シュタインシュタットの浮浪児 7

 くるくると回る影絵を見た。冬の寒さに身を寄せ合って耐えた夜を見た。一杯のスープを皆で分け合った日を見た。屋根の上に寝転がって夢を語り合った夜を見た。エメリヒが差し出した手を取った日を見た。その手に銃が握られていた。


「やめろ、エメリヒ!」


 叫びは喉を突いて、しかしそこで止まった。実際にルフトの口から出たのはくぐもった呻き声だった。伸ばした手は空を切った。一瞬の困惑があって、ルフトは自分が夢を見ていたのだと気付いた。目覚めと同時に全身の痛みにも気付いた。歯を噛みしめて、尚も呻き声を押さえられない程の痛みがあった。

 混乱する。死んだはずだった。そのつもりだった。だが現実は粗末とは言え寝台に寝かされている。木板はあちこちが朽ちかけ、実際に抜けているところもある。大人が横になれば壊れてしまうのではないかという有様だ。それでも石の床に布を引いて寝ていた普段に比べれば随分と恵まれている。

 部屋は比較的広く、他にもいくつも寝台が並んでいるのが見える。そしていくつもの寝息が聞こえる。閉ざされているとは言え窓があり、そこから僅かな光が差し込んでいる。ルフトは痛みを堪えて立ち上がり、窓板を少し押した。薄暗い。どうやら夜明け前のようだった。

 手探りで腰の後ろのナイフを確かめたが、そこには何も無かった。というより衣服が変わっている。麻布の清潔そうなチュニックとズボン。もちろん上等でも、新品でも無かったが、穴が空いているわけでもない。十分実用に足りる品だった。

 失ったと思った左腕を動かす。手を握ったり開いたりする。痛みはあるが、ちゃんと動く。傷跡だらけで醜い形になっていたが、思い通りに動いた。胴体に触れる。傷跡に触れると鋭い痛みが走ったが、それはすでに傷跡でもあった。服を引っ張って覗き込むと、傷跡は残っていたが、出血はしていない。

 どうやら治癒魔法の世話になったようだ。そうとしか考えられない。しかしどうしてだろう。シュタインシュタットの教会は金を持たない怪我人は門前払いだったはずだ。多分ここは教会に併設された孤児院だが、そのベッドは満床なのではなかったのか?

 ともかく動けないというわけではない。

 ルフトは周囲の寝息を邪魔しないようにそっと部屋を抜け出した。廊下は無人だった。ずらりと扉が並んでいたが、その中を確かめる気にもなれず、外を目指して廊下を進んだ。やがて廊下の突き当たりから外に出たルフトが見たものは、やはり想像していたとおりシュタインシュタットの聖堂だった。


「あなた、目が覚めたのね」


 ルフトはあわよくばそのまま教会を抜け出して旧市街に戻るつもりでいたが、その前に掃除をしていた修道女に見つかってしまう。彼女は厳しい目でルフトを睨んだ。ルフトにしてみれば初対面だ。彼女に恨まれるような覚えは無いので困惑した。


「え、っと、おはようございます。シスター」


「取り繕わなくて結構。今すぐ部屋に戻りなさい。あなたと尊い人の命が掛かっています」


 修道女はにべもない。手にしていた箒でルフトが出てきた建物、つまり孤児院を指す。


「それは、どういう?」


「質問なら戻ってから聞きます。付いてきなさい」


 ルフトは修道女に付いていく。付いていくしかない。せめて自分の置かれた状況は知りたかった。孤児たちの眠る部屋に入ると、修道女は一度廊下を見回してから扉を閉じた。


「あなたは2日前に聖堂の前に捨てられていました」


「聖堂の前に?」


 ルフトは旧市街の水路に飛び込んだはずだ。流れ着くとしても旧市街の何処か、あるいは下層世界ということになるはずだった。


「誰かが野垂れ死にしかけていたあなたを見つけて、そのままにしておくのも面倒だと思ったのでしょう。ここでは時々あることです」


「怪我は? 致命傷だったはずだ」


「エマ様、ここの治癒術士様が貴方を見つけ、治癒魔法を使われたのです」


「そんな! 俺は払えるような対価を持ち合わせてない」


「そんなことは見れば誰にでも分かります。エマ様はそのお力に対価を求めたりはしません」


「だけど教会は対価を払わないと治癒魔法を使ってくれないって聞いた」


 実際に怪我を負った浮浪児が教会で門前払いを食らったって話を聞いたこともある。


「ええ、ここの司祭はそのような考えです。だからあなたを孤児院に隠したのです。あなたを守るためでもあり、エマ様を守るためでもあります」


「つまり、この治癒魔法の分の対価は払わなくてもいい。そういうことだな」


「ええ、そうですね。払うと言われるほうが困ります」


「そして俺は知れずこの孤児院から姿を消す」


「驚いた。理解が早いのですね。今はよくありません。助祭がすでに起き出していますから。私がタイミングを計って知らせに来ますから、それまでここでじっとしていて下さい」


「分かった。けど腹が減った。何か食い物をくれると少しはまともに動けるんだが」


「手配しましょう。では私はこれで」


「俺はアンタとは出会わなかった。そうだな?」


「私もあなたのことは知りません。今も、昔も、これからも」


 同意は取れた。つまりルフトはここにいないのだ。いてはいけないのだ。ルフトは自分が横たわっていたベッドに戻ると横になった。仰向けになると背中の傷が痛みを訴える。右側を下にして横たわることで痛みは少しマシになった。マシになっただけだったが。目を閉じた。眠れそうになかったが、眠る振りはできそうだった。

 しばらくすると鐘が鳴った。夜明けを知らせる一点鐘注1だ。

 もぞもぞと周りの寝台から孤児たちが起き出すのが分かる。ルフトは息を殺して寝ている振りを続けた。孤児たちも2日前からずっと眠っているルフトへの興味をすでに失っているのか、続々と部屋の外に出て行く。二点鐘が鳴ると修道女がやってきて寝台に残っている子どもたちを追い出しに掛かった。もちろん彼女はルフトに気付いているものの、その存在を無いものとして扱った。子どもたちが完全にいなくなってからルフトは起き上がる。約束通りなら食事が運ばれてくるはずだった。

 それにはさほど時間を必要としなかった。修道服とはまた違う法衣を着た女性がトレイを持って部屋を訪れた。ルフトは首を傾げた。教会で修道女では無い女性というものを見たことがなかったからだ。


「ああ、良かった。本当に目が覚めたのね」


 てっきり女性は食事を置いていくだけで言葉を交わすこともないとばかり思っていたルフトは驚いた。


「アンタは?」


「そうね、貴方は知らないのよね。私はエマ。治癒術士をしています」


「アンタが? ええと、ありがとう、ございます」


「どういたしまして。お礼は受け取ったわ。さあ、食べて。でもゆっくりとね」


 ルフトの座っている隣に置かれたトレイの上には黒パンとスープが乗っていた。食堂で出てくれば質素だと思うが、浮浪児にしてみればご馳走だ。手を伸ばしかけて思い出す。両手の指先を合わせて円を作る。


「この糧を与えられたことを我らが主に感謝いたします」


 確かこんな文言だったはずだ。エマと名乗った女性から何の指摘も無かったからおおよそで間違ってはいないのだろう。それからルフトは2日振りになる食事を心ゆくまで堪能した。


「何があったのかを聞いてもいいかしら?」


「知らない方がいい。巻き込まれる」


「私はすでに人生を賭けたわ。その価値があったのかを知りたいの」


「後悔はするなよ」


 ルフトはぽつりぽつりと2日前の夜に起きた出来事を話し始めた。すべてを聞き終えたエマは至って真面目な顔で、浮浪児如きの言葉を真面目に聞いていたのだと分かる。


「確かに王女殿下はシュタインシュタットを訪問していらっしゃるわ。空賊が何かを企んでいるというのなら、お知らせしなくては」


「俺が言うことじゃないが浮浪児の言うことを素直に信じるのはアンタくらいだ。取り合ってもらえるはずもない。それにエメリヒはファミリアも噛ませるつもりのようだった。この件に首を突っ込めば命だって危うい」


「確かに……、私にも王女殿下に繋がるコネは無いし、匿名の手紙で衛兵に注意喚起するくらいが精々かしら」


「まあ、アンタはアンタで好きにすればいいさ。俺は俺のやることをやるだけだ」


「復讐?」


 エマの問いにルフトは答えに詰まる。


「人殺しをさせるために貴方を助けたわけじゃないわ」


「許せ、と? 俺の命を狙ったことは、まあ、いい。助かったんだ。許してもいい。だがあいつはニコラを撃ったんだ。その落とし前だけはつけさせなきゃいけない。これは商品をもらうには金を払うような、当たり前のことだ」


「衛兵に彼を捕まえてもらうわけにはいかないの?」


「殺されたのは浮浪児だ。死体だってとっくに処理されちまってるよ。俺に何を言っても無駄なように、衛兵に何を言っても無駄だ。アンタはお姫様の心配だけしていればいい。なんなら衛兵に手紙を届ける時にエメリヒのことを言付けてもらっても構わない。多分、鼻で笑われて、お姫様の話も一緒にゴミ箱行きになるだろうけどな」


「貴方たちは、そうやって生きるしかないのね……」


「命を救ってもらったことには感謝している。アンタが気に病むことじゃない」


 ルフトとエマでは生きる場所が違いすぎる。相互理解など到底不可能だ。エマはルフトが助かったのは神のお導きと言うだろうが、ルフトの理解では彼を救ったのはエマだ。エマの意思だ。神では無い。ルフトは神を感じたことは一度も無い。阿片を吸ったことは無いからだ。

 結局エマは沈んだ顔のままルフトの食べ終えた食事のトレイを持って去って行った。命の恩人に対して悪いことをしたとは思う。だが、だからこそルフトは嘘を吐きたくなかった。ルフトは再び寝床に横になった。耐えがたい痛みが、今だけは心地よく思えた。



注1 シュタインシュタットでは夜明けを知らせる形で鐘が一度鳴り、その後|30分毎に二回、三回と増えていく。八回の後は一回に戻り、日暮れ以降は鳴らされない。

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