下巻 試し読み

下巻  第1話 ひとりぼっちの魔女(1)

 図書館を出た瞬間、あまりの眩しさに絢人(あやと)は目を細めた。

 黄金色の光が降り注いでいるようだった。

 十月も半ば。日差しにも随分秋らしさが感じられるようになってきた。朝晩と、ふと風が通り過ぎたとき、冷たくなった風に寒さを感じることも増えてきている。

 少し遅れて百合恵(ゆりえ)が、レースが縁取られた白いロングスカートを揺らして図書館の外に出てきた。

 彼女も日差しに目を細めながら絢人と並ぶ。黄金色の長髪も、陽光を浴びると麦穂のように輝いて見える。

 絢人は彼女と向き直る。

「今日はどうする? どこかへ寄っていくか?」

 まだ昼下がり。朗読会は午前中で終わるので、この後どこかにお昼を食べに行ったりお茶をしに行ったりすることも多い。今日は他の朗読会のメンバーとも食事などの予定がないので、二人でゆっくりできるのを絢人は楽しみにしていた。

「今日は、よかったら家までいらしてください。今朝、アップルパイを焼いておきましたの」

「アップルパイ……!」

 絢人はお菓子が好きだが、特に百合恵の作るアップルパイが好物だった。アップルパイ、と聞くだけで頭の中にサクサクのパイとリンゴの酸味と甘さを想像してしまう。

「早く帰ってお茶にしよう」

 絢人は思いきり破顔しながら、百合恵の手を軽く引っ張った。

 百合恵は可笑しそうにしながらそんな絢人についてくる。

「そんなに急がなくたって、アップルパイは逃げませんわよ?」

 図書館から秋穂家まで、そんなに時間はかからない。小学生の頃はよく、学校の帰りに図書館に寄り道していたものだ。

 並んで歩いていると、自然と話題が今日の朗読会のことになる。

「緊張しました。何度やってもなかなか慣れません」

 頬を赤らめながら、少し気恥ずかしそうな百合恵。

 今日の朗読の担当は絢人と百合恵だった。四月からの活動で朗読会は七回目。朗読担当は交代制なので、絢人たちが朗読したのは今回で三回目だった。

「うまく読めていたんじゃないか。滑らかで聴きやすかったぞ」

「本当ですか?」

 百合恵はぱっと顔を輝かせた。

 朗読を始めたばかりの頃の百合恵は緊張のせいで突っかかったり朗読が速すぎたりしていたのだが、最近は落ち着いて読めるようになったからか、聴きやすく話に入り込みやすくなった。世事の経験に疎い百合恵だが、半年ほどで朗読は随分上手くなった。

「『白鳥の乙女』の話、初めて聴く子が多かったのでしょうか。新鮮な表情で聴いている子が多いように思いました」

「最近じゃ親もああいう話を語り聞かせたりしないのかもな」

 最近の子供がどれくらい本を読んでいるのか、幼い頃どれだけのお話を与えられるのか。家庭によって違うだろう。絢人と百合恵は子供の頃、溢れんばかりの絵本を与えられて育ったから、月夜野町の民話を知らずに育つということが想像できなかった。

 この町のことをもっと知ってもらえるよう、今回は『笛吹きむすめ』と『白鳥の乙女』、月夜野町に伝わる独自の民話を読んだ。

 どちらもベースになる有名な伝承があるのだが、月夜野民話はそれを少し変えられた物語になっている。町のことや伝承に興味を持つかは子供次第だが、そのきっかけになるかもしれないと思うと今日の朗読会は楽しいものだった。

 ただ、絢人は子供の頃からこの町の民話の「呪いのせいで魔女が生まれるようになった」だの「魔女じゃないかと責められた」だの、魔女迫害の要素が散りばめられているのが嫌いだった。

 町の伝統や伝承を伝えるのは大事かもしれないが、魔女を悪者として扱う話が、ただ絢人は嫌いなのだ。

 魔女が人を苦しめる魔法を使う悪いものだという、現代では通用しないはずのおとぎ話も、この町では通用してしまう。

 銀杏並木に差しかかったようだ。見上げる。すっかり黄色に染まった銀杏の葉がはらはらと落ちてくる。

 学生たちで唯一賑わっている、寂れて穏やかな田舎町は、少し変わっている。石畳の道に、明治時代のレトロな雰囲気を強く残す石造りの街並みもそのひとつだ。

 何よりもここは、魔女の呪い伝承が残る月夜野町。

 ――魔女はこの町を呪っている。

 町の人々は、今も町に伝わる魔女の呪いを信じて恐れているのだという。古いものがあちこちに残るだけの静かなこの町に、恐ろしい暗闇が潜んでいるのは確かだった。

 絢人も百合恵も、九年前にそのことを知ったのだ。

 銀杏の並木を通り過ぎる。もうすぐ秋穂家に着く。

 少年の歌声がどこからか聞こえてきた。

「……どこから聞こえてくるんだろうな」

 つい呟きを漏らすと、百合恵が絢人を見上げた。

「何のことですか?」

「いや、どこからか歌声が……」

「歌声?」

 百合恵の訝しげな様子からして、彼女には聞こえていないのだろう。一緒にいて百合恵にだけ聞こえないとなると、理由はひとつしかない。

 歩を進めるたび、歌声は大きくなってくる。この澄んだ秋空に吸い込まれそうな透明な、ボーイソプラノのような綺麗な歌声だ。

「こっちから聞こえる」

 絢人は先にある、近くの公園を指差す。絢人は誘われるようにその公園へ足を踏み入れた。百合恵は黙ってついてきてくれる。

 町に公園はいくつかあるが、ここは公園というより林道のようなものだった。誰もいない。町からは忘れ去られ、隔絶されているような場所だった。

 一本道だった。左右の花壇にいくつも薔薇が植えられている。百合恵は薔薇を視界から外すように絢人の後ろに隠れた。彼女が外套の裾に掴まっている感触を感じながら、絢人は林道の奥へと進んだ。

 林道の奥は行き止まりになっていた。

 そこでキャラメル色の巻毛の少年が歌っていた。

 赤いベレー帽にストールを巻いている。オーバーサイズの秋色のニットを着ているが、輪郭や肩の線は細い。体格も華奢なようだ。少年は歌を止め、現れた絢人と目を合わせた。

「……君、僕の歌が聞こえたの?」

 話し声は歌声よりも低いが、風貌はまだ十代の少年のように見える。彼の落ち着いた様子や凪いだ海のような穏やかな瞳が大人びているせいだ。外見からだと年齢がわからない。

「ねえ君、名前は? 僕は槻崎一伽(きさきいちか)」

「俺は、優希絢人」

 槻崎といえば、今は潰えてしまった七つの旧家のひとつだ。

「どれくらい、ここにいるんだ?」

「そうだなあ、ざっと五十年くらいかな」

 一伽はあっけからんと言って笑った。

 百合恵が絢人の外套の裾を軽く引っ張って小さな声で耳打ちする。

「絢人くん、そこにはどんな方がいらっしゃるの?」

 百合恵には何も見えていないはずだ。

 絢人は一伽の人となりと名前を簡単に説明した。

「それにしても」

 少年が絢人の前へ、跳ねるようにして近づいてきた。

「――男の魔女とは、かなり珍しいね」

 絢人は顔を強張らせ、手のひらを強く握り込んだ。

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