仄かな予兆編

何かがおかしい


 緒呉おくれから帰って一週間、彼女に対して違和感を覚えるようになった。


 真信まさのぶはその直感がどこから来るのか、上手く言語化できずにいる。





 ──わんこがね、なんだかんだー


 背後に出現させた狗神いぬがみの鼻先を撫でながら、深月はそう言っていた。


 狗神を振るう時の感覚に違和感がある。なにが、という具体的なことは分からないけれど、とにかく何かがおかしいのだと。


 マッドが研究室に改造した土蔵の中で、深月はその話を真信とマッドの二人だけに語った。いつの間にか深月の主治医を名乗るようになったマッドが詳しい問診に取り掛かる。さすがに素早い。マッドに押し出されて真信は蔵を後にした。


 重い金属製の扉をしっかり閉めて、その重みに背を預ける。

 真信は深月の証言以外にも彼女の変化に心当たりがあった。恐らくこの変化は深月自身が原因ではなく、狗神由来だ。


 深月自身にそれを訊くのはなぜだかはばかられ、真信はその足で京葉けいよう高校へと向かったのだった。







源蔵げんぞうさん、何か思い当たるふしはありませんか」


 狭い室内には執務机と大きな戸棚が客人用のソファーを囲むようにして配置されている。こういう部屋には壁に肖像画でも並んでいそうだが、それはない。そんな他校のものより幾分いくぶん殺風景な京葉高校の理事長室に真信はいた。


 少年は湯呑から上がる湯気を尻目に、斜め前に座る男を見つめる。シワ一つない白スーツを着込んだ胡散臭うさんくさい男の名は菅野すがの源蔵げんぞう。京葉高校の理事長にして樺冴かご深月の後見人でもある。


 歳の頃五十程度に見えるが、その実年齢は誰も知らなかった。見た目よりも長い時を生きているのだけは確かだ。男の正体は元軍人であり、百年以上前の狗神誕生に立ち会った人物である。その際源蔵げんぞうは狗神の呪いによって、狗神が存在する間は死ねない身体となった。


 それ故に、今までずっと樺冴かご家に寄り添って来た。樺冴の血筋が絶えないよう世話をし続けているのもこの男だ。ある意味、使役者である深月よりも狗神に詳しいと言える。


 少年の質問に男は思案顔で顎鬚あごひげでた。


「深月の変化ねぇ。つまり……具体的にはなんだね」


「一番は食の好みです。以前は味の薄いものを好んでいた。けど、少しずつ酸味の強い味のものを好むようになっています」


「勘違いではないかね。彼女はもともと好き嫌いなどしないだろう」


「深月は好物になるといつもより咀嚼そしゃくが少しだけゆっくりになる」


 真面目な顔で即答すると、源蔵は肩をすくめて両手を上げた。


「……真信君、私は君をもっと聡明な男だと思っていたよ」


「どういうことです?」


 意図が掴めず眉をひそめる真信に、源蔵はため息を飲み込み真剣に告げた。


「深月の後見人として言わせてもらうよ。──避妊はしっかりやってくれ」


 責めるような視線に、真信は数瞬反応が遅れた。


「………………はあっ!? っちょばっ、あっつ! なっ、なんでそんな話に!?」


 膝がテーブルにぶつかって湯呑が揺れる。こぼれた玉露ぎょくろが足に引っかかって慌てる真信を源蔵は冷たい目で見つめている。


「味覚の変化が事実ならば、原因はそれしか思いつかないな。安心しなさい。子を身ごもることで食の傾向が変わるのはよくあることだ。だがこんな時期に何を考えているのだね。第一君たちはまだ学生だろう」


「待ってください! 勝手に話を進めないで! 誤解ですっ、深月は妊娠なんかしてないし、僕らはそういう関係じゃありません!」


「そうなのかい? 私はてっきり……いや待ちたまえ、まさか一緒に暮らしていて今まで何もないと?」


「あるわけないでしょう! もうっ、ふざけないでください。僕は真剣な話をしているんです」


「私も真剣なのだがね」


 源蔵が失笑ぎみに目じりのしわを深め胸元のハンカチを差し出してくる。真信はそれを受けとってズボンにこぼした茶をぬぐった。


「おかしい所はまだありますよ。証拠はこれです」


 腕を曲げて手の甲側を見せる。前腕の柔らかい部分に噛まれたような歯型があった。野生動物によるものとしては傷が浅い。跡は人間の前歯のほう──犬歯と側切歯そくせっしの形に酷似している。ちょうど軽く口に含んだ大きなものを噛み切ろうとんだような、しかも片側にだけ力を込めて噛んだような跡だ。


「ああ、最初から気になってはいたのだ。マッド君にでも噛まれたかね」


「噛まれたのはその通りですよ。犯人は深月ですが」


「深月が……?」


「ええ、三日前のことです。その日は雲が夏日を遮っていて、川を渡ってくる風が冷たかった」




 そのとき深月は縁側から中庭をぼんやりと眺めていた。


 いつもの着崩れた着物に身を包んだ少女が柱にもたれかかって蝶々を目で追っている。真信の接近にも気づかない様子で、心ここにあらずといった雰囲気に見えた。


「深月、なにをしているの?」


 膝をついて視線を合わせ、少女の額の汗を拭う。深月が反応して真信を見つめた。どこかうつろで視線が合っていない。さっきまで居眠りでもしていたのか、寝ぼけ眼だ。


 深月が真信の腕を掴む。それをおもむろに引き寄せ口に含んだ。


「えっ!?」


 腕から伝わる湿った暖かさに真信がぎょっと目を向く。何が起こっているのか理解できなかった。やめさせなくてはならない気がするのに体が石化したかのように動いてくれない。頭が沸騰ふっとうして思考を阻害していた。


「どっ、どうし──いつっ!?」


 腕に感じる咬合力こうごうりょくが強まる。犬歯が皮膚を破った。両側の側切歯と臼歯までもが肉に食い込む。少女の口の隙間から唾液だえき交じりの血が垂れてきて、真信の背筋を冷たいものが走った。


 これはたわむれではない。

 彼女のあごは本気で真信の肉を食いちぎろうとしている。


「深月っ! 待って、どうしたのさ!」


 呼びかけながら肩に触れる。すると噛む力が消えた。深月の口が紅い糸を引いて離れる。真信の腕には歯型の傷が残されていた。ぼんやりとそれを視界に納めた深月が呟く。


「あ……血……出てる。ごめんね」


 零すように言って傷に口を持っていき、滴る血を舌で舐める。


 その感触にまた全身から汗が吹き出した。


「?! だだだだだ大丈夫だからっ!」


 腕を引っ込め飛び退いて深月から離れる。そのまま真信は脱兎のように廊下を去ったのだった。






「……で、後から深月に聞いたら、覚えてないって言うんです」


「……顔が真っ赤だよ。大丈夫かい?」


「大丈夫デス」


「声、裏返っているのだが」


「ぐっ」


 源蔵げんぞうに指摘されて喉から変な音が漏れた。真信は咳ばらいをして、


「一つ気づいたのは、いつもの──狗神の副作用とはどこか様子が違ったということでしょうか」


「というと?」


「意思があった。狗神は使えば使うほど宿主の精神を削っていく。だから狗神の副作用でおかしな行動をとったならあの瞳に意思の光はないはずです。なのに僕は確かにあの行為に意思を感じた。けれど……」


「…………それが深月とは思えなかった、と?」


 濁そうとした言葉を最後まで継がれて真信は苦い顔で頷いた。

 源蔵は思案するように顎ヒゲを撫で、組んでいた腕を解く。


「この件はこちらで預からせてもらえないかな。君が問題視しているというのなら、原因を探ってみよう」


「お願いします」


 一つ頭を下げ、真信が席を立つ。部屋を出ようとした彼を源蔵はちょっと呼び止めた。


「そうだ真信君、深月は最近、饅頭まんじゅうを食べるかね」


饅頭まんじゅうですか?」


「私がよく差し入れに持っていく高級饅頭だよ。どうかね」


「今朝も食べてましたよ」


「そうか」


 受け答えが済むと、真信は不思議そうな顔をしながらも帰っていった。

 それを菩薩めいた笑みで見送った源蔵は、ソファーに深く沈んで難しい顔になる。


「…………あの饅頭は私が若い頃から贔屓ひいきにしている老舗しにせ和菓子店のものでね。無精な私には女子供への土産などあれくらいしか思い浮かばなくて、深月はずっと以前に食べ飽きたと避けるようになっていたのだよ」


 ため息を零し、どこをともなく睨みつけ呟く。


「これはいったい、どういうことかね、陽介ようすけ……」


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