第10話:家出

 柊が駅ビルの液晶広告を壊し、公園で眠って、帰宅したのは朝方四時だった。

 そっと麗子のアパートの鍵を開けると、部屋の中には誰もいなかった。柊は一瞬、麗子が警察にいるのかと不安になったが、携帯を電源に繋げて確認しても、連絡は入っていなかった。警察沙汰になっていたら連絡があるはずだ。柊は麗子に連絡を取ってみようかと思ったが、麗子の鞄がないのを見て、自分の意思で出かけたのだと思い、とりあえずシャワーを浴びることにした。信じたくはないが、今日は月曜日なのだ。何事もなかったかのように仕事に行かなくてはならない。それに、あまり眠る気にもならなかった。何だかソワソワして、落ち着かなかったからだ。


 そのまま仕事に行った。職場では、またも拷問のような眠気が襲ってきた。加えて、昨日自分が公の設備を破壊してしまったという自責の念に駆られ、意識がある時は憂鬱と不安に耐えなければならなかった。もし弁償を求められたらどうしよう。支払えるお金はない。訴えられたらどうしよう。この会社にいることも出来なくなるかも知れない。また入院を勧められるかもしれない。いやだ、もう二度と入院はしたくない。まずい食事と決まり切った時間と生々しい他人の生活感や狂気と、自分の目に見えない病、呼吸しているだけでその存在を感じる病、それ以外何もない生活。どんどんと思考が悪化して行き、終業時間にはもう顔を上げることも恐ろしいくらい、へばり切ってしまった。

 何とか電車に乗り、アパートに戻って何でもいいから麗子と話がしたかったが、麗子が戻った様子はなかった。柊は一人で自分の敷布団に倒れ込み、マイナスの思考を振り払おうとした。このタイミングまで何も連絡がないのだから、昨日のことが警察沙汰になっていることはないと思っていいのだと、何とか自分を安心させようとした。だが、次は麗子がいなくなった。柊は麗子に「どこ行ったの?」とメールを入れてみたが、返信は一向にない。電話をかけてみても、コール音が鳴るばかりで、留守電にもならない。麗子が花見から帰宅した時の状態からして、彼女を放っておくのは少し不安だった。花見での出来事は柊と全く関係がなかったが、それでもその後麗子を一人にしたことは、柊にも非があるように思えてしまうのだった。悪いことは全て自分のせいだという強い自責の念に駆られ、柊はベッドで一人震えていた。海の潮がどんどん満ちて行くように、躁の後のうつが、柊の心と身体感覚を重たく沈ませて行っていた。


 その夜、柊は夕食も入浴も洗面も着替えもせず眠り、朝を迎えた。起きると、未だに麗子は帰っていない。だがもう仕事に行かなければならない時間で、とりあえず着替えだけしてまた会社に向かった。空腹とあまりの憂鬱さに満員電車で気分が悪くなり、途中下車してベンチでうずくまった。十五分ほど逡巡したのち、上司に欠勤連絡を入れて、アパートに戻った。少し休んだら警察に麗子の捜索願を出そうと決め、バナナを一本食べ、眠りについた。

 起きたらもう夜の七時になっていた。起きて全く体調が変わっていない、つまり絶不調であることにまたも滅入った。ほとんど食べていないのだから気分や体調が良くなるわけがないのだが、今の柊はそのことにも気付くことが出来ず、具合の悪い自分に更に落ち込んでしまい、起き上がる気力もなくなっていた。警察に行ったら自分が捕まってしまうかも知れないとさえ思っていた。芋虫の死骸のように縮こまり、まんじりともせず「気分が悪い」「麗子を捜さなくては」「自分は犯罪者だ」「お金がない」「明日も会社行きたくない」と、ぐるぐる負の思考をめぐらせた。何時間か経った深夜、ドアノブがガチャガチャと乱暴に回る音がして、柊は飛び起きた。

 ドアが開くと、いつもよりケバい化粧で、肩と胸元が露出したミニワンピの麗子が、酒の臭いを漂わせて立っていた。酩酊しきっており、高いヒールの上に乗った細い足首がぐらぐらと、大柄な彼女を支えるのが限界の様子だった。

「麗子」

柊は驚きと少し恐れが混ざった声で、妹の名前を呼んだ。

「なに。もう私、寝るから」

「どこ行ってたんだよ」

「どうでもいいでしょ」

 麗子はチェーンベルトのポシェットをテーブルに置いて、自分のベッドに倒れ込んだ。ポシェットを見ると、長年彼女が欲しがっていたシャネルだった。

「お前、こんな高い鞄どうやって買ったんだよ」

「いーじゃない。もう、うるさいわね。頭痛いんだから、寝かせて」

 柊は麗子が無事帰宅したことに安堵すると同時に、麗子が不健全な、風俗業まがいのことに従事していると直感した。

「麗子。おまえまさか援交して来たんじゃないだろうな」

「えんこうって何よ」

「身体売ってるんじゃないだろうな」

「もう、うるさいわね。寝るって言ってんでしょ」

「ちゃんと答えろよ」

「知らないわよ、関係ないでしょ」

 この雰囲気からして、絶対に行きずりの男と寝てきたことは間違いがなかった。ただGカップの麗子でも、二十九才の素人が二日でシャネルのバッグの額を稼げるわけはない。下手をすると、借金をした可能性もある。マイナス思考のどん底に陥っていた柊の頭には悪いことばかりが頭をよぎった。

「関係あるだろ、姉妹なんだから。朝もいなかったし、仕事行ったのか。変な男とヤッてないだろうな。金目当てのセックスはダメだって、ガキの頃言ったろ」

 メイクも落とさずベッドの上に倒れ込んだ麗子を、ゆさゆさと揺り起こした。麗子は眠ろうとしたが、あまりに柊がしつこいので、柊を引き剥がそうとした。

「どうでもいいでしょ。柊ちゃんに仕事の心配なんかされたくないわよ。柊ちゃんこそ、いきなり消えて。何なのよ。自分ばっかり偉そうな口きいて。離して」

「好きになった男が家庭持ちだったからって、捨て鉢になるなよ。お前、どうなっても知らないぞ。いい加減、男なんかのことで大袈裟に騒ぐのやめろよな」


 柊の言葉に、麗子は目を見開いた。柊は「しまった」と思った。麗子に、言ってはいけないことを言ってしまったのだ。男性を求めることは、麗子の存在に関わる核心だった。父に見捨てられた、幼い麗子。唇をワナワナと震わせ、麗子はかつてない大声で怒鳴った。

「あんたなんかに言われたくないわよ。私がどれだけあんたの面倒見て来たと思ってるのよ、迷惑なのよ、邪魔なのよ。どきなさいよっ」

 麗子は柊の肩を思い切り突き飛ばした。柊は、ゴッ、と、テーブルの角に頭を打った。そしてそのまま自分の敷布団の上に倒れた。麗子はしばらく肩で息をしていたが、テーブルの角に血がついているのを見て、息を飲んだ。

「柊ちゃん」

 声をかけたが返事はない。麗子が柊の様子を見に行こうとすると、柊はピクッと肩を震わせた。そして、その震えが小刻みに何度か起こり、麗子は柊が泣いているのだと分かった。

「柊ちゃん、ごめんなさい……」

 柊は何も言わなかったが、時々うめき声を漏らしていた。麗子はどうしていいか分からなかった。子どもの頃は変えられると信じていたことでも、もう、大人になってしまうとどうにも出来なくなるのだとしばしば思う時があったが、正に今がそうだった。柊も麗子も、どうしようもない。

「ごめんよ」

腹の底から振り絞るような、柊の謝罪。

「こんなのがいて、ごめん」

 柊は躁うつ病になって何度も生まれて来たことを後悔した。自分の存在に対する、全世界への謝罪だった。

「違うのよ柊ちゃん……私こそ、ごめんなさい」

 麗子も疲れ果てていた。出会い系サイトでマッチした暇そうな男と散々飲んで、乱れ切った後だった。

「私なんて、いなきゃ良かったな」

 柊の言葉を、うまく撤回させる気力も湧かない麗子は、ただ、こう続けるしかなかった。

「私もそうよ。生まれなきゃ良かった。もう嫌になっちゃった、自分が」

 二人は世界の終わりではなく、自らの終わりを願っていた。何もかも間違いなのだ。生まれたことが、二人にとって最大の災厄だった。

 自分なんか、いなければいいのに。



 季節は、六月になっていた。気温と湿度が上がり、不安定な気候が続いていた。

 どんよりと雲が立ちこめるその日、要は学校が終わると、そのまま塾に向かった。授業が始まるまで二時間以上あったが、家に帰りたくなかったのだ。予めテキストは持ってきていたので、自習室で過ごすことにした。

 下級生の授業が終わり、要は教室に移動しようとした。椅子から立ち上がると、同時に強い痛みが頭を貫いた。

「いっ……」

 あまりの痛さに身動きが取れず、立ち上がりかけた姿勢から微動だに出来なかった。どのくらいそうしていたか分からなかったが、覗きに来た先生が要を見つけて声をかけてくれた。要はゆっくり先生にもたれ掛かり、使っていない部屋の古ぼけたソファーで休ませてもらうことにした。

「いつから痛いの」

「分かんないです……。今急に強く痛くなったけど、こないだからぼんやり痛かったので」

「病院は行った?薬とか飲んでないの」

「行ってないです」

「あんまり痛かったら、保護者の方に電話して、お休みしますって連絡するよ」

 最近、家の中は非常に険悪なムードになっていた。優一と京子が居るときは常に、お互いの仕事や家庭に対する姿勢への非難が吐き出されていた。

 頭痛はいつから発生していたかもよく分からないようなぼんやりとしたものだったので、要はいつ切り出したものか、タイミングを失っていた。すぐに消えるだろうと思っていたのだが、どうも家の中が険悪になるに連れ、彼女の頭痛も悪化して行った。ただでさえ機嫌の悪い京子に「具合が悪い」と伝えるのは、何だか気が引けた。まるで親が原因だとでも言いたいのか、と思われたくなかったのだ。具合が悪いのを両親のせいにするのは、彼らとのつながりを認めるようで、あまりしたくないことだった。

「大丈夫です。休んでれば治まると思います」

「そう、でも一応心配だから、帰りは迎えに来てくださいって先生の方から連絡しておくね」

 それが良案かどうか決めあぐねている間に、先生は事務室に戻ってしまった。とにかく頭全体が締め付けられて後頭部がズキズキと脈打つようで、要は痛みを知覚している脳味噌のスイッチを止めるように目を閉じた。


 チャイムが鳴って、目が覚めた。さっきより痛みは治まっていたが、ちょっと刺激を与えれば、黒い絵の具が一瞬で他の色を濁すように、痛みは広がるだろうと思われた。外を見ると、今にも雨が降り出しそうだった。父と母のことを思った。そして、授業に出ることを決めた。

 授業はノートを取ることで精一杯だった。というより、ノートを取ることで痛みから気を紛らわしているくらいだった。他の生徒が張り切って発言する声が頭の中で反響して、脳髄液がひどく濁っているような感覚で、気持ち悪くもなっていた。小学生が密集している学習塾はただでさえ温度が非常に高く、除湿も効いていなかった。それでも要は何とか、授業を終えた。これさえ終われば、とりあえず誰にも文句は言われないと思ったからだ。

 夜八時前に授業は終わった。この時要は、自分が甘えていたことを思い知った。授業さえ終われば、スムーズに帰れると思っていたのだ。しかし、優一も京子も迎えに来れないとメールが入っていた。それも各「迎えに行けないのでパパに(ママに)来てもらって」と書いてあるのだ。雨は土砂降りになっていた。要はとりあえずトイレに行き、吐いた。頭痛で吐くのは初めてだったが、俯くと余計頭痛が酷くなるので、もう自分の肉体が何を求めているのか、全く分からなかった。トイレから出ると、さっきの先生が要を見つけた。ご両親とも留守電だったけど大丈夫だったか、と聞かれ、来れないそうですと告げると、帰りをタクシーで付き添おうかと言ってくれた。手持ちのお金も足りないかも知れないし、もうそんなに痛くないから大丈夫です、と言って塾を後にした。勿論それは嘘だった。一歩進む度に、血管がちぎれそうな痛みが走った。


 この時、なぜ先生に頼ろうと思わなかったのか、要自身にもはっきりとは分からなかったが、多分これは一種のなげやりさ、自傷だった。

「あいつらが迎えに来ると思った私が馬鹿だった」


 塾から出ると風も強く吹いていた。折りたたみ傘でしのいだが、三分と保たず壊れた。惰弱な傘だった。

 ただでさえビル風の強いタワーマンション群の狭間で、小さな要の身体は飛ばされないために必死で力を入れていなければならなかった。自らの脳味噌を締め付け胃液を逆流させる圧力に耐えながら、要は決意した。

「家出しよう」

 要は実際にそう呟いた。そして泣いていた。そんなこと、土砂降りの夜の豊洲では、誰も気付かなかった。


 梅雨が明け、要の小学校は夏休みに入ろうとしていた。終業式の日、優一はまたも出張中で、京子も会議で朝早く家を出る日だった。決行するなら、この日である。プレミアムフライデーとやら、京子もどこかで男と会ってから帰るだろうから、失踪の発覚も遅れるだろう。

 前日の晩、要はタワーマンションの自室からの景色を眺めた。

「ここともさよならだね、レイダー」

 要は共に家を出る相棒と点検をしながら、荷物を詰めた。大した量はなかった。いくらかの替えの服、携帯の充電器ふたつ、お小遣い全部、母の財布から抜いた現金で上限いっぱいまでチャージした交通系カード、京子が要名義でお年玉などを入金していた通帳とキャッシュカードと印鑑。それ以外には、レイダーと同じくらい古くから要の手元にある『ピーター・パンとウェンディ』の文庫本。友里とやりとりした手紙や今の学校の転入した時にもらった歓迎の色紙に遠足の写真、オール五を取ったときに重森先生が丁寧にコメントを書いてくれた時の通信簿……これらは替えのきかない宝物だった。優一や京子からもらったのは、衣類と金銭だけだった。

 だが、それも非常に大切なものだ、生きていく上で。万札をいくらかくすねた時、罪悪感の代わりに、「お金がある親でありがたいな」と、漠然と感謝の念が湧いた。


 決行の朝、要はパンやお菓子を出来るだけナイロンの折りたたみバッグに詰め込んで、家を出た。その後、いつも京子の朝食を埋めていた屋上庭園に水を撒きに行った。

「今日はご飯はあげられないんだ。もう会えない。ごめんね」

 要はゴーヤや紫陽花に別れを告げた。彼らは要の親に対する気持ちを知っていた数少ない仲間であり、食を共にした家族だった。自宅のドアを出る時には何の感慨も湧かなかったが、朝日に揺れる緑を見ていると涙が一筋流れた。だが目を腫らしたら学校で怪しまれると思い、ぐっと堪えた。

 早目にマンションを出て豊洲駅のロッカーに荷物を預け、そこから通学した。何事もないかのように教室で過ごす。先生や友だちとの別れは惜しいが、あの家に戻されてしまうから何も言えなかった。自分は行方不明者として扱われるのだろう。要は自分が居なくなった後のクラスを想像しても、何の感情も湧かなかった。現に、クラスのムードメーカーだった友里が居なくたって、一時の寂しさはあれど、今や何の支障もなく人の時は過ぎていくのだから。

 要はそれをある種の「頼もしさ」と受け取った。自分がいなくなっても何も変わらないことは悲劇ではなく、現実というものの「頼りがい」だった。自分一人が消えたところで何も変わらないセカイとやらにメソメソしたり投げやりになったりするのは、樹齢何千年もの巨木をカッターで切り倒そうとする愚かさと同じで、現実世界とはたくましく厚かましいものなのだ。だったら、その懐の大きさに甘えようじゃないか。多少騒ぎにはなろうが、それも一瞬のことだ。要はある種の大らかさをもって、豊洲での小学校生活最終日を過ごした。


 他の子達と途中まで一緒に下校し、完全に一人になったところで、公園のベンチに座った。携帯を取り出す。午後一時。ここがまず第一関門だ。これがダメだったら、行き先を新しく考えなければならなくなる。非通知で発信。

 コール音が続く。しばらくして、留守番電話になった。何度かかけたが留守電のままだった。プランB。とりあえず持っていた菓子パンを食べ、塾の自習室で時間をつぶすことにした。

 夕方五時を回ると塾の中が混んできたので、要は一旦外に出て、また非通知で電話をかけた。つながって欲しい。だが、まだ出なかった。夜になるにつれ、子どもが一人でいられる場所は限られてくる。とりあえず塾に戻り、また自習することにした。先生が声をかけてきたが、前回のテストが悪いから勉強して来いって言われました、と答えた。即興での嘘がどんどん上手くなって行っているとの評価をレイダーから貰った。なんだっけ、これ、ママがよく言ってる言葉。ああそうそう、フィードバック。

  夜八時半になった。まだ京子は帰ってきてないだろうが、もうこれ以上外をウロウロすることは出来ない。要はまた電話をするために外に出た。空を見上げると、星が出ていた。右から二番目の星を見つけ、ぎゅっと目をつぶってから、「つながりますように」と祈って、三度目の発信をした。


プルルルルルルル。出て、出て。

プルルルルルルル。出て。もうだめなんだ。

プルルルルルルル。もうあんな家にはいられない。

プルルルルルルル。あんな最低なとこ、いちゃいけないんだ。

プルルルルルルル。あんな最低な親、親じゃないんだ。

プルルルルルルル。分かってくれるはず、お姉ちゃん達なら。

コール音が止まった。


「もしもし」

「御手洗柊さん、柊お姉ちゃんですか。私、飯田要です」

 勢い良く言い終わると、受話器の向こうも慌ただしくゴソゴソと鳴った。

「ああ、要さんかっ。どうした」

 塾で会話を誰かに聞かれてはまずいと、要はとりあえず豊洲駅に移動を始めた。

「出てくれてありがとうございます。あの、電話したの、大丈夫ですか」

「困ったときは電話しろって言っただろ、いつでも大丈夫だよ。昼間かけてくれてたの要さんだったんだね。出れなくてごめんね。何があった」

 柊の真摯な声に、要はとりあえずホッと息をついた。そして本題を切り出した。

「家に帰りたくないんです。お姉ちゃんのところに行ってもいいですか」

 しばしの沈黙。要は断られるかと、ゴクリと唾を飲んだ。親元に帰されたくない。それについては、一生懸命説明するつもりだった。

「遂に来たか。その時が」

 柊の言葉は、まるで家出を予期していたかのようだと思ったが、要も要で、お姉ちゃんなら分かってくれると思っていたから、通じていたことだけでも、大分緊張が解けた。柊は真剣な口振りで話を続けた。

「えーっとね……まず、要さん、いまどこ」

「豊洲駅です」

「ごめん、ちょっと待ってね」

またゴソゴソと音がした。そして再び柊の声。

「今すぐ迎えに行きたいんだけど、私今、豊洲駅までの電車賃がない……今日麗子が帰ってくれば、相談するんだけど……」

 親元に戻されることは想定していたが、迎えに来て貰うことや、まして三十才を越えた大人に「電車賃がない」と告げられることは、要の予想外だったので、少し面食らった。

「私、たくさんチャージあるよ。お姉ちゃんの家の最寄り駅まで行ける」

「いや、でも要さん一人でこっちまで来させられないよ。四十五分くらいはかかるもの。夜一人で電車乗ったことあるの」

「ない。でも、もう帰りたくないんです」

 柊は迷った。だがここで断って、変な所に行ってしまわれるより、来て貰う方が安心かも知れないと思った。柊の中には、家出の意志がある要を親元に帰すという選択肢だけはなかった。他の家の子なら返しただろう。だが、彼女の親は京子なのだ。生まれた時点で最悪のカードを配られたことは身を以て知っていた。

「ねえ、もう一人のお姉ちゃん、麗子に確認するから、その間もうちょっとだけ待っててもらえるかな。電話はこのまま」

「分かりました」

 柊は急いでパソコンから麗子の通話アプリに発信した。だが、一向に出ない。

「麗子の奴、電話に出ない。うーん……どうしても帰りたくないの、どうしたの」

「あの家はいやなんです」

「飯田さんとお母さん、良くしてくれないの。要さんには優しくしてくれてるのかと思っていたよ」

「学校も塾もがんばれる。でも、家には帰りたくない。あんなところにいたって、意味ないよ」

「要さん」

「パパは『お父さん』になりたかっただけだから、私の中身はどうでもいいんです。ママは基本的にはママのことしか考えてなくて。多分だけど、不倫もしてる。だから、もういいかな、って。お姉ちゃん達なら、分かってくれるかもって。普通なら、親のところに居ろって言うけど、お姉ちゃん達なら絶対分かってくれるって信じてるんです。私が家にいて、どれだけ辛いか」

 告発する要の声に弱々しさはなく、固い決意だけがあった。柊は怒りと悲しみで身体が震え上がった。飯田は何となくクソ野郎だと思っていたが、それはあくまで柊の個人的感情であって、要の父親としては上手くやっているのだと認識していたから、「父親になりたかっただけ」という言葉は柊の憤りをひどく掻き立てた。そして京子。あの女。金を稼ぐことには長けているが、親になる資格のないファッキンビッチ。今この場で要にかける言葉も見つからなかった。

「分かった。話は後でじっくり聞きたい。経路検索で、お、ぎ、く、ぼ駅って入れて、ルート探して、なるべく乗り換えが少ないやつで来なよ。駅員とか警官に見つかると声かけられて事情聞かれるから、なるべく目立たないように、ちょっと急ぎ足で。駅まで迎えに行くから。着く十五分前くらいに、発信だけすること。すぐメッセージを返すから」

「うん。ちゃんとやる。ありがとう、お姉ちゃん」

 柊の口調は、要にとって秘密任務を遂行する上官の命令のように聞こえた。要は誇り高い気持ちにさえなった。

「でも、本当に後悔はないの。要さんが親から逃げたいっていう気持ち、よく分かるし、絶対に要さんに内緒であのクソ親共に連絡したりなんかしない。約束する。でも、私は飯田さんやお母さんと比べ物にないくらい、めちゃくちゃ貧乏な暮らしをしてるし、そもそも私は麗子の家に居候させてもらってるから、麗子が何て言うか分からないけど」

 任務開始直前の、最後の覚悟の確認。要の答えは決まっていた。

「もう、戻らない。決めたの。私は一人で生きていく。でも、そのために、ちょっとだけお姉ちゃん達の力が借りたい」

 柊は年の離れた少女の決意に、切なさと愛おしさで胸が熱くなった。苦労をしてきたのだろう。自分が子どもだったら、こんな風に振る舞えるだろうか。

「よし、分かった。全力で支援する。支援ってことのほどが出来るか謎だけど。あと……」

「なに。何でも大丈夫だよ」

「今うち相当荒れてるから、そこは覚悟してほしい。散らかってるという意味だけじゃなくて……麗子がグレちゃってね。要さんには優しくしてくれると思うけど。私も調子があんまりよくなくて、ボロボロなんだ」

「分かった」

「ごめんよ。じゃ、また後で。荻窪駅だよ。くれぐれも気をつけるんだよ。変質者が現れたりしたら、即駅員さんのとこに行きなよ。家出はいつだって出来るんだから。何より、要ちゃんの無事が一番大事なんだよ」

 要は唇をぐっと結んだ。「大事にしてもらっている」という感覚は、長らく要が家族から与えられていないものだったのだ。

「お姉ちゃん」

「ん」

「ありがとう。柊お姉ちゃんがお姉ちゃんがよかったよ」

 電話が切れた。感傷に浸っている時間はない。作戦開始。

 柊は布団から起きあがり、周囲を見回した。脱ぎ散らかした衣類とゴミと布団で埋め尽くされた六畳半の1Kの部屋。幼い妹の頼みを引き受けたはいいものの、実際、自分と麗子が助けになれるとは到底思えなかった。


 柊が机に頭を打った喧嘩をしてから、彼女は会社を休みがちになり、試用期間満了と共に契約を打ち切られた。それもそうで、仕事の単調さと麗子との喧嘩からうつ症状が悪化して出勤率が五十パーセントを切っていたからだった。今は日雇いの派遣バイトを単発で入れているが、日雇いの多くを占める倉庫の仕訳バイトなんかはガラの悪い連中が多く、なるべく働きたくなかった。かと言って、定期バイトが出来るほど健康ではなかった。入浴して服を着て決められた時間に出るということが、現在の柊にとっては非常な重荷であった。朝だろうが夜だろうが、決められた時間に行くことが出来ず、結局辞めてしまう。ほぼニート状態だった。

 一方麗子はそんな柊を家に居させはしたが、ほとんど外泊生活だった。昼間の派遣はいつクビになってもいいくらいの投げやりな態度で出勤し、中途半端なSMバーに入り浸って、一晩中過ごしてくれる相手を探しているようだった。体力が切れたらたまにアパートに帰ってきて爆睡して、またどっちかに向かう。御手洗姉妹はろくに口も利かずに、それぞれが破滅の道を歩みつつあった。

 昼間柊が電話に出られなかったのも、仕事ではなくうつから逃避するために眠っていたからだったが、要からの連絡を受けた柊は即座に彼女を助けることに決めたし、久しぶりにはっきりとした思考を手に入れた。

 うつで死にたい、価値がない自分。だが、そんな自分にさえ、助けを求めてきた子どもがいる。クソ親の元で苦しんでいる子だ。守らねばならない。なぜなら、ここで彼女を助けなければ、また自分や麗子のような「家族に縛られた出来損ない」の血を継がせることになりかねないからだ。このままでは要は壊れてしまうかもしれない。この血脈は断たねばならない。精神的な孤児をこれ以上増やすわけにはいかない。これが柊への天啓、いや、血と人格の狭間で生まれた強烈な義務感だった。


 柊は五日ぶりにシャワーを浴び、部屋の掃除をしながら、麗子に着信を入れまくった。まだ九時前だから、本格的な「仕事」に入る前だろうと、とにかく鳴らしまくった。麗子はもう大人だ。その身体をどう使おうと、もう柊の知ったことではない。だが、子どもは、要は違うのだ。自分達は「助けてもらえなかった」結果、このザマだ。躁うつの姉と軽い性依存の妹。でも要には、親の存在をトラウマにすることなく、きちんとした人生を歩んでほしい。だが、柊一人では要を助けることが出来ない。ここはどうしても御手洗姉妹の団結が必要だった。要をホッとさせてやりたい。自分達だって、このままじゃダメなことは分かってる。その一心で、麗子に連絡を取った。なかなか繋がらず、麗子に内緒で突き止めていたバーの連絡先に電話しようかと思ったところ、ようやく麗子が折り返してきた。がやがやと喧噪が聞こえるから、多分まだホテルには行っていない。

「柊ちゃん、今忙しいのよ。何度もなに」

「麗子、聞いてくれ。要さんが家出をした。うちに向かってる」

「えっ。今向かっているの。だって、要ちゃんちは豊洲でしょう」

「そうだよ。でも、イヤでたまらなくなって出てきたみたいだ。私達ならあのクソな親元に帰さないだろうって、信頼して電話くれたんだよ。あのクソ女、不倫してるって、要さんが言ってた。まだそんなことやってんのかって、もう許せなくて」

「うそ」

 麗子はしばし言葉を失った。京子は五十を過ぎていて、要はまだ小学生のはずだ。それなのに……怒りと同時に、焦燥感が湧いた。それは麗子の心にも「子どもを保護しなければ」という本能にも近い義務感があることを示していた。なぜなら家出をした少女は、自分と同じ母親を持つ子どもなのだから。気持ちは痛いほど分かる。自分だって一人っ子だったら、家出をしただろう。でも、そうしなかった。常に姉がいたから。そして……麗子はこのときふっと気付いた。


 私、あの家にいたのは、ずっとお父さんを待ってたのね。

 でも、帰って来なかった。

 それでずっと、柊ちゃんと一緒に居た……今も。


 柊が話を続けた。

「父親もろくに要さんのことを見てないらしい。干渉はするけど、心を無視されてるって感じだった。金がある家でも、要さんにとっては辛いみたいだ。一応うちの状況は話したけど、ここは麗子が借りてるアパートだし、連絡しとかなきゃって。私一人じゃ要さんを助けられないから」

 麗子はある女性特有の切り替えの早さを見せた。

「良いのよ。あの女のそばにいて、ろくなことになるわけない。いくら向かう先が私達のところでも、あれの股から産まれちゃった瞬間に、家出した方がマシ。あの女に比べたら私なんて性根からして淫売に向いてないってこと、よく分かった。要ちゃんを匿ってあげましょう。柊ちゃんも、具合が悪い中ありがとう」

 落ち着き払った声は、母への憎悪が積み重なり、もはや一切の熱も消えた絶対零度の冷酷さが生む判断力によるものだった。憎しみが麗子を冷酷で理性的にする。これは柊にはないものだった。

「お部屋のお掃除、お願いね。寝床を一つ作ってあげなくちゃ。私も今から一時間半くらいで帰るわ」

 電話を切った柊は、自分が麗子の貞操を守り叱った中学時代から、今や自分を居候させてくれることに、感慨と情けなさで胸の詰まる思いだった。

 私は何をしているんだ。根拠も捉えようもない憂鬱に苛まれて、妹が自分自身の幸せから遠ざかっているのを見過ごし、怠惰な日々を送っているだけだったなんて。


 久しぶりの掃除で三十リットルのゴミ袋が六袋ほどパンパンになった頃、柊の携帯に着信が入った。無事に移動できているということだ。即メッセージを返す。

『北口改札の前で』

 間を置かず来る返信。

『はい!』

 柊はジャージの上にアメコミTシャツを被り、ゴミ袋を抱えて家を出た。久しぶりに晴れた六月の夜。収集所にゴミ袋を下ろして顔を上げると、星座も夏の近づきを告げていた。長らく暗雲立ちこめていた柊の心に湧く高揚感。夜の晴天は大好きだ。星空の日に子どもが家を抜け出す手伝いをするなんて、まるでピータ・ーパンだ。私にぴったりじゃないか。親なしの「迷子たち」を率いるのはこの御手洗柊。妖精の粉さえあれば空だって飛べる。深呼吸して、駅まで駆けだした。


 ぜいぜいと気管支まで枯らして北口の階段を下りると、改札の真ん前に大きな荷物を持った少女がぽつんと立っていた。

 「小さい!」柊はとっさにそう思った。小柄で細身の要は、リュックを前側にして、ナイロンの手提げバッグを両手に、不安げに周囲を伺っている。その姿に、ここまでの道のり、ひいてはこれまでの人生、いかほどに心細かったろうと、たまりかねた思いが口からほとばしった。

「要!」

 ぱっと振り向いた顔は、安堵、希望、解放、そして、純粋な再会の喜び。

「お姉ちゃん!」

 走って抱きしめてやると、見た目より更に華奢で、一層可哀そうで、遂に目から涙がこぼれた。

「良く来たね。怖くなかったか。もう大丈夫だからな」

「うん。電車間違えそうになったり、駅員さんと目が合ったりしたけど、一人で来れたよ」

 ようやく荷物を離した要の小さな手は真っ赤になっていた。柊は要のリュックを下ろしてやり、自分に似たもさもさの髪をぽんぽんと撫でてやった。

「よくやった。大きな任務をこなしたな」

 要はようやく存在を認められたような気がした。自分は間違ってなかったのだと、自分を理解してくれる人がいるのだと、産まれて初めて遠慮せずに確信を持てた。

「お姉ちゃんも、ようやく要って、呼んでくれたね」

 要は薄手のカーディガンの袖でごしごしと目を擦った。

「もう、妹だからな。本当の妹だから」

再びハグ。初めてファミレスで会った時、要が直感的に感じていたことは正しかった。この人は、私の味方なんだ……。

「ありがとう、柊お姉ちゃん」

「それ言いづらくないか、柊ねえ、とかでいいよ」

 要はピコーンと音が鳴るような笑顔を浮かべ、「柊ねえ」と言い直した。

 柊の携帯に着信が入った。麗子が新宿を出たそうで、そのまま改札で合流することにした。二人は要が持ってきたお菓子を食べながら、近況を語り合った。

「柊ねえ、通話で見た時より具合が悪そうだけど、大丈夫」

「どっちかって言うと、最初に会った時の方に近いかなあ。覚えてるか」

「覚えてるよ。入院してたんでしょ、あのとき」

「うん。心の病気でね」

「精神障がいって、本で読んだけど、それなの」

「そうだよ。要はホント賢いなあ」

「麗子ねえちゃんは最近どうしてるの」

「あいつは服も化粧もますますケバくなって、完全に暗黒面に堕ちた。ん、あれ……」

 ちょうど電車が到着したのか、改札の奥にこけし頭が見える。なぜか晴れやかな表情、というかメイクをすっかり落としていた。

「麗子ねーちゃーん」

 要がつま先立ちで手を振る。ヒール含め身長一八〇近い麗子が、あらあら、と言わんばかりの笑顔をほころばせて改札を通る。柊は、こんなに穏やかな麗子の顔を見たのは久しぶりだった。

 スカートの丈も気にせず、しゃがんで要に視線を合わせて、麗子は外傷がないか確認するかのように要の身体をさすった。

「要ちゃん、よく来たわね。怖かったでしょう。もう、柊ちゃんが迎えに行けなかったものだから。ごめんなさいね。すっかり大きくなって」

 頭と頬を撫でると、要はくすぐったそうに笑った。

「いやあ要はちっちゃいぞ。なのにこんな重い荷物持って、我々を信じて来てくれたんだ」

 柊は要のリュックとナイロンバックを肩にかけた。

「やだ柊ちゃん、口の端にチョコが付いてるわよ。しょうがないわねえ。お腹、減ってるでしょう。家には何もないから……要ちゃん、何か食べたいものある」

「ファミレスに行きたいっ」

 要を真ん中に、柊と麗子と手をつないでファミレスに向かう。

「あ、要、携帯のGPSは切ってあるかい」

 思い付いて聞いた柊に、要は立ち止まって携帯を出した。

「オフにしてる。あっ、ちょっと待って」

 要はその場で携帯を地面に叩きつけると、そばのコンビニまで走って残骸をゴミ箱に投げ入れた。

「一度やってみたかったんだ。海外ドラマだと、もっとスムーズにやるんだよ。歩きながらゴミ箱は見ないで、スッって投げ入れるの。壊したのは念押しだよ」

 嬉々とした表情で語る要に、柊は万感の思いを込めて、呟いた。

「良くやった。さすがだ。私でさえ、携帯の使い捨てはやったことない」

 へへっと笑って、ファミレスの明かりに向かって歩き始める要。麗子は柊の腕に触れた。

「本当に、柊ちゃんの妹ね」

「つまり、麗子の妹でもある」

 柊はグズっと鼻を鳴らした。何でこんなに泣けてくるのか、彼女自身も分からなかった。

「素敵じゃない、三姉妹。まあどっちかと言えば私が泪さんだけど」

「よく言うよ。すっぴんで帰ってきて」

「仕方なかったのよ、飲み込みきれなくて顔が汚れちゃって」

「ねえ、泪さんって誰、有名人なの。何が飲み込めきれなかったの」

 際どいところで、要が素朴な質問を投げかけた。柊は涙でかぴかぴする顔をくしゃくしゃにして、声を上げて笑った。釣られて、麗子も吹き出した。柊は要の頭をポンポンと叩いた。

「要には教えなきゃいけないことがたくさんあるな。そうだ、相棒は」

要はぴょんと柊の背中まで飛び跳ねて、そこから茶色いくまのぬいぐるみを引きずり出した。

「レイダーももちろん一緒だよ。ずっと一緒なんだよ」

「そうか。レイダー、よくやってくれた。要を守ってくれてたんだな」

「ねえ、お姉ちゃん達、レイダーのこと知ってるの」

「柊ちゃんが子どもの頃、とっても大事にしていたくまさんよ。さ、積もる話はご飯食べながらにしましょ。さっきから柊ちゃんのお腹の音がうるさくて、外だと恥ずかしいのよ」

「しょうがないだろ、動いたのが久しぶりなんだから。よし、食べるぞっ」

 柊と麗子の手にぶら下がって、ファミレスの階段を一段ごとにひょいひょいと上げてもらう要の心は、生まれて初めて感じるぬくもりに触れていた。

 今この瞬間、歪で、ガタガタの継接ぎながらも「家庭」が生まれていた。血の濃さでも、一緒にいた時間の長さでもない。例えようもない、馴れ馴れしいほどの安心感。友里の家にあって「うち」になかったもの。これこそが要が求めていた「家族」だった。

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