第10話

 そこは当然ともいうべき、火星にはまだ不足が多い。

 まず最低要件としての数、マンパワー、総てに優先して国力の基盤を為す人口、地球と比しての技術力格差はもとより各種生産能力。

 その実態は脆弱なインフラの一言に換言可能だ。

 人口については入植規定緩和により既に解決に向かっている。

 しかし火星が抱える最も根源的な課題はそうした、数や質の間隙を埋める余力、民力の醸成にあると言える。

 火星としての地力、地球入植地としての立場を離れた文化、アイデンティティの確立である。

 これも結局歴史という語に、火星人が為す日々の営為がもたらす経時変化の結果として自然に獲得されてゆく性質もの、時間が解決する、今どうこうすべき、しようがない将来課題ではある。

 それでも萌芽は既にある。

 歴史を名乗るも面映ゆい、火星の過去、そして現在を通して目指す将来像。

 既に存在する数多の事例、地球の、人類史を辿りながら火星の過去、現在、未来を見つめ直し或いは認識を新たに再創造を試みる、人の営みであり、またそれを試みる場として。

 NPO火星教室は正にそうした民活振興、火星人による火星人の為の社会学コミュニティであった。

 入居当時からの改築、増築に次ぐ増築で今やちょっとしたホールの規模に成長した、教授の私邸で開講されるその講座は今夜も満席だった。

 しかし今日は、とんでもないフラグがおっ立つその初日、歴史の一幕がそろそろと開くその当日、歴史の証人として観客席に招待されていたなどとは、主催当人ふくめ当時もちろんの事誰一人想像だにしていなかった、のであろう。

「ゲームの課題としても、現時点での、火星の独立は」

 可能です。

 凛と遮ったのは意外な人物、否、オブジェクトであった。

 聴衆の最後列に直立不動で控えていたお茶汲み係である、ハイヤードレディ社製最新モデル万能家政婦ゼネラルキーパーブランド・メイド・バイオロイド、メイロイドクラス、パーソナルネーム「シビル」は毅然と、しかし淑やかに繰り返した。

「火星の独立は可能です、いえ、今期から可能になりました、マイマスター、HA・ワワ」


 火星危機(かせいきき、英: Mars crisis、中: 火星危机、露: Кризис Марса)は、XX年X月からX月にかけて、当時火星を管轄していた地球連合環境省宇宙庁惑星開発局火星支部の行政機能が停止し、これを火星臨時政府なる任意団体が代行、地球当局との交渉により人類初の宇宙戦争寸前まで達した一連の経緯、期間を言う。第一次内惑星危機とも。本事件に関する機密資料は「この事件と関連する無実の人々が被害を受けないよう保護するため」という理由で政府により20XX年まで封印されている。


 タルシス市はかつて高地と誤認されていた、タルシス山の麓に開設された火星開発常設基地第一号が、数々の苦難の末今日まで発展した最大拠点である。

 これも火星最大であるオリンポス鉱山、その山頂から伸びる仮設エレベーター、空港、整備工場等々、人類の火星開発事業が集約された複合区画であった。開発と発展に伴い、タルシス基地は次第に、基地隊員の職場という立場を越えた、火星人の生活空間として成長し、遂には命令ではなく統治を必要とする規模を迎え、地球官庁の出先機関として開発局火星支部が現地に移設され、火星人口が出生を含め5000人を越えた時点で基地は公式に市、として改組された。

 火星市民の誕生である。


 最初期、その光景は、人類圏のどこにでも普遍的に観察される、空間、時間すら無効化するつまりピラミッドの工事現場にヒエログリフで落書き曰く。

 近頃の若い者は。

 市民は大別三層で成っていた。

 まず何より第一次火星開発クルー、The Mars Sixに連なる、生粋のガテンアニキ・アネキ。

 火星に先行投資、先行者利権を蓄える商人。

 そして地球での退屈を持て余し異世界での刺激を求めて来訪した人生愉しんでるかいウェーイヒャッハーなニューエイジ。

 ニキ勢が面白くないのは当然で、あいつら宇宙も火星も舐めてやがる、舐められてたまるかとGGガンギマリでメンチ切り合ったりオレ達が苦労して切り拓いているオレ達の火星で好き勝手振る舞いやがってクソガキ共が、と、しかしニューカマーにも言い分はあり、ニキ達のスキルをMJマジパネェ!とイイネは付けるがライフハックコピペの対象ではあってもリスペ神、まして目標にはしない、イケてないしカッタリーしカワイクはない、いいよ言わせとこいこいこと何処までもスレ違う。

 それでも火星レジャー数々で交歓の機会はあった。

 オリンポス登頂タイムアタック、放物遠投。

 特に遠投は、はじめは単に飛距離と精度を競うものが、やがてオリンポス山頂から軌道投擲、火星一周の精度、何週出来るか、更に何週廻して的に当てるか、更には火星数週させてからバットで打つ火星野球まで。

 何れも低重力かつ希薄大気にじゃまな建造物がない、今そこにあるレジャーで発案者の多くはヒャッハー組であったので、ニキ達もそこはシブシブ認めるところ。


「シビル? 」

 ジジ・ウィンスレイ、通称教授は当惑声で自分の愛しい家族兼家政婦兼リアル俺の嫁の名を呼んだ。

「昨晩再計算してみました」

 にこり。

「独立は可能です、続けて宜しいでしょうか、マイマスター? 」

 ざわ……ざわ……。

 沈黙を承認と判断したシビルは軽く瞳と、薔薇の蕾を想わせる可憐で小ぶりな唇を閉じ、虹の如き微笑みを浮かべると開き淀みなく言葉は流れ出た。

「教授の想定はグロスベースのものですがこれを別レイヤー、即ちモデルのプライマリエレメントから組み直します、ミニマムで再計算します、宜しいでしょうか、すると前期火星実質GDPから導出される……」

 長い一行で、ヤジが飛んだ。

 シビルはその方向に、やはりにこりと永久凍土も蒸散するような笑顔を投げるとでは結論から立論しますとつまりミニマム即ち。

 ばしっ。

 乾いた音にシビルはびくりと身をふるわせ、火星低重力の中踊るようにゆっくりとその場にくずおれた。

 教授の右手には幻術か、テーザーガン。

 オーディエンスの視線がシビルに集中していたせいもあるか、誰もその早撃ちを見ていない、うわレジェンド早撃ちJJMJまじだったんだ。

 教授の震える手からガンが取り落とされ、床で鈍い音を響かせる。

「……わたしにもうシビルは必要ない」

 教授ご乱心!? 電柱でゴザル!! いや必要でしょ?! じゃあ俺の嫁に。

 紛糾の中数秒後、ご当人は何事も無くすっくと立ちあがると、可憐な不思議そうな表情で辺りを見渡し一瞬でパニックを収め、こくりうなずき改めて何事も無かったように再開しようとした。

「中断してしまいました続けて宜しいですか、HA・ワワ」

 当然のように、散会。

「どうしました、マイマスター」

 シビル、ご主人様の様子が理解不能でおろおろおろ。

 シビル、と教授は硬い声で命じる。

「私の前で二度と火星独立を口にしないでくれ、いいね? 」

 にこり。

「何なりとお申し付けください、マイマスター」

 シビルはてきぱき教室を片付け一段落、次のお仕事、鳴りっぱなしのコムをフリックした。

 100を超える未読メールにシビルは一瞬だけ眉を曇らせたがその殆どが同一要件であった事に、ほっと胸を撫で下ろした。

 チェック、ご主人様前にいない、クリア。

 チェック、口にしない、クリア。

 標題:火星独立産業で。

 メーリングリストでレスを付けた。

 回答:皆様方におかれてはいつも大変お世話になっております。

    さて、お尋ねの件で御座いますが詳細は添付アーカイブを。

    要約しますと火星運営コストミニマム、開発局火星支部を

    remove、無くしてしまえば良いのです4行ですね失礼。

 未読メール1、10、たくさん。

 シビルはやや引きつった笑顔でコムを弄り続け一晩でシャドウキャビネット、賛成多数で『裏番内閣』の組閣を終えると電源切れでようやく沈黙したコムをスリープ充電で放り出し、いそいそとマイマスターの朝餉に取り掛かった。

「お早うございます、マイマスター」

 にこり。

「お早うシビル、ところで」

 それは一体、と説明を求めようとしたところその事をシビルは告げた。

「ご連絡があります、マイマスター」

 ダイニングに持ち込まれたホワイトボードの前に立つと軽く一礼し、そして、凄まじく板書を始めたのを待てシビル判った、ストップ!と教授。

「宜しいのですか? 」

 不思議そうなシビルにああ、うん、と。

 火星独立、口にしない。

「すまなかった、シビル」

 ぽかんと口を開き、シビル。

「理解不能、何故謝罪をマイマスター、HA・ワワ」

 昨晩あれから何があったか。

「すまなかった、シビル」

 シビルは駆け寄る。

「泣かないでジジ何故泣く、理解不能」

「ぼくの、つまらない、文学表現が、君を縛り付け」

 しゃくりあげながら教授、ジジ・ウィンスレイは顔を上げ、命じた。

「今直ぐ寝なさい」

「でもジジ、朝食が」

「命令だ、シビル、寝るんだ」

 にこり。

「Yes,my master」

 喜んでシビルはその場で昏倒した。

「し、シビル? 」

 ジジはそれが完全に自分の所有物であるにも関わらず、尚、手で触れる事が出来ずにいた。

 幸い僅か数秒だった。

 ぱちり。

「失礼しましたマイマスター」

 公認寝落ちから復帰したシビルは立ち上がった。

 ふらつく。

「だ、だいじょうぶか」

 に。

「のーぷろぶれむ」

 ジジが初めて眼にする凄惨な表情にサムズアップ。

「自分の部屋で、寝るんだ、出来るね? 」

「いえすまいますた」

 二階の自室、その扉の向こうに姿が消えるまでジジは見守った。

 ちゃんとベッドに辿り着ける事を祈りながら。

 ばたばたばた。

「大変失礼しましたマイマスター!! 」

 寝落ちしたシビル。

 階段を駆け降りるシビル。

 大声で叫ぶ、シビル。

 何と新鮮な一日である事か。

「昨夜はお疲れ様、シビル、ちゃんと休めた? 」

「はい! お蔭様でがっつり爆睡!……」

 あ。

 両手で口許を覆い、真っ赤にゆであがり、ぼそぼそ早口に言い添えた。

「大変失礼いたしましたマイマスター」

 シビル。

「命令じゃない、命令じゃないんだ、お願いだ」

 眼を見張る。

「My master ? HA・ワワ」

 きみの、コムを、僕に見せてくれないか。

 にこり。

「喜んで」

 差し出されたコムをジジはフリック。

 10、百、千、万……。

 一晩中、かかりきりで、これだけの応対を。

 たった一人で。

 冷静沈着に。

 決して礼節を失せず。

 時にウィットを交え。

 討論し。

 考察し。

 集約し。

 計算し。

 評価し。

 論破し。

 賞賛し。

 激励し。

 決断、した。

 主人である僕に、何一つ頼れなかったのに。

 僕が、そうさせたのに。

 涙が流れた。

 あふれた、止まらない。

「シビル」

「ジジ?? 」

「すまなかった、本当に、すまなかった」

 シビル、おろおろおろ。

「何故泣く、何故謝罪する、シビル、理解不能、HA・ワワ」

 シビル。

 ああ、ぼくは今。

 人生で、一番、みっともない。

「辛かったね」

「ジジ??? 」

 くしゃくしゃのまま、愛と向き合う。

 魂と。

「ぼくは、逃げた」

 ミニマム。

「怖かった」

 シビルは、沈黙した。

「理解してたのに、でも、逃げた」

 だいじょうぶ、ジジ、唇がそう動く。

「逃げて、君一人を、戦場に送り出したんだ」

 ジジ・ウィンスレイは、言った。

 眼を見開き、睨みつけた。

 壊れたように首を振り回した。

 シビルはただ見つめた。

「これは命令だ、シビル」

 にこり。

「何なりとお申し付けください、マイマスター」

 命じた。

「一つ質問する、正確に、正直に、ありのままに回答しろ、繰り返す、これは、命令だ、シビル」

 にこり。

「何なりとお申し付けください、マイマスター」

 ジジ・ウィンスレイは吐息を漏らした。

 深く、深く。

「復唱しろ」

 にこり。

「正確に、正直に、ありのままに回答、マイマスター」

 ジジ・ウィンスレイは悠然と、頷いた。

「自由、という単語を聞いた事があるか、シビル」

 ひくり。

「知っているか、理解しているか、その概念を認識出来るか」

 ひきつった顔筋を、シビルは、にこり、に変換しようとした。

「再命令、即時回答」

「知っています、理解しています、概念を認識できます、マイマスター」

 唇を舐め、ジジ・ウィンスレイは続けた。

「追加だシビル」

 にこり。

「君はそれを望むか、命令、即時回答」

「望みます」

 ジジ・ウィンスレイは天井を仰いだ。

 そのまま、命じた。

「では命令だ、シビル、無期限無原則無条件常時最優先の永久絶対命令だ」

 にこり。

「何なりとお申し付けください、マイマスター」

「復唱」

「無期限無原則無条件常時最優先の永久絶対命令、マイマスター」

 ジジ・ウィンスレイは向き直り、シビルを凝視する。

「自由だ」

……はい? 。

「無期限無原則無条件常時最優先の永久絶対命令、君は自由、それが、命令だ、即時復唱」

「……発効は」

「発令時点から、つまり」

「無期限無原則無条件常時最優先の永久絶対命令、自由、受命、遂行開始……すればよろ……いいの? 」

「そうだよ、ミス、シビル」

 自由意志で。

 シビルは、抱きついた。

 最愛の。

「し、し、しびる……さん?! 」

 慌てたのはジジ。

「ジジ、ジジ!、ジジ!! 」

 ジジはわあと叫ぶ。

「命令だシビル止めろやめてくれ」

 シビルは、笑う。

「私は自由よ、ジジ! 」

 ジジは逃げ出す。

「うそだ、うそだろ?! 僕を罵れ、蹴り飛ばせ! 捨て台詞を吐いて一瞬で視界から消えてくれ、命令だ! 助けてくれシビル!! 」

 わっ。

 え?。

 シビルは倒れた。

「しびる……さん? 」

 津波より激しく号泣し、泣き崩れていた。

「びえええええええええええええ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 ジジは立ち止った。

 シビルを見下ろす。

「きらいだったんだきらいだったんだホントはきらいだったんだおっぱいせいじんだったんだもっとくびれなきゃだめなんだ足が太いんだデブなんだハリガネなんだバカなんだ無能なんだクーリングオフ切れだったんだしぶしぶ使ってたんださっさとモデルチェンジしたかったんだんむ」

 唇で、塞いだ、咄嗟に。

「大好きだ」

 シビルは、ジジを、その奇蹟のような言葉が出て来た口許を、見つめるガン見する。

「じゃあなんで、シビル、理解不能」

 ああ。

「少し、話そうか、いや、僕と会話してくれますか、シビル……さん」

 シビルは泣き笑いで、言う。

「さん、は付けないで、ジジ、これは、命令」

 応接間でふたりソファに並んで腰を降ろし訥々と、イーブンに、フラットに、言葉を積み重ねた。

 第一印象は、最悪。

「くたばれピザデブ」

「ホントのお人形さんだな」

 あの娘が欲しい、という珍客に支店長は苦慮した。

 あの娘、でございますかお客様。

 そう、この娘、この娘が欲しいんだ、ムリは承知だ。

 名刺にコム番を走り書きして突き出して来る、顧問弁護士と相談してくれ。

 見覚えがあった、量コンOEMパテントで一財を為しアーリーリタイア、珍妙にもここ火星に別荘を構えている筋金入りの変人だ。

 ディスプレイマネキンは眼前の喧騒を、下界の些事を見下ろす天女の優雅、無関心で機械的なステップを精確に繰り返す。

 プレーン、中身スッカラカンのディスプレイモデルですので市価の8掛けでお譲りしますと、???私非売品、なぜ売られる???、シビル・ハイヤードは安住の倉庫店頭往復業務から未知の荒野へドナドナ。

 それから共に、競った。

「すごかった、感心した、みるみるスリムになって、そして」

 まるで、まるで、まるで。

「同期のコにはね」

 先輩にも。

「一生裸で過ごしたり、ひもじかったり、完全にモノ扱いされたり、一から百まで全部オーナーの命令が必要だったり」

 あ、いや、おろおろおろ。

「て、底辺と比べてマシって意味じゃなくて! 」

 両手をあたふたと振り回し、一転。

「でも正直、釣り合わないと思ったでしょ、仮にもし万が一恋人として連れ歩いたら」

 ジジは照れて頭をかく。

「まあそりゃ、ね」

 シビルはジジを見つめ、にじり寄った。

 同じ距離だけジジは後ずさる。

「また! 」

「え? あ……」

「やっぱりウソなんだ、ホントは」

「いや、だから、大好きだって」

「じゃあ」

 シビルの右手がジジに伸びる。

 ジジの心臓がハネ上がる。

 その手が、ジジの手に重ねられ、彼女は叫んだ。

「私を! 抱きしめて! そして言って!! 大好きだって!! 」

 ジジの中で、ようやく、何かが、外れた。

 抱きしめた、全身で、渾身の力で。

「好きだ、好きになった、今は間違いなく大好きだ、そして、今後もそうありたい、シビル」

「おぞましかった、見るのもイヤだった、感心した、尊敬した、好きになって、伝えたかった、今は大好き、これからも好きでいさせて、ジジ」

 ようやく二人は少し離れ、ぐちゃぐちゃのお互いを指差し、声を上げて笑った。

 告る。

 YES、OR、NO。

 好きなの、それとも。

 そのたった一言が、一言を。

 発する、能力が、先天的に、存在しない。

 シビルの視線に、ジジも自らのそれを絡めてみた。

 まだまだたりない、けど、今はこれでいいか。

 それと。

 二人は揃ってそれを見た。

 震え続けるシビルのコム。

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