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「いまの、なんですか?」
おじさんの顔が写ったコーラ入りの盃を手にしたら、突然、江戸時代っぽい場所、それも、めちゃくちゃ豪華な宴会場に飛んでしまった。
その盃は、いまはもう
三枚重なっていたうちの残りの二枚にも、コーラがこぼれちゃってる。
漆も剥げていた。もとどおり、古びた盃と
盃の行方を確認した後で、天狗さんの姿を捜して、呆れた。
天狗さんはまだスマホをいじっていた。
「――なにしてるんですか……」
「なにって、メモだよ」
天狗さんは、いじっていたスマホの画面をわたしに見せてくれた。
ノートアプリに文字がずらっと並んでいた。
いろいろ書いてあったけど、目立つのがこの三項目。
・江戸時代後期
・吉原遊郭
・引付けの盃
「これって?」
「さっき、鏡さんがその盃に触っている間に見えたものを記録したんだよ。昨日、本で調べた通りの世界だった」
天狗さんは、わたしから見ても浮かれていた。
「いや、驚いた。鏡さんって何者なんだ? こういう盃を使っての三三九度は、結婚式以外にも使われるっていうのはさっき話したとおりなんけど、吉原遊郭で花魁と遊ぶ時にもしきたりとして行われたらしいんだよ。鏡さんが見せてくれたあれからして、この盃は、遊郭で使われたものだったのかもしれないね」
「はあ、遊郭――」
一体どうしてそんなことが起きたのか?
そりゃ、突っ込みたいことはもろもろあるけど。
さっき見た花魁さんは、テレビで見る女優さんに負けない美女だった。
あんな美女を間近で見られて、はっきりいって眼福。
ああいうゴージャスな和風ファッションに興味がないわけでもないし、運よくいいものが見られたなって、正直ちょっといま、嬉しくて胸がどきどきしているのは事実だ。
でも、いま天狗さんと見たものは、吉原遊郭。
つまり、歓楽街だったんだよね?
「この盃に触ってさっきの世界に飛んじゃったなら、これがあのおじさんの持ち物だったかも――過去に、あのおじさんがこの盃を触ってたかもしれないってことですよね? あのおじさんが、さっきの花魁と遊ぶために、三三九度をしてたかもって――」
吉原遊郭っていうのは、つまり、江戸時代の花街だ。
麗しい美女と一晩の恋をしに男たちが遊びにくる場所。
昔の話で、日本にかつて本当にあった事実なんだから、世間の常識や道徳が違うだけで、とやかくいう必要がないというのは理解しているけれど。
でも、現代に生きる乙女としては、あんなおじさんが、お金を武器に、あんな美女を――と考えると、どうしても気持ち悪い。
「へんなもの触っちゃった……」
「そうだよな。鏡さんの気持ちを考えずに、妙なもので契約を結ぼうとして申し訳なかった。許してくれ、このとおり」
天狗さんはすぐに頭をさげた。
本当、紳士っぽい人だなぁ。
誠実さが伝わってきて悪い気はしないし、こんなふうに気をつかってもらえると、かえって申し訳ない。
「天狗さんが謝ることじゃないですよ。天狗さんも、この盃がそんなものだってことは知らなかったわけですから」
「そんなわけにはいかないよ。これはもう片付けよう。――契約は、これでやろうか」
「器というのは、時代とともに変容するものだ。これで三三九度をおこなっても問題ないだろう」
「つまり……三三九度はするんですね?」
ちょっと意味がわからない。
なんで、そこにこだわるんだろう?
こだわるところなのかな――。
天狗さんはすでに、コーラのペットボトルを器用に傾けつつ、白いマグカップにコーラを注いでいる。
三三九度のしきたりとやらにのっとって、三回に分けて。
コーラを注ぐ天狗さんは真顔をしていたけど、ほくほくと楽しそうにしている雰囲気は、なんとなく伝わってきた。
「じゃあ、鏡さんから、三口に分けて飲み干してくれ。同じ器を使って丁寧に回し飲みをすることが、もともとのルールのようだし、
「はあ――」
「気乗りしていない顔だね。――あっ、おれとしたことが。若い女性に対して、また妙なことをさせようと……」
そこで、天狗さんははっと青ざめた。
つぎに天狗さんが持ってきたのは、やたら豪華な器。
九谷焼とかなんとか焼とか、わたしから見ても、お高いんだろうな~と感じる骨董品だ。
でも、ふしぎな形をしていた。
小さめの丼に足が付いた、ゴブレットみたいな。
器の中には、なみなみとミネラルウォーターが注がれた。
「江戸時代の
「
「三三九度などの
「はあ……」
「同じカップを使っての契約だなんて、回し飲みの強要だったね。むかしは良くても、現代ではセクシャルハラスメントだ。おれとしたことが、大変もうしわけなかった。」
と、丁寧に頭を下げてくれるんだけど――。
いや、問題はそこじゃないです。
そもそも疑問を感じていたのは、どうして三三九度なんだろうってところなんですが。
じつはこの人、天然なんだろうか。
変わった人だなあ――とは思うけど、妙に生真面目でもある。
つい笑ってしまうというか。
この人のところで働くのも、悪くないのかなぁ。
「どうだろう、鏡さん。これで契約成立とさせてもらってもいいかな」
「わかりましたよ。雇用主がそういうなら」
そういうわけで。
マグカップを両手でもちあげていくわたしの手もとをじぃっと見つめる天狗さんのほくほくとした笑顔に忍び笑いをもらしつつ、わたしは、「せーの」で、マグカップのコーラに口をつけた。
「鏡さん、つぎはいつ働きにこられるかな?」
「明日でも大丈夫ですよ。授業が終わった後は毎日空いてますから、何曜日でも――」
「助かるよ!」
これから先の勤務予定とか、こまかな話をした後で、履歴書の話になった。
「なにかあった時のためにも、連絡先は教えてもらっておいたほうがいいよね。住所とか、電話番号とか、緊急連絡先とか。履歴書があるって話してたっけ? なら、今度くる時に持ってきてくれるかな」
「わかりました。写真もつけたほうがいいですか?」
「写真か。すでに会っているし、なくてもいいかな? なんなら、おれのほうで似顔絵を描いておくが……」
「用意します!」
天狗さんは、ふしぎな人だった。
いい人なんだけど、どこか抜けてるというか、天然というか、残念というか――。
でも、悪い人ではないし、紳士だし、たぶんだけど、いい人だと思う。
そんな気がするな。
「じゃあ、今日はありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとう。これからもよろしく頼むよ」
帰り際、天狗さんは豪邸の門まで出て送ってくれた。
それから、別れ際に思いだしたようにいった。
「あ、履歴書だけど――資格のところに『霊感』って書いてくれていいから」
「はい?」
「鏡さん、今日はすごかったよね。霊感があるよね!」
「えっと……いいんですか?」
資格に「霊感」、か。
自分に霊感があるなんて思ったこともないし、さっきのがわたしのせいかどうかもわからないけど――。
そもそも、「霊感」なんて履歴書に書こうものなら、天狗さんが描くかもしれない似顔絵以上の落書きめいた妙な情報になりそうだけど――。
二時間働いてもらったからと、お給料もいただいた。
時給1100円、二時間で2200円。
お財布の中はからっぽに近かったので、ありがたすぎる臨時収入だ。
帰宅する前にスーパーに寄って、そのままお肉のコーナーへ。
豚肉を買った!
お金がない時の救世主、もやしも!
今夜のごはんは、豚肉ともやしのスープにしよう。
美味しいものをお腹いっぱい食べられれば、今日もいい日だ。
■■鏡餅子のバイトレポート①■■
●三三九度は日本古来の契約方法で、結婚式以外にも用いられる。
●雇用主が認めれば、霊感の有無は資格として履歴書に書いてよい。
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〈参考文献〉「三三九度 盃事の民族誌」(著:神崎宣武/岩波現代文庫/2008)
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