第8話 囮

 まだ薄暗い夜明けと共に彼らは行動を開始した。ギークを筆頭にしてドワーフ達を引き連れたレティリエとグレイルは丘の上にいた。この位置からなら下にいる敵の狼に気付かれないだろう。レティリエ達から向かって北向きに村の門とそこで膠着状態にある狼達。南向きに焚き火を囲んだ敵の狼達がいる。

 レティリエ達は見つからないように少しずつ丘を降り、敵の狼達が遠目に見えるくらいの位置まで近づくと、敵陣を中心に半円を描くようにして取り囲んだ。

 グレイルの瞳孔がすうと細くなり、直線上にいる長の姿を真っ直ぐに捉える。獲物を狩る時の目だ。レティリエは、グレイルが臨戦態勢に入ったのを確認すると、ぐっと拳を握りしめて前方へと走り出した。


 ガサガサと草を掻き分ける音に、敵の狼達が反応する。レティリエは彼らがいる陣地へ勢い良く飛び出した。

 焚き火を囲んでいた人狼達が瞬時に狼の姿になり、一斉にレティリエを取り囲む。グルルルル……と低く唸る声、今にも飛びかかろうと前足で砂を掻く音、複数の荒々しい息遣い、ピリッと張りつめた緊張感がその場を支配する。場の空気が一瞬で変わったのがわかった。例え、自分が強靭な牙と爪を持つ狼の姿であったとしても、複数の狼に一斉に飛びかかられればひとたまりもないだろう。生身の人の姿ならば尚更だ。


 ──怖い


 レティリエの体は震えていた。狼は仲間意識が強いからこそ、敵に対しては容赦はしない。自分だって、まだ死にたくはないのだ。敵からのたった一撃が命取りになるからこそ、レティリエも全神経を尖らせて周囲の情報を拾う。

 狼の匂い、息遣い、地面を掻く音、うなり声、鋭い視線──

 少しでも空気が動けば、すぐに反応できるように五感を研ぎ澄ませる。もはや呼吸をするのも忘れていた。自分の心臓が大きく脈打っているのがわかる。背後から射る様な殺気が放たれ、後ろを見たくても、一度視線をそらせば次の瞬間には自分の首もとに相手の牙がぐっさり刺さっている様な気がして振り向くことができない。

 動けなかった。

 次の瞬間、ザリッと砂を踏む音がしてレティリエの心臓が跳び跳ねる。瞬時に音のした方へ視線を動かすと、草を踏みしめてやってきたのは、一匹の赤茶色の巨大な狼だった。


「どうした? 不審なものは全員殺せと言ってあるはずだが」


 まだ若い男の声だった。だが、体は大きく、体躯もしっかりしていて、戦闘経験のないレティリエから見ても彼が実力者であることは容易に想像がついた。

 それに加えてこの赤茶色の毛並みは──グレイルが見当をつけた、この群れの長に違いなかった。真打ちの登場に、レティリエの体も緊張で強ばる。

 彼は、複数の狼に取り囲まれているレティリエを視界にいれると、怪訝そうに眉根を寄せた。


「お前は誰だ。なぜその姿でいる。戦闘時にその姿でいると言うことは、よほど自分の力に自信があるのか、それとも単なる命知らずのバカか」

「私はこの村の狼よ。仲間を傷つけたあなた達を、私は許さない。いますぐここから出ていって」


 震えながらもレティリエが吠えると、赤茶色の狼は小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。周囲からも失笑の声が漏れる。


「度胸だけは一人前だな」


 赤茶色の狼が近づいてくる。レティリエを囲っていた狼が道を開け、円の中に入ると共に彼はレティリエと対峙した。


「どうする? 俺の首でも取ってみるか。お前が望むならサシで勝負してやってもいい」


 クツクツと笑いながら、彼は挑発するようにグイと頭を持ち上げて首もとを露にする。小柄な雌狼一匹なぞどうとでもなるというように不遜な態度だ。レティリエが黙ったまま彼を睨み付けると、雄狼は不愉快そうに眉根を寄せた。


「どうした、かかってこないのか? そもそもこの状況下で未だに狼にならないというのは、俺達を舐めていると言うことか?」


 雄狼の声色に苛立ちが混じる。泣きわめいて命乞いをするか、狼の姿になって無謀にも挑んでくるかのどちらかだと思っていた彼は、一向に動かない雌狼の意図が図りきれず、不審感を抱いているらしかった。

 だが、レティリエの金色の瞳に戦う意思を見いだし、彼は唖然とした。


「まさかお前……狼になれないのか?」


 赤茶色の雄狼が驚きの声をあげる。だが、驚愕の表情はすぐ残忍な笑みに変わった。


「これは驚いた。まさか狼になれない同胞がいたとは。お前、かなりの劣等種だな」

「だから何だと言うの? 私は私よ」


 怯えを隠すように虚勢をはると、雄狼がくくく……と声を圧し殺しながら笑った。


「お前のおかげで確信した。この群れは大したことないな。こんな穀潰しを飼っているようじゃたかが知れている。今日のうちにも強引に押し入ってこの狩り場を俺のものにしてやる」

「それを私達が許すと思うの?」

「もちろんそうは思わないさ。だから奪い取る。こんな弱い狼まで養える程富んだ狩り場なら、ますます欲しくなった」


 赤茶色の雄狼が口の端を持ち上げる。持ち上げた唇から見えた白い大きな牙が残忍に光った。

 今自分の目の前に立っているのは、自分より遥かに力のある実力者だ。彼が動けば自分の命は瞬く間にこの世から葬り去られるだろう。でも、立ち向かわねばならないのだ。立ち上がらなければ、この村を救うことはできない。

 レティリエはぐっと拳を握りしめる。この暴力的な支配に屈してはならない。守りたいものがある限り、恐怖に膝をつくことは許されない。レティリエは大きく息を吸うと、きっと前方を睨み付けた。


「あなた、そうやって私達を舐めていると、痛い目見るわよ」


 レティリエが吐き捨てるように言うと、今度こそ雄狼は苛立ちを露にして爪で地面を引っ掻いた。


「弱いくせに威勢だけ良いとは。お前、目障りだな」

 

 言いながら雄狼が人の姿にその身を変える。赤茶色の髪に鍛え上げられた体。背丈はローウェンと同じくらいだが、小柄なレティリエから見るとかなりの威圧感がある。そのままレティリエの目と鼻の先の距離まで近づくと、彼は片手で彼女の顎を掴んでグイと上を向かせる。


「力を持たざる者はいくら吠えても同じだ。教えてやろう。俺達はな、弱いものを徹底的に排除してきた。群れから追い出し、抵抗するやつは殺す。何十何百とな。ここにいるのは精鋭達だ。お前のような出来損ないがいる群れが俺達に勝てるわけがない」


 雄狼の指にゆっくりと力がこめられ、掴まれた顎の骨がキシリと痛む。慌てて両腕で彼の右腕を掴み、引き剥がそうとするも、大男に非力な自分の力では赤子同然だ。彼が本気で力を込めれば自分の骨は一瞬にして砕けるだろう。レティリエの瞳に恐怖の色を見いだし、雄狼の目が楽しそうに弧を描く。


「弱いくせに闘志だけあるとは哀れだな。お前みたいな食うことしかできない劣等種は、仲間の為にも死んだ方がいい。くくく……見せしめに俺がこの手で殺してやろう」


 更に力がこめられ、骨が痛む。思わず悲鳴をあげそうになり、視界が涙で滲んだ。レティリエの脳裏に、やっとの思いで結ばれた夫の存在がよぎる。今、彼はこの光景を気が狂いそうな思いで見ているのだろう。だが、それでも必死で自分を律しているに違いない。村を救うために。

 ──ああ、そうだ、自分の役割はここで死ぬことではない。

 レティリエの目に光が戻る。出来損ない、役立たずと罵られる自分の存在を大切に思ってくれている彼の為にも、今、自分は死ぬわけにはいかないのだ。


 一瞬視線を横に反らすと、目の端に黒い影が映る。次の瞬間、レティリエは勢いよく顎を引き、雄狼の手に思い切り牙を突き立てた。筋肉で覆われた分厚い手に、白い牙が食い込む。レティリエの非力な顎では痛みすら与えられたかどうかすら怪しい。だが、ほんの一瞬だけ指の力が和らいだ隙に、レティリエは決死の思いで拘束から抜け出した。

 離れる際に、雄狼の右手から二筋血が流れているのが見えたが、雄狼は蚊にでも刺されたかのように軽く手のひらを振り、レティリエに軽蔑の目を向けた。


「……ふん、こざかしい真似をする。だが何度やっても同じだ。力を持たざるものは何をやっても死ぬ運命にある」

「見くびらないで! 私達は最後まで戦うわ!」

「何度言えばわかる! お前らの様な弱小な群れは大人しく俺達に迎合しろ、さもなくば死ね!」

「いいえ、出ていくのはあなた達よ!!」


 雄狼の咆哮を遮るかのように、勢いよく腕を掲げて空を切る。レティリエが叫んだと同時に地を揺るがすような騒音が鳴り響いた。  

 彼女を囲んでいた敵の狼が即座に視線を向ける。地響きの正体を捉えようと周囲を見渡した彼らの目に映ったのは、大きな武器を構えて突進してくるドワーフの大軍だった。

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