こうして古の都は平安に眠る

蛙鳴未明

序幕 ヨイ

 眠りについた古の都。月明かりに照らされて、青く夢幻に妖しく染まるそのさまは、さながら水底の瑠璃のよう。四方に手を伸ばすそのかたちは、横たわった巨人のようにも見えた。


 水底に横たわる瑠璃の巨人。その腹の辺りを素早く動く黒い影。人の形をしているが、人かどうかは分からない。菅笠を深く被ったその者は、ちょっとした散歩のような足取りでありながら、まるで隼のような速さで移動している。奇妙に引き伸ばされた街並みを背に、ソレは都の大動脈、朱雀大路を曲がり曲がって――都の毛細血管とでもいおうか――無数に張り巡らされた小路の網をするするすると縫うように滑っていく。


 ひたり、とソレは足を止める。引き伸ばされた背景がぐうぬりと引き戻された。菅笠はゆるりと辺りを見回す。


「こっちです、こっち」


 声の方では一人の娘が小さな木戸より身を乗り出し、菅笠に向かってしきりに手招きしている。菅笠は滑るように娘の所へ。娘はちょっと怯えるように菅笠の中を見上げた。きりりと引き締められた唇の向こう、影の中に光る二点。


「あの……兵衛殿ひょうえどの、ですか?」


 二点がちらりと下を向く。娘の背筋に悪寒が走り、彼女の体から力が抜ける。危うく尻もちを着きかけた彼女を支え、兵衛殿とやらは木戸の向こうを眺めて言った。


「……ヒト、で良い」

「は……ヒト?」

「ああ。それが嫌なら狗とでも狸とでも好きなように呼ぶが良い」


 彼は呆気に取られる娘を助け起こす。


「案内してくれないか」


 あ、はい。と気の抜けた返事をして、娘は木戸の中へ。草の中、踏み固められた土をまた踏み、渡殿へと上がりかけて我に返ったように振り向く。


「あの、兵衛殿、笠……」


 結局彼女は兵衛殿と呼ぶことにしたらしい。呼ばれた方は菅笠をさらに深く引き下げた。


「少々支障がある」


 さっきの二点を思い出したか、娘はぶるりと体を震わすと、灯りを取ってそそくさと渡殿に上がる。双方無言で渡殿を進んでいく。


「……どうしてヒトなんですか?」


 娘が沈黙を破る。兵衛は軽くうつむいた。


「……そう決めたからだ」

「なんでそう決めたんですか?」

「……知ってどうなる」

「だって気になるじゃないですか」


 小さなため息がふわり舞う。


「お前、嫁に行き遅れるぞ」

「……もうとっくに行き遅れてます」


 不機嫌な声。渡殿を過ぎ、寝殿へ。暗闇の中、橙色の暖かい光が御簾より漏れて揺らめいている。娘が光の手前で跪く。


「奥様、兵衛殿がいらっしゃいました」

「ありがとう小菅。兵衛殿、こちらへ……」


 か細くも美しい、カゲロウのような声である。兵衛は御簾の前、光の中まで進み出て、一礼。


「お呼びに与り参上つかまつりました、兵衛でございます。なんなりとご命じくださいませ」

 ゆっくりと、値踏みするような目が彼をなぞる。

上人しょうにんは良き人を紹介してくれた……まこと、なんなりとやりそうな男よの」


 柔らかな笑い声。兵衛は動じず言葉を紡ぐ。


「されど我が剣、人を斬るようには出来ておりませぬ。その由、お心に留めおかれますよう、お願い致します」

「分かっておる……」


 気だるげに扇が揺らめいた。扇の陰より零れたる顔は、御簾の向こうからでも美貌と分かるほどのもの。白粉に透ける大きな隈も気にならない。そのふっくらとした口の端が動く。


「お主が斬るのは人では無い。鬼じゃ」

「分かっておりました」


 ほとんど間は開かなかった。奥方は首を傾げる。


「なにゆえ」

「それ以外に私を使う者など居ないもので」


 小さな笑いはすぐ消えて、そうよの、と哀しげなため息。


「もはやこの都も平安とは言えぬ……戦、戦、戦……跋扈するのは鬼ばかり、人の業ばかりよ……」


 ジジ、と燭台が泣くのを、奥方はゆるりと見つめる。


「それでもわらわはこの都が好きじゃ。何が起ころうとも耐えて耐えて、また平安になるのを待とうと思うておったが……此度のことばかりは……」


 奥方の目が陰に沈む。憂いそのものかのような、長い、長いため息。兵衛はたまりかねたように体を起こした。


「何があったのか、お聞かせ願いたい。長い前置きはいりませぬ。その憂い、鬼もろとも断ち切って差しあげましょう」

 奥方の口が、わずかながら綻んだようだった。


 ※ ※ ※


 始まりは一月前、と奥方は言った。朝起きたら女官が一人消えていた。家の者総出で朝から晩まで池の中から屋根の上まで探してみたが、髪の毛一本見つからず、その日は諦めて床に着いた。

 女官達はきっと彼女は駆け落ちでもしたに違いないなどと噂していて、確かにそれくらいでしか人が消えるなどという事は考えられないのだが、奥方はどうもそうとは思えなかった。

 彼女は常々、奥方の世話以外には興味を示さなかったからだ。何となく胸騒ぎを覚えながら眠れぬ夜を過ごし、やってきた次の日、女官がまた一人、消えていた。

 腕一本だけを残して。


 その日の内に、八人いた女官は二人になった。そしてまた夜が明けて、女官は小菅一人になった。新しく数人女官を雇い、武人も呼んで防備を固めたが、功を奏せず女官達は一夜に一人づついなくなっていった。呼びよせた陰陽師はこれを鬼の仕業だと言って、私が退治して見せるとずいぶん意気込んでいたが、一晩続いた嵐の後、彼もまた居なくなっていた。


「……それ以来鬼は見境をというものを知らなくなった。今まで女官しか狙っていなかったのが、武人、出入りの商人、奴婢ぬひ、庭師、挙句の果てにはわらわの猫まで……」


 法師、祈祷師、まじない師、いずれもどうする事も出来ず鬼に喰われてしまった。困り果てた奥方は唐土もろこし帰りだという上人に相談に行き――


「……今に至る、と」


 奥方は静かにうなずいた。長い黒髪は火を映さず揺れる。


「人を呼ぶ金も尽きた。もはやお主だけが頼りじゃ……もしお主が仕損じたその時は……」


 奥方の目が黒い瓶に飛んだ。


「奥方様っ!」


 小菅が身を乗り出し影が揺らめく。


「その時は……私もご一緒いたします」


 押し殺したような声に奥方の眼が和らいだ。


「ええ、ありがとう小菅。でもわらわはそうならぬように兵衛殿を呼んだのだから、そう思いつめた顔をするでない。」


 はい、と小さな声を立てて小菅はうつむいた。奥方はもう一度、兵衛を見つめた。


「……よろしく、よろしく頼む」


 いっそうか細い声だった。兵衛は光る二点を地に向けて朗々、


「必ずや、朝日を御覧に入れましょう」


 扇の影の下、奥方の口が綻んだ。


 ※ ※ ※

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