第31節 -レゾンデートルの証明-

 4月24日 午前7時過ぎ。玲那斗は階下から聞こえる物音で目を覚ました。

 カーテンの向こうは既に明るくなっている。日の光が差していることから、珍しく晴れ間が覗いていることが窺えた。

 簡易寝袋から出ようとした時、ふと甘いキャンディのような香りがするのを感じ取る。

「イベリス…?」

 軽く周囲を見回すが彼女の姿は無い。昨晩は隣のアルビジアの部屋にいたはずなので当然だ。

 姿こそ見えないが、つい先程まで彼女が傍にいたかのような香りに玲那斗は心が安らぐのを感じた。

 これは勘だが、おそらく彼女は一晩を通してずっと自身の分身体をこちらの部屋に寄こしていたのだろう。特にアンジェリカの件の直後であるから尚更だ。

 玲那斗は彼女の気遣いに感謝しつつ寝袋から出て上体を起こし立ち上がる。その足で窓辺まで歩きカーテンを開けると眩しい太陽の光が室内に差し込んできた。快晴だ。

 昨日まで空を覆っていた分厚い雲はどこかに去ってしまったようで、一面に広がるのは青々とした空であった。


 幸先の良さを示すような空模様を眺めた後は、日の光を浴びつつ身なりを整えるとすぐに部屋を出る。そして、廊下を歩き階下に繋がる階段を下りていく。

 階段の途中まで来たところで下からとても良い香りが漂ってきた。既に2人が朝食の準備をしているらしい。

 階段を降りてリビングへと入った玲那斗を迎えたのはイベリスであった。


「おはよう、玲那斗。今日はとても良い天気ね。」

 彼女へ返事をする。「おはよう。そうだな、眩しいくらいの日差しだ。」

 眩しいくらいの日差しよりも眩しいイベリスの笑顔に玲那斗の心は癒される。

「もうすぐ朝食が出来るから座って待ってて。」

「ありがとう。すまないな、起こしてくれて良かったのに。」

「貴方は私達とは違うのだから、ゆっくり休まないと。」

 イベリスに促されて玲那斗はリビングの椅子へ腰を下ろす。視線をキッチンで料理中のアルビジアへと向ける。

「おはよう、アルビジア。」玲那斗は声を掛ける。

「え、あ、はい…おはようございます。えっと…いえ、何でもありません。」

 心ここに非ずといった様子の彼女は、なぜかびくっと驚いた表情で返事をした。よくよく見ると少し顔が赤い気がする。

 不思議に思った玲那斗は言う。「どうかしたのか?具合でも悪いとか?」

 するとアルビジアは躊躇いがちに言った。「いえ、違うんです。昨夜イベリスが、その…」

 よそよそしく言う彼女の言葉を聞いた玲那斗は怪訝な視線をイベリスに送る。

「何かしたのか?」

「私はただアルビジアの “隣で寝ただけ” よ。」悪戯な笑みを浮かべてイベリスは答えた。


 なるほど。イベリスの言葉を聞いて玲那斗は理解した。

 つい数日前に自分にしたことと同じようなことを彼女にしたらしい。何のことは無い。いわゆる添い寝だ。

 元々美しい彼女がベッドで横たわると、妙にいつもとは違う艶やかな美しさになったのを思い出しながら玲那斗は頷いた。


 アルビジアが困ったような顔をして言う。「あのっ、嫌だったとかそういうのではなくて…添い寝、なんて生まれて初めてで。どうしていいかわからなくて。確かに眠らないのかと誘ったのは私ですけど…」

 玲那斗はやれやれという顔をしてイベリスに言った。「悪戯っ子め。分かっててやったな?」

「ずっと憧れていたのよ。友達同士のお泊り会みたいなものに。千年越しに念願叶ったり、だわ。」

 嬉しそうな顔で言うイベリスを見た玲那斗も笑う。困ったような表情を浮かべてはいるがアルビジアも心なしか笑っているように見える。


 アルビジアはキッチンから今しがた出来たばかりのスクランブルエッグを3人分テーブルへと運ぶと自らも椅子に座った。

「今日も美味しそうだな。」運ばれた料理を見て玲那斗は言う。

 彼の何気ない一言にアルビジアはどことなくいつもとは違った嬉しさを覚えた。

 最後にイベリスがアルビジアの隣に座る。そして玲那斗とイベリスは手を合わせていつもの挨拶をする。

「いただきます。」

 昨晩はそんな2人の様子を眺めるだけだったアルビジアも見様見真似で手を合わせて言う。

「いただきます。」

 そんな彼女を見て玲那斗とイベリスは優しく微笑んだ。


 これはいつかの遠い昔に在り得たかもしれない光景。

 ゆっくりと流れる時の中。穏やかな時間が過ぎゆく中で3人の朝食が始まった。


                 * * *


 清々しい朝だ。珍しく晴れ渡った空。いや、ここ最近では数日ぶりの快晴である。まだ肌寒さの残る気温ではあるが太陽の下にいると春の陽気が感じられる。

 シャーロットは使用人控室の窓を開け開放的な外の空気を吸いながら深呼吸をした。


 こんな日に何か起きるだなんて思えない。


 天使のような名を持つ悪魔のような少女。アンジェリカは “用事は終わった” と言った。しかも、具体的に何かが起きるのは今日だという。

 つまり、彼女の望む何かしらの悪い出来事が今日の内に起きるということを示唆しているに他ならない。

 あの女の望むことと言えばそう。幸福の絶頂にいる人間を地獄に突き落とすこと。

 例えるなら、結婚式を挙げたばかりの夫婦に、〈式の記念に美しい景色を見せよう〉などと言って言葉巧みに崖まで案内し、最終的に後ろから突き飛ばすというようなことだ。

 財団の崩壊。そして世界で使用されるグリーンゴッドによる深刻な環境汚染。取り返しのつかない出来事が起きることを何よりも望んでいるのだろう。

 加えて言えば、自分のラーニーに対する気持ちが叶うことなく散るというシナリオまで望んでいるのかもしれない。

 機構のイベリス。リド=オン=シーのアルビジア。そういった女性たちを自分の気持ちを知っていながら次々とラーニーに近付けるような真似をする女だ。


 そんな時、外の良い天気とは裏腹に晴れない自らの心の内を悲観的に見つめていたシャーロットを呼ぶ声が後ろから聞こえた。

「ロティー。大きな溜息をついてどうした?」

「サム。いえ、おはようございます。執事長。」

 シャーロットは声の主に朝の挨拶をする。彼女を気にかけて言葉をかけたサミュエルは手で彼女を制止しながら言う。

「いや、まだ業務が始まっているわけではないから改まらなくても良い。その様子だと昨晩は眠れなかったようだね。」

 シャーロットは壁にもたれかかり、遠くを見つめるように視線を白い壁へと向けて言う。

「あの子の言うことが気になって。今日で全てが終わると、そういう風なことを言っていたわ。」

「アンジェリカか。何を考えているのか分からない娘だ。全てを真に受ける必要はないだろうが、しかしそれでもあの人外というべき力…最初から今日という日までのことを計算して動いていた節がある。口惜しいことだが、今となってはもはや流れに身を任せるしかないというのが正直な所だ。」

「ラーニーは何か言っていたの?」

「ラーニー様は自らが為すべきことに集中しておられる。件のグリーンゴッドについても機構の疑義申告を受けた英国政府から事実確認の通達が来ている。今日という日が全ての刻限であることも理解して、出来る限り浅い傷で済むように取り計らうつもりだろう。それと…」

「それと?」

 サミュエルはこれからいう言葉をシャーロットに伝えるかどうか少し悩んだ上で言う。

「他におっしゃっていたことといえば、ラーニー様は財団に何かあった時は自分を捨ててでも君に幸せになってほしいと。」

 その言葉を聞いたシャーロットはサミュエルを見据えて毅然とした態度で言った。

「あり得ない。私にとってここは実の家と同じで、ここに関わる人々は皆家族だと思っている。あの時、お義父様とお義母様、ラーニーに受け入れてもらわなければ今の私は存在しなかったの。そして彼は…私の…」

「分かっている。君は見捨てるという選択を絶対にしないだろうとお伝えしたよ。」シャーロットの心を汲んでいるサミュエルは全てを理解した上でそう答えた。


 サミュエルは彼女に頭を下げながら言う。

「シャーロット様。迷うことはありません。ご自身がそうなされたいと思われたことをなされば良いのです。もし、最後などというものがあるとして、そこで大事になるのは “後悔する選択をしなかったかどうか” でしょう。」

 セルフェイス財団の養子となり、財団の親族となった彼女は本来自身が仕えるべき人物に違いない。サミュエルは今このひと時は日々の業務の師としてではなく、本来あるべき忠実な格好で彼女に話し掛けた。

 それはひとえに彼女という人間個人に対しての心からの敬意を表したものでもある。

 シャーロットは少し俯きながら答える。

「ありがとう、サム。貴方は私にとって家族でもあり、務めの上司でもあり、人として尊敬できる人よ。」


 少しばかり目を閉じて呼吸を整え、再度静かに目を開いてシャーロットは言う。

「では、本日の業務に取り掛かりましょう。機構の方々が参られます。イグレシアス様のお迎えの準備をしなければなりません。」

 それは後悔しない選択をしろという言葉に対しての彼女の答えだ。

 サミュエルは言う。「分かった。おそらく姫埜様が彼女をお連れになるだろう。もしくは隊として全員でいらっしゃるかもしれない。どういった形になるかは不透明ではあるが、皆さんの受け入れ準備と案内役は君に一任しよう。私はモラレス氏と話をしなければならないからね。」

「承知しました。では。」

 言葉を交わし終えたシャーロットはサミュエルの隣を通り過ぎて控室の出入り口へと歩く。

 そして静かに扉を開くと、自らの信念に沿った務めを果たす為に廊下へと出て行った。


                 * * *


 夜が明けて朝が来る。ジェイソンは昨日サミュエルに案内されてあてがわれた部屋で一夜を過ごした。

 これほど豪華な建物の室内で過ごしたことは73年という長い人生の中で過去1度しか経験がなかった。最愛だった妻と結婚したときに宿泊した式場のホテルでのことだ。

 とはいえ、今から数十年も昔のことである。現代と比較するとどうしても “当時としては” という言葉が最初についてしまうことになる。そう考えると今の時代まで生きて来てこれほど豪華な施設で一夜を過ごした経験というのは初めてに近い。

 慣れない環境というのは落ち着かないものだ。自宅のどこにでもあるような壁面に囲まれた部屋で過ごす方が自分にとっては快適だ。

 何より…ここには常に “監視の目” の存在がある。


 財団当主に言われて一晩をここで過ごしたが、特に厳しく行動が制限されているわけではない。

 館内を比較的自由に移動することは出来るし、数々の娯楽設備の使用も許可されていた。とはいえ、とてもそのような気分にはなれなかった為近付こうともしなかったのだが。

 部屋には備え付けのコーヒーメーカーなどもあり、おそらくは非常に上質な部類であるのだろう豆も複数種類置かれている。当然、この国ならではと言えるだろう紅茶の種類も豊富で気分転換の飲み物には事欠かない用意がなされている。

 だが、こういったものも先の娯楽設備と同じで気分になれないので手は付けていない。

 昨日から自分がしていたことはただひたすらに過去の記憶を追想することであった。


 妻と出会った時のことや結婚した当時のこと。

 とても短くはあったが共に過ごした日々のこと。

 その最愛だった妻を亡くし、悲嘆にくれた日々のこと。

 寂しさを埋める為に仕事だけに励んで生きてきたこと。


 自分の人生というものを振り返った時、とても短かった幸せな日々だけが充実と呼べるものであり、残りの人生は空虚なものだったと思う。

 いつまでも塞ぎ込んで前向きになれなかった自分の弱さに起因することもあるが、何の目的もなくただ漠然と過ごした日々に意味があったのかと自問自答することもしばしばだった。

 そんな自分の人生の “意味” というものが与えられたのはほんの10年前に遡る。アルビジアとの出会いである。


 どこから来たのか、何をしに来たのか一切素性が不明な少女はあの日、ダンジネス国立自然保護区にただ1人きりで佇んでいた。

 何もかも失ったという表情をして、寂しそうで空虚な目をした彼女の姿はまるきりその頃の自分の姿と重ねられた。

 見て見ぬふりをしようと思ったのに出来なかった。気が付いたら彼女に話しかけ、どこにも行く宛の無さそうだった彼女を自宅へと引き入れていたのだ。まったくもって自分らしさの欠片もない行いである。

 しかし、意味などないように思えた自分の人生に意義というものが芽生えたのはその時だったのだろう。

 レゾンデートル。存在理由、存在意義。自分が何の為に残りの人生を過ごすのかと問われれば、間違いなく “アルビジアの為に” と答える。

 彼女は何もかも失くした抜殻のような自分にとっての光であり、それだけが自分にとってのレゾンデートルの証明となった。


 それからの彼女と過ごした10年というものはかけがえのない時間であった。

 孫娘のような年頃の少女と突然2人で暮らすことになって戸惑いが無かったと言えば丸きりの嘘ではあるが、不思議なことに僅か数日の間で “まるで最初からそうであったかのように” 自然と接し、自然に共に過ごすことが出来た。振り返れば長い年月ではあるがとても短かったような気がする。

 まぶたを閉じればすぐにでも彼女の声が聞こえてきそうなほど身近に感じている。

 当たり前となった存在、生きる目的である存在。


 しかし、そんな彼女との幸福な日々は今日という日をもって終焉を迎えるのかもしれない。

 財団は彼女の引渡しか内務省管轄の入局管理局への通報かの二択を迫っている。

 どちらを選んだとしても今までと同じ生活には戻れない。もし、選択するとすればより彼女にとって幸福に生きられる未来が用意されている方ということになるが…正直に言えば、そのどちらであってもそんな未来には繋がらないような気がしていた。



 ジェイソンが過去の記憶から目下に迫った選択のことについて一人きりの部屋で思考を巡らせていると、唐突にドアをノックする音が響いた。

『モラレス様、朝食をお持ち致しました。』当主付きの筆頭執事、サミュエルだ。

 ジェイソンは椅子から立ち上がり、入口へ向かいゆっくりとドアを開く。そこにはカートで朝食を運んできたサミュエルの姿があった。

「おはようございます。」ジェイソンは言う。

「おはようございます。ドアを開けて頂きありがとうございます。ささ、どうかお座りになってください。テーブルまでお持ちしますので。」サミュエルは昨日と同じように非常に礼儀正しく言った。

 そういった扱いを受けることに慣れていないジェイソンにとっては何から何まで用意されることはかえってもどかしい気持ちになる。

「いえ、ここに置いておいてくださって構いません。」角を立てないように努めて穏やかに言う。しかし、サミュエルから返ってきた言葉は予想とは違うものであった。

 彼は左右の廊下を確認し、周辺に通りがかりのドローンがいないことを確認すると小声で言った。

「わたくしの言う通りにしてください。貴方にお話したいことがございます。アルビジアという件の少女との今後についてのお話でもありますが故。」

 想定外の言葉にジェイソンは戸惑ったが、彼がその立場で意味もなくそんなことを言うとは思えなかった。どういう意図があるにしても話を聞かないわけにはいかないだろう。

「では、お願いします。」ジェイソンはそう言うと室内へ振り返り、先程まで座っていた椅子へと向かう。

 その後に続いてサミュエルも入室し、部屋のドアと鍵を閉めた。

 朝食を乗せたカートを押しながらテーブルまで歩み寄ったサミュエルは、カートからテーブルへと朝食を運ぶ。

 そして一通りテーブルへと並べ終わった後にカートを部屋の隅へ置いてジェイソンへ言った。

「今、この部屋の監視カメラの類は故意に停止してあります。わたくしは貴方とゆっくりお話をしたいと思っておりました。そして、これからお話することは財団としての意思ではなく、単純にわたくし個人の意思に基づくお話です。」

 彼らしさの感じられない振る舞いにかえって酷く警戒していたジェイソンであったが、彼が財団としての立場ではなく個人として話したいという意思を見せたことで警戒を少し緩めた。

「わかりました。聞かせてください。」

 ジェイソンがそう言うとサミュエルはテーブルを挟んで向かい側の椅子へと腰を下ろし言った。

「数時間後に当支部より貴方を連れ出します。」



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る