして、どれほど時間が経過したかは定かではないが……激しく波立っていた水面から音が消えていた。今までは荒々しく波立っていたのに、すっかり静かになった水面。篤はそれを認識しながらも、それでも両腕を水面から上げようとは思わなかった。

「…………」

 遠くの方の明かりが見える。それは、さきほどまで岸で見ていたものと同じなのだろうが、篤はその人工的な明かりに、今は祝福されているような気がした。

「…………」

 時間の経過により、激しく燃え上がった心に、少しだけ冷えた隙間が生まれていた。篤はここではじめて川の水面が腰まであることに気づく。その水圧により、腰が強く締めつけられていることを知り、なんだかそれがとても心地よいことに思えて仕方なかった。まるで何重にも積み上げられている布団に両腕を突っ込んだときみたいに、なんともいえない気持ちよさがある。

 瞬間、その顔に笑みが浮かんだ。

「…………」

 すぐ近くの水面で音がした。大きな魚が跳ねたのかもしれない。その音に、篤はようやく腕を水面から上げることにした。水面深くに固定していた腕を動かすと、踏ん張っていた足が水底の砂利や泥に沈んでいった。篤は慌てて足を後退させ、岸に戻る。

 もちろんそのとき、その手から獲物を外していた。

「…………」

 じっくり目を凝らしてみたが、月明かりでは水面に何も確認することができなかった。

「…………」

 張っていた肩から力を抜き、ふと左方に顔を向ける。上流の方に大きな橋が見えた。遠目ではあるが、とても高い位置にあるように見えた。

『きっとあそこから落ちたら一溜まりもないだろうな』と思えるほど。

「…………」

 まだ靴の先を川に突っ込んだ状態で、篤はその橋を見つめつづけていた。


       3


 十二月十九日、金曜日。

 全国に数多く存在する学校と呼ばれる機関では、二学期という年度の中間期間がそろそろ幕を閉じようとしていた。大学受験を控えた高校三年生は、授業と授業の合間の休み時間も率先して参考書を開き、勉強に勤しんでいる頃である。推薦入試に合格して早々に肩から重たいものを下ろした連中を疎ましく思いながら。

 そんな十二月十九日の本日、放課後、海田高等学校三年生の三神篤は病院にいた。愛名大学付属病院の集中治療室。

「…………」

 今日の篤にとっては、この場所にいることこそがその存在の意味を成すことであった。だからこそ自らの足でこの場所にやって来ていたのである。背けたくなる現実から断じて逃げることなく。

「…………」

 自分がここいること、それが生命にとって大きな意味を持つことであると知りつつも、篤はこれを選んでいた。それは、受験などという命にとっては些細なものとは比較にすらならないこと。

 すでにその覚悟は決めていた。この場所で、三神篤にできる、一番目のことをするために。

「……あのさ、あの……」

 病院へは学校帰りに直接寄ったため、篤は海田高等学校の制服である学らんに身を包んでいる。もう二年と九ヵ月着つづけている制服。今年はまだコートを出してはいなかった。

「ごめん、無理いって入れてもらって……あの、話ってのはさ、おれのことなんだよ。その、おれのこと、どうしても細井に知ってもらいたくって。こんなおれのこと。こんな、さ……」

「知ってるよ、篤くんのこと」

 制服の紺色のブレザーを着込んだ細井藍は、折り畳み式のパイプ椅子に腰かけている。話しかけてくる人物の方に顔を向けることなく、常にその視線はベッドの上に向けられていた。

「去年まで同じクラスだったし、一緒に勉強もした仲じゃない。今さらどうしたの?」

「そうじゃなくて……そうじゃ……」

「今日の篤くん、ちょっと変かな?」

「…………」

 篤の口から言葉が途切れると、空間にはこの部屋で稼動する機械音が支配することとなる。それらはすべてベッド周辺に設置されていて、そこから伸びるコードはベッドに横たわる細井蒼につながっていた。そうすることで、すぐにでも離れていってしまうだろうその儚い命をそこにつなぎ止めておくために。

「……あのな、細井……おれは、駄目なやつなんだよ」

 窓にはブラインドが閉められているが、隙間から色の濃い灰色の空が広がっているのを確認することができた。今日は朝から結構冷えていたから、もしかしたら初雪が観測されるかもしれない。

「……おれは、駄目なやつなんだ……汚くて、醜くて、さ……」

「篤くん、どうしちゃったの? どうしちゃったのかな? 全然そんなことないよ。篤くんのこと、お兄ちゃんだってそんな風に言ってなかったよ。しっかりしてそうだって。そんなのだったらさ、篤くんより、遙かにわたしの方が子供だよー。お兄ちゃんにいつもそうやってからかわれてるんだ。もうちょっと大人になりなさいって」

「……いや、おれは性根の腐った駄目なやつなんだよ。自分で自分がいやになる、ぐらい」

 篤が胸を苦しめながら、自虐的な言葉を吐き出していく。だが、言葉を投げかけている藍はベッドの上の人物から顔を逸らすことはなかった。

「……駄目なんだよ、おれ……」

 今この集中治療室には、ベッドで眠る病人を除くと会話を交わしている二人しかない。ベッドで横たわる兄の手を握っている細井藍と、無理を言ってこの病室に入れてもらった三神篤。入室したときは藍の母親もいたが、夕食や洗濯といった家のことをやるために一度家に帰っていた。点滴はさきほど交換されたばかりなので、ベッド近くのナースコールを押さない限り二人以外がここを訪れることはない。

 篤にとって、こんな理想条件は二度と訪れることはないだろう。二人きり。絶好のチャンス。だから口にする。だからこそ勇気を持って相手に言葉を投げつけていく。

 自分の醜い部分を。

 伝えるべき藍に自分のことを知ってもらうために。

「細井さ、あの、その……渡辺って覚えてるかな?」

「うーんと……誰だっけ?」

「渡辺竜矢……今年おれと同じクラスだったやつ」

『だったやつ』すでにそれは過去のもの。

「去年は生徒会の副会長やってたんだけど。ほら、朝礼のときなんか前にいたから、見たことぐらいはあると思うんだけど」

「知らなーい」

「知らないの? そう、知らないんだ……その、この前の十月に死んだ、あの渡辺のことなんだけど」

「うーん……ああ、そういえば、ちょっと前にふゆちゃんにそんなようなこと聞いた気がするなー。うん、確か、そんな気がする……けどね、わたし、全然興味ないから。まったく。これっぽっちも。だから知らない、そんな人」

 その目は今もベッドで眠っている人物に向けられている。

「その人が、どうかしたの?」

「渡辺さ、ほら、花火大会やるとこの近くにさ、緑地公園あるじゃん? その近くの川で死んだんだよ」

「花火大会……? そういえば、今年はお兄ちゃんと病室から花火見たんだっけー。きれいだったなー。あ、そうそう、その時、篤くんも一緒だったよね? また見たいねー。来年はお兄ちゃんと一緒に見にいこう」

 藍の兄である細井蒼は、今も目を覚ますことなくそこで眠っている。突然昏睡状態に陥った十月からずっと。

「来年はさ、お兄ちゃんと一緒に浴衣着るんだー。お兄ちゃん、ちゃんと褒めてくれるかな? そういうとこはちょっと意地悪だからなー」

「あの、渡辺のことなんだけど……その、渡辺はさ、緑地公園の近くの川で溺死……じゃなかった、窒息死したんだよ。遠足かなんかでいったことあれば分かると思うけど、あの辺りって河口が近いから、川が深くてさ……窒息死だったから、きっと苦しかったんだろうなー。夜だから辺りは真っ暗でさ、当然あんなとこ、周りには誰もいなくって、もがき苦しんで水面を力いっぱい叩いてさ、その、生命の本能ってのか、必死になって生きることにしがみつこうとしてたんだ」

「ふーん……」

「…………」

 篤としては物凄い告白をしているつもりなのだが、藍は明言している通り本当に関心がないのか、相変わらずその視線はベッドの固定されていた。

「死んだ渡辺な、おれのクラスメートだったんだ」

「ふーん……」

「あ、あんまり力のないやつなのに、抵抗が激しくてさ」

「篤くん、随分詳しいんだね? その人が死んだこと」

「えっ……? そ、そりゃ、な……」

 篤は唾を飲み込む。一瞬にして過去の映像が脳裏に過り、一瞬詰まった言葉だが、息を吐くのと同時に発していた。

「渡辺のこと、おれが殺したから……」

「ふーん……」

「おれが、この手で、必死になって抵抗してくる渡辺の首根っこを掴んでさ、水面に無理矢理押さえつけてやったんだ」

 この手で殺した、同級生の渡辺竜矢を。

「おれってさ、ひどいやつだろ」

「うん、そうかもね」

「…………」

 ここに来るまで、こうして口にしていることを告白することに物凄い覚悟と勇気が必要だった分、相手の素っ気ないというか、極限までの無関心な反応に拍子抜けと大きな戸惑いを感じていた。けれど、篤は挫けず口を動かしつづける。その先に待つ、自分の使命を果たすために。

「べ、別に、渡辺のことが憎かったから殺したわけじゃないんだ。なんかこれって変な言い訳みたいだけど、断じてそうじゃない。ってより、同じクラスってだけで、渡辺とは全然接点なかったからさ」

「ふーん……だったら」

 その目はやはり兄に向けられたまま。

「どうして殺しちゃったの?」

「それは……」

 再び音を立てて唾を飲み込む。篤はあまりにも激しくなった心臓の鼓動を苦に感じつつ、しっかりと自分の言葉を相手に届けるために力強く紡いでいく。

「渡辺には、知られちゃいけないこと、を、知られちまったんだ……だから、それで、殺した」

「知られちゃいけないこと? ふーん……どんなこと?」

「それは、その……おれがあの日、お前を家まで送って、から、その……この病院に戻ってきたこと」

 十月十二日、篤は兄の症状悪化の付き添いによって疲労していた藍を家まで送っていき、けれどそのまま帰宅することなく、またこの病院に戻ってきた。

「あの日、細井のこと見ててさ、このままじゃ駄目だって思ったんだよ。このままじゃ、このまま先輩がああして入院してたんじゃ、これからの人生、絶対駄目になるって。今年の受験だって無理だろうし、そもそも高校卒業だって危ないんじゃねーかって。そう思っちまったんだ。だから」

 あの瞬間の記憶が蘇り、思わず篤の全身が硬直。

「だから、お前を駄目にしているもの、排除しようとした」

 細井蒼をその生活から除去すべく、その足を病院へと向けた。 その存在を消し去るために。

 障害を取り除くために。

「あれから随分時間が経ってさ、冷静になって振り返ってみると、自分がやったこと、とても信じられないよ……あの時はもう普通じゃなかったんだ。そんなことをした方がよりお前を苦しめる結界になるに決まってるのに……おれは駄目な人間だから、それに気づくことができなくて、ただそうすることが現状を打破する唯一の手段だとしか思えなくて……気がついたら、ここにいたんだ」

 誰もいない集中治療室で、稼動しつづける機械から蒼の体に伸びるコードを引き抜いた。

「今は後悔してる。なんであんなことしたんだろうって……自分があんなひどいことをするなんて、考えてもみなかった。おれ、どうかしてたんだ。どうかしてたんだよ……でもさ、あの時は思っちまったんだ。あの先輩がいる限り、すべてが不幸になっちまうんだって……!?」

 視線が合った。これまでずっとベッドの方にしか目を向けていなかった細井藍と、視線が合った。

「あ、あの……」

 篤は反射的に目を横に逸らしてしまう。とても向けられている視線を見返すことができず。

「……そ、それを、あの、渡辺に知られちまったんだよ。あの日、たまたまこの病院にいたらしくて、それで……。渡辺には自首を勧められた。どうせ逃げられないからって。けど、おれ、そんなの考えられなくて……自首だなんて、警察に捕まるだなんて、そんなの怖くて怖くて……だから、殺した。渡辺のこと、気づくと殺してたんだ」

 あの暗い川で、水面を激しく叩いて苦しそうにもがいていた、まだ生きるべき人間を殺した。

 この手で。

 自分のために。

「渡辺はさ、親戚がこの病院に入院してたらしくて、そこでお見舞いにきてて、それで偶然おれのことを見たらしくてな……」

「そんなことはどうでもいいよ」

 その声は、篤の言葉を冷淡に切り捨てていた。藍はまるで渡辺の死など歯牙にもかけないかのように、話題を拒絶する。

「そんなの知らない人のことなんてどうでもいいよ。知りたいのは、篤くんが、お兄ちゃんを殺そうとしたってこと。篤くん、それは本当のことなのかな?」

 藍の言葉は淡々としている。感情を込めることなく、ただ事実関係のみを確認しようとするかのように。

「篤くんは、わたしの、この、お兄ちゃんを殺そうとしたの? こんなにこんなに、こーんなに大切なわたしのお兄ちゃんを?」

「……それは、その、どうしてもお前のことが心配で」

「知らないわよおぉ!」

 怒号。空間が激しく震える。藍は椅子から腰を浮かして、ベッドに横たわる兄の体を抱きしめた。

「わたしにはお兄ちゃんしかいないの。わたしにとってお兄ちゃんがすべてなの。篤くん、分かるよね? わたしはお兄ちゃんなしじゃ生きていけないんだから。だって、わたしにとって、お兄ちゃんこそが生きていく意味なんだから。それ、篤くん、ちゃんと分かってるよね?」

「…………」

「それなのに、篤くん、殺そうとしたの? お兄ちゃんをわたしから取り上げようとしたの? それは、わたしにもう生きていくなってことなのかな?」

「あ、いや……そ、そんなことない。そんなことないってば。あの時はお前のことが心配で、それで、その……そう、そろそろ先輩から卒業した方がいいと思ったんだ。でないと、お前は一生そのままな気がする。ずっと先輩に縋ってばかりの人生になっちまう。少なくとも、あの頃は受験とか卒業とか、そんなこと考えられなくなってただろ?」

「馬鹿なことを言わないでよ」

 熱のない言葉。

「受験とか卒業って、そんなのにいったいどんな意味があるっていうの? わたしにとって大事なことは、お兄ちゃんがわたしの傍にいること。それだけよ。いつもお兄ちゃんと一緒にいること。わたしにとってそれがすべてなの。お兄ちゃんこそがわたしのすべてなんだから」

「…………」

 分からない。分からないが、篤の全身から汗が噴き出してきた。頭から、額から、背中から、脇から、止めなく溢れてくる。暖房はきいているが、それほど暑いわけではないのに、分泌される汗は止まることがない。

「…………」

 篤は顔を上げることができず、下を向いたまま手の甲で額の汗を拭う。汗も気持ち悪かったし、なんだかこの部屋にいることで気分まで悪くなってきた。

「……か、勘違いしてほしくない。お、おれはお前の不幸なんて望んでいないんだ。おれはさ、お前の幸せを望んでる。お前の幸せだけを望んでる。お前のためだったら、どんなことだってやってみせる」

「だからって、お兄ちゃんを殺すの? 実際、殺そうとしたんでしょ? そんなの、絶対許さない。許さないからね」

 憎しみの宿る闇の眼光で真っ直ぐ睨まれる。篤は、あんなに感情薄く冷酷に睨みつける藍の表情、今まで見たことがなかった。今日までずっとその存在を見つめてきたつもりなのに。

「……おれ、渡辺を殺してさ、その担当の刑事にしつこくつき纏われてるんだよ。もしかしたら、もうおれを逮捕する証拠が揃いつつあるのかもしれない。今はさ、着々と証拠を集めてさ、おれがどこにも逃げられないようにしてると思うんだ」

『もうすぐにでも逮捕されるかもしれない』そう言って両拳を握りしめる。

「もう言い逃れはできないと思う。警察はこんな高校生相手にいつまでもぐずぐずしてると思えないし……。だからさ、だから、どうせ警察に捕まるんだったら……。そう! そうだよ! どうせ捕まるんだったら、細井に恩返しをしようと思ったんだ!」

 それは全世界でも、三神篤にしかできないこと。

「だ、だってさ、捕まっちまったら、もう終わりだろ? 未成年とはいえ、殺しちまってるんだから、簡単に社会復帰なんてできないだろうし。こんなおれのせいで家族だって後ろ指差されるだろうし。そんなの申し訳なくってな……というのもあることはあるんだけど、本命は違う。そんなためにおれは今ここにいるわけじゃない」

 篤がここにこうして存在している理由、それは一つしかない。

「細井のためだ」

 近くに棚がある。歩み寄り棚の上に手を伸ばす。

「もうちょっとうまくいく予定だったんだけど、はははっ、なかなかうまくいかないもんだな。こんな形になっちまったのは、ちょっと残念だったけど……おれ……おれはお前のことが好きだ」

 好きだ。

「お前のためだったら何だってやれる。ああ、やってみせるよ!」

 棚の上には籠が置かれている。今はもうないが当初は見舞いの果物が入っていただろう竹で編み込まれた船のような籠。そこには蓋をした果物ナイフが置かれていた。

「皮肉な話かもしれないけど、先輩を殺しそうとしたおれにさ、細井のためにできることがあるんだ。それも嘘みたいに、まるで信じられないような凄いこと」

 篤は蓋を取り、刃渡り十センチの果物ナイフを自分の首筋に当てた。ごくりっと息を飲み込む。

「できればお前と一緒に大学にいきたかったな。これから一緒にいろんな話をして、いろんなとこに出かけて、いろんなことを感じてさ、いろいろと悩んだりもして、そうしながらも互いの未来に向けて一歩ずつ歩いていきたかったよ。手をつないで、一緒にさ。これから前だけを見て、一歩ずつ一歩ずつ、細井と並んで大人になりたかった」

 果物ナイフを握る右手に力を込める。

「これが、これこそが、おれが細井のためにできる最大限のこと。こうすることで、お前が救われるはずだから」

 そうして吐き出す息が、篤にはこの集中治療室に漂う黒い濁りをきれいで透明なものに浄化していくように思えた。

「これはおれだけなんだ。おれだけにできることなんだよ。だから、おれは細井の力になる。どうすることもできない今の細井を救ってみせる」

 ナイフが震える。ナイフを握る手が震える。吐き出す声が震える。全身が震える。心が震える。存在そのものが震える。震える震える震える震える。

「これはおれにしかできないことなんだ。だって、おれは──」

 篤が次の言葉を吐き出すと、静かだったこの空間が大きく変動しはじめる。

 一度動きだしたもの、それはもう誰にも止めることができない。

 それがどんなに残酷な結果を招くものだとしても、今ではもうどうすることもできなかった。


 その日、愛名大学付属病院に入院中の細井蒼が眠る集中治療室において、大量に飛び散る鮮烈の赤色が、空間を容赦なく染め上げていった。

 それは、どす黒い、赤色。

 血の色。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る