アニヤ、その目を見せて

十 できたら電車で

　疲れた。

　いつも疲れているが、何だか別種の疲労がある。

　神社でアニヤに遭遇してからまだ三、四時間程度だ。その間に、あまりにもトンチキなことになっている。

　一旦認識を巻き戻そうか。この二人を適当に殺して逃げたらこれまで通りの暮らしが続くのではないだろうか。

　……二人とも魔法を使うのに、俺に殺せるか？

　俺はもう、魔法があると信じてるのか。信じてるな。

　溜め息が出た。立ち上がって脱いだ服を拾い、元通りに着込んだ。頭が痛い。

　アニヤと目が合う。茶色とみかん色の虹彩。わたし、と震える唇が言う。

「……ハスムラを殺さなくて済むのなら、よかった」

「このジイさんの話、信じるのか」

「筋は通ります。紋章のことも、他の誰も聞いてないのは知ってました。ヴァルナル様が特別に私にだけ教えてくださったことだと思って、私、喜んでた。でも変ですよね。ヴァルナル様は私の紋章を見て知っています。私はヴァルナル様の養い子ですが、神子なので寝所に侍（はべ）ることがあって」

「ん？」

「神子ですから。神殿に貢献のある者に対して神の恩恵を伝える儀式は、神子の身体によって行われます」

　こっちで言う神聖娼婦ってやつだね、性交を通して男に神の権威があると示すやつ、と事も無げにロドは言い、俺は俺で、さっきアニヤが躊躇（ためら）いなく着ているものを脱ごうとしたのはそういう習慣のせいかと腑に落ちた。落ちたくはなかったが。

　アニヤは泣いている。

　それはそうだろう。心身ともにヴァルナルに仕えすべてを捧げてきたのに、これまで信じていたのはヴァルナルの仮面に過ぎず、自分を使い捨てにしようとした、と知ったなら。

「私、願った通りの神さまの道具ではなく、ヴァルナル様の人形でしかなかったのですか。もし何も知らずにハスムラを殺してしまっていたら、それで双天世界（ヒュペイト）は本当に光を失い闇に落ちていた。何てことを……」

「ヴァルナルの奴は誘導がうまくてね」

　ロドはそう言って溜め息をついた。

「特に、幼く純粋な者とか、欲が強すぎる者はかかりやすい。お嬢さんは前者だな。だけど、知らないこととはいえ君は金の天輪（エルン）だ。銀の天輪（ギゼット）と出会った瞬間、他の者の仕掛けなどは外れていく。ハスムラ君と会ったくらいから変化があっただろう？」

　アニヤは何か言いたそうにしながらも口ごもった。見ているとまた視線が合い、即で逸らされる。何だよ。

「ハスムラ君の方もだ。このお嬢さんには特別なものを感じたのでは？　どんな印象だった？」

「どんな？　……変わった色の眼だなとか……珍しいんだ、俺は滅多にそんなこと他人に思わない。大体殺すかどうかしか興味ないから。こいつは、できたら殺したくないと思った」

「あら、素直」

　イケボでムカつくジジイだな。

「あと、話全体に対する今の印象を言うと、地獄レベルにクソめんどくせえ」

「わぁ素直……」

「だってなんか、流れ的にあれだろ。何かしないといけないんだろ。俺は人殺し以外出来ねえし、しかも魔法とかいうやつ使わない人間しか殺してきてねえし、ダルいわ。どうなんの、この後」

「そうだね、まず残りの太陽の神子たちがバンバン降ってきて傷害事件起こしたりするでしょ。で君が殺し切れてない世界鏡の番人（リステリア）の眼は月の神子たちに加えて太陽の神子たちも見つけて殺し始める可能性あるよね、ヴァルナルは多分そういう仕込みをしてると思う。それにヴァルナルは多分、太陽（お嬢さん）が月（きみ）を、あるいは月（きみ）が太陽（お嬢さん）を殺したことを確認したいだろうし、念のため星（僕）も殺しておきたいはずだから――少なくとも世界鏡の番人（リステリア）の所までは本人が出てくるね」

「神と信仰と、人々のために死ぬのでなければ、それは神子の目指すところとは違う死です。ロドさん、私、どうしたら神殿の仲間たちを救えますか」

　アニヤの言葉を受けて、ロドはにやりと笑った。

「そう来なくちゃ。世界鏡の番人（リステリア）の回廊で神子たちの監視を停め、ヴァルナルを迎え撃つ。それしかない。どちらにしても世界鏡の番人（リステリア）を通じてしか僕らは双天世界（ヒュペイト）に帰れないんだから」

　世界鏡の番人（リステリア）の所へ？　俺は行ったことねえけど。

　嫌な予感がする。神子たちが流れ星になって空から来るということは、世界鏡の番人（リステリア）も空の上か？

「……俺、できたら電車で行けるところがいいんだけど」

「ハスムラ君。飛んでもらいます」

　クソジジイは当然のようにそう答え、再び壁に真円の孔を開いた。

　冗談じゃねえよ。