繋いだ手を


 短針が十一を指す。

 夏の夜には虫の鳴き声が溶け込んでいる。そんな静寂には程遠い薄暗闇を、その影は足音無く進んでいた。まるで自分こそが夜の静けさの真の体現者とでも言わんばかりに影は悠々と目的地へ向かう。


 影は難なく、和風の屋敷にはそぐわない、洋室へ続くドアの前へ辿り着いた。


 目測でレバーとの距離をとる。後ろ足に力を入れ前足を持ち上げた瞬間、腹に何かがからみついた。地を離れ跳躍したはずの後ろ足がダラリと垂れ下がり、猫は自分が何者かに抱き上げられたことに気付く。


 脇下を長い指が支え、尻は尾を腹につけるように丸められてしまった。猫を捕まえたのはこの部屋の主ではないだろう。体力のない彼女がこんな時間まで起きているわけがない。では誰だろうと腕の主を見上げようとして、耳が声を拾って先に動く。


「深月の部屋の前で何してるの、静音」


 かすかにとがめるような響きを感じて猫は廊下を振り返った。角のところに佇んでいるのはいつも餌をくれる少年だった。夜目の利く猫には、少年の目に疑いと警戒の色がにじんでいるのが見てとれる。


「今日は見回り当番じゃなかったはずだよね」


 少年が続けて言う。それに応える声が頭上から聞こえた。


「こんばんは真信様。寝付けずにいたところ、猫宮さんを見かけまして。追いかけてきたらここに。……深月さんにご用事だったのですか?」


 その質問は猫に向けられたものだった。猫は問われた者の礼儀として相手を見つめ返す。


 鋭い目つきをした女性だ。就寝時だからか、いつもは縛っている短髪を下ろしたままにしている。右のこめかみから耳の下まで一筋の深い傷があり、あとが皮膚を突っ張っていた。確か左耳にもナイフで切られた跡があったはずだが、抱き上げられた角度からは確認できない。


 猫にとってこの女性は傷だらけという印象が強い。服で隠れた彼女の身体にはもっと酷い傷跡がたくさんあるということを猫は知っている。いったいどんな人生を送ればこれほど自身を傷つけることになるのか、不思議だった。


 だが心根の優しい女性だ、と猫は一鳴きしてその腕から飛び降りた。


「猫宮さん?」


 呼び名が聴こえるが無視して少年の横を通り過ぎる。

 真信もあえて猫を捕まえようとはしなかった。


「静音、眠れないならちょっと付き合ってくれないかな」


 代わりに少年はとり残された静音へそう声をかけているようだ。疑惑が自分に向けられたものでないことに猫はホッと息をついた。





「ダンス、ですか?」


 二人は屋敷で一番の大部屋へやって来た。あらためて見ても旅館の宴会場ほどの広さがある。樺冴の人間だけが暮らす家をどうしてこんなに広く設計したのか、真信には不思議だった。大きな屋敷に一人きりというのは余計に寂しくはならないのだろうかと。


 静音も同じようなことを思ったのか、部屋の真ん中で辺りを心もとなさげに見渡している。真信は彼女に近づき向かい合って誘いの手を伸ばした。


「マッドが言うにはパーティーでやる可能性もあるって。可能性は低いけど念のため、ステップとかうろ覚えなとこ思い出しとこうって。静音は踊れたよね」


「ええ、必修でしたから基礎は一通り。社交ダンスの類は千沙ちささんのほうが得意だったかと。呼んできましょうか」


 門下は見習い時代にあらゆる分野の基礎を学ぶ。学問や潜入技能を始め、武芸やダンスも習う。そこから本人の素質を活かす専門分野へと枝分かれしていくのだ。


 静音は高い総合力の代わりに専門と呼べる何かがなかった。ならば確かに、社交界へ潜入することを前提に教育を受けている千沙ちさのほうが詳しいだろう。


 だが真信は首を横に振る。遠慮がちに宙をさ迷う彼女の手を取って身体を揺らし始めた。


「いや静音がいいんだ。たしか、男性パートもできたろ?」


「はい。必要ですか?」


「深月たちにダンス申し込んでくるような男がいたら、僕が代わりを名乗り出ようと思って」


「踊るのですか、女性パートを……」


 なぜそこで身体を張るのだ、と言いたげな視線に冗談だよと返す。


 彼女の腰に手を回すと静音も真信に身体を預けてくる。一歩ずつ歩幅を確かめ合うようにステップを踏み出した。


 探るような動きはすぐに脳裏の音楽と重なっていく。

 息遣い一つで相手の動きが分かる。まるで共に過ごした歳月が互いの身体に染み込んでいるようだった。





 三十分ほどが経っただろうか。小さな失敗もなくなって、どちらからともなく手をはなす。ふぅと息をつくと耳に虫の声が戻ってきた。思った以上に集中していたらしい。


「ありがとう静音、これならなんとかなりそうだ」


「真信様のリードは最初からお上手でしたよ」


「静音の教え方が上手いんだよ。高校受験のときを思い出した」


「そんなこともありましたね」


 他愛もない会話が途切れる。なんとなく、ダンスの時の距離感のまま腰を下ろした。


 沈黙が流れているのは、静音が真信の雰囲気を察して言葉を待っているからだ。彼女の好意に甘えてばかりはいられない。正座で背筋を伸ばしている静音へ、真信はあぐらの膝を握りながら切り出した。


「静音」


「はい」


「僕は永吏子えりこと向き合おうと思う。まだどこにいるかも分からないけど、会って話をする。そのために力を貸してほしい」


「はい。それが真信様のお望みであれば」


 静音は真っすぐ少年の目を見つめて即答する。それに真信はため息を飲み込んで、頭を掻いた。


「……いつもそうやって従ってくれるけど、もしも静音が嫌なら無理して付き合わなくていいんだ。永吏子えりこが危険なのは知ってるだろ?」


「平賀で、うわさ程度なら耳にしています」


 粛々と評するのが相応しい態度で静音が答えた。


「その十倍じゃ足りないと思う。あの妹がどう成長したか僕にも予想がつかないんだ。これは全体の方針とか関係ない、僕の我がままだから付き合う義理はないんだよ。私兵になれ、とは言ったけど、あれはみんなに平賀を離れて欲しかったからだ。だからキミたちが僕から離れていくとしても止めない。むしろそうやって幸せになってくれるなら、応援する」


 説得の色を漂わせて宣言する。けれど静音は口をつぐんだままだ。

 眉根に困惑が見える。協力を求めておいてなぜ否定するようなことを言うのか、その意図を図りかねているようだ。


 だったらまだ対話を続けなければ。彼らには知っていてほしいことがたくさんあるのだから。


「ここに来て分かったろ? みんな、平賀の外でもやっていけるんだ。好きなことをしていいんだよ。僕に逆らったっていいんだ。みんなには幸せになってほしいから、もう無理はさせたくない」


「いいえ。私たちは貴方の手を離れて生きていけるほど強くはないのです。私が──……。我々が平賀を出て真信様に従ったのは我々自身の意思。真信様がお気に病むことではありません。真信様が必要とするならば、使い潰して頂いていいのです。それが我々なのですから」


 それが門下なのだから。含意がそう言葉の裏に透けて見える気がした。


 ──もうキミたちは門下じゃないのに。そう強調してしまうのは残酷な気がして、真信は別の言葉を探す。


「けど……けど僕は、家族と思いたい人達を大切にするって決めたんだ」


 それが緒呉で気づいたことだった。ひいらぎが双子へ向ける想いはとても綺麗なものに見えたし、羨ましいとも思った。


 だから自分も永吏子えりこと向き合いたい。そして自分を慕ってくれる彼らをただの道具にしたくない。


 自分の意思で幸せを選んでほしいと。

 その邪魔をしたくないと、そんなことを思い始めていた。


 それは真信が個々を尊厳ある一人の人間として認識し始めている証拠だ。もう、命令すれば聞くのが当たり前な存在とは思えない。


「特にさ、自覚ないかもしれないけど、静音はずいぶん変わったよ。平賀や僕がなくたって、きっとどこでもやっていける。自分の幸せを求めてもいいんだ。運命は必ずキミに応えてくれるはずだから」


 真信から見て静音は一番、門下の中で人間らしい女性ひとだった。他のメンバーはまだしも器用な彼女なら幸福な人生に馴染めるはずだと確信している。


 けれど真信の思いとは裏腹に静音はゆっくりと首を横に振った。

 その唇が何かを飲み込むように震えたことに、少年は気づけない。


 静音は握りしめた左手を右手で包んで胸に当て、少しだけ姿勢を崩す。

 心臓を守るように折り畳んで真信を見上げた。その口元には表面を飾る柔らかな微笑み。


「…………何も変わってなどいません。私の幸せは、真信様の隣にいることですから。これでも好きなことをしているつもりなのですよ」


「────っ」


 笑みの穏やかさに少年は思わず息が止まった。

 彼女をなぜか直視していられなくて、立ち上がって顔をそむける。


(なんかすごいことを言われた気がする……)


 本音を言えば、少し疑っていたのだ。いつからか感じるようになった誰かの探るような視線。屋敷でも感じるということは外部の者ではなく身内かもしれない。静音の様子がここ最近おかしかったことには、さすがに気づいていたから。


(静音が僕を裏切るわけないか)


 いつも最悪を想定してしまうのは悪い癖だ。

 頭を振って疑念を打ち消す。


 このまま夜を終えてしまうのは勿体もったいない気がして、同じように立ち上がった彼女へ質問を投げかけた。


「そうだ、静音の好きな物ってなに?」


「急にどうしたのですか」


「いや、そういうの意外と話したことなかったなって」


 本当は日頃のお礼をと思ったのだが、適当な理由をつけて誤魔化した。静音は難しい顔をして考え込んでしまう。


「改めて考えると思いつきませんね」


「そう? 例えば……辛いのとかよく食べてない?」


「! ああ、たしかに。辛いもののほうが好ましいです」


「あとはえーっと、実は犬よりネコ派でしょ」


「そうですね。あの柔らかな肢体したいとふうわりとした体毛には心惹かれるものがあります」


 まるで新しい発見をした子どものように何度も頷く静音に、真信は吹き出した。


「ははっ、なんだよ、僕のほうが知ってるじゃないか」


 この女性は本当に、他人ひとのことばかりで自分の事には無頓着なのだなと微笑ましくなる。


「でもきっと、僕の知らない静音もいるんだろうな」


 奈緒が、静音が何かに悩んでいるようだとこぼしていたのをふいに思い出す。真信は様子が変だということにしか気づかなかったし、彼女が悩んでいる原因すら思いつかない。


 相手を理解していると自負していても、やはり人一人の全てを知ることなど不可能なのだとこういう時に思い知らされる。


(でも知らないのが当たり前で、向き合って知ろうとしないと何も進まないよな)


 勝手に相手を知った気になってしまうと、深月とぶつかった時のようなすれ違いが起きる。もう同じ失敗を繰り返さないように自分を変えたいのだ。


「いつか教えて欲しいんだ。僕とか他の人のためじゃない、静音が本当に自分のために望むもの。好きなものを」


 静音の悩みがなんであれ受け止めようと心に決める。大切な人達を幸せにするためには、まずは自分が変わるべきだろうから。逃げるのを止めて、置いてきたものに目を向けなくては。


 腕時計を見るといつの間にか見回り当番の時間になっていた。


 静音に一言断って部屋を出る。もう少し話していたかったが仕方ない。やるべきことは山積みだ。その合間にちょっとずつ解決していけばいい。


 そう考えていたから。


「…………変わらおいていかないでください、真信様」


 彼女のこぼした小さな呟きが、彼の耳に入ることはなかった。



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