【魔女の世界――過ぎ去りし過去、選択の先】

【魔女の世界――過ぎ去りし過去、選択の先】①

 また、今日が終わる。何度目かの一九八一年、六月十五日。

「……綺麗な空ね」

 スライドドアが開けられた白い車の中で、倒した後部座席の上に腰かけた咲子は、空を見上げてそう言った。彼女の膝の上には、死体となった秋仁の頭が乗せられている。

 咲子が見上げているのは、藍色の空に浮かぶ満天の星たち。この星空を見るのは、もう何回目だっただろうと咲子は思う。

「……きっと、とうに手足の指の数は越えたわね」

 一人で呟く。無論、返事などは返ってこない。咲子は一人で、ふふ、と笑いながら、冷たくなった秋仁の頬を撫でた。とうに彼は冷たく、指で頬をつついても起きる様子はない。彼が生きていたら、

「もう、くすぐったいよ咲ちゃん」

 と、笑いながら言ったのだろうか。それとも、

「なあに? どうしたの?」

 と、聞き返してきたのだろうか。その答えが分かる時は、もう永遠に訪れない。ここには未来もなく現実もなく、あるのはただ、かつてあった過去なのだから。

 咲子は、スカートのポケットから抜き身の包丁を取り出した。それを当たり前に逆手さかてに持ち、刃先を自分の喉元へ向ける。

 さあ、ここでの彼はもう死んだ。次の世界でまた、生きている彼に会いに行こう。死にさえすれば何度でも、生きている彼に会えるのだから。たとえ当時のやり取りや行動を繰り返す存在だとしても、自分が死ねば、何度でも生きている彼に会えるのだ。

 咲子は躊躇いなく、包丁の切っ先を自分の喉に押し込んだ。


「いいかい小夜ちゃん。君があの人としている賭けっていうのはね、最初から破綻はたんしてるんだよ。ここは何をしても戻らない、もう終わった世界なんだから」

「そんな……ありえません……」

「だからもう、邪魔しないで。僕があの人との賭けを終わらせてくるから」

 二人の声を聞きながら、またこれかと咲子は思う。咲子は二人がいる木造アパートの外階段……そこの一番下に座っていた。つまらなさそうに肘をついて、二人の会話を聞いている。咲子がいることに、二階で話しているその二人は気づいてすらいない。

 こうして二人のやり取りを聞くのは、今回で四十三回目。咲子は頭の中で数えた。言い方の違いはあれど、今まで積み重ねた四十二回とまったく変わっていない。今回も同じことで二人は言い争っている。

 ということは、今回もこの二人のどちらも心が変化しなかったのだ。心が変われば行動が変わる。行動が変われば、その先に起こる出来事も変化する。ここはそういう場所だ。この世界や、この世界で動いているもう一人は、すでに過ぎ去った過去なので何をしようと変えられないが、この世界の外から来た人間は違う。誰かのたった小さな心の変化や誰かの選択、それだけで、思いもよらない展開に繋がるかもしれないのだ。

「……僕のことを疑うのは君の勝手だけど、僕は、人のそういうことには嘘はつかないよ。約束は守るし、その約束通り小夜ちゃんには嘘はつかない」

「だから、それが嘘なんでしょう? 嘘にしては、もう少しまともなことを言ったらどうですか!」

 もういいかと、咲子は小さくため息をついた。あの二人はまた同じようなことを言っている。どちらかの心が変わらない限り、彼女があの『嘘吐うそつき』を「信じる」という選択をしない限り、あるいは『嘘吐うそつき』が彼女を完全に切り捨てる選択をしない限り、あの二人はこれからも同じことを繰り返し続けるだろう。

 まるで同じビデオの映像を何度も繰り返し見せられているかのよう。一回や二回はまだ耐えられる。それが何十回も何百回にもなると、もはや飽きと退屈も超えて何も感じなくなる。それでも同じものを見続けていると、やがて感情が消え、心が死に、またそれかと思う。そしてどうでもよくなる。

 愛する人の最期の言葉も、見たくないと思っていた死に顔さえも。ずっと求めていた「おかえり」も。「大好きだよ」も。彼の笑顔もぬくもりも。何もかもがどうでもよくなり、またこれかと思うようになる。

「ほら、まだ迷ってる。撃てるか撃てないかじゃなくて、銃を抜くか抜かないかって、それをずっと考えてる。君がそうやって考えていられるのは、僕より強いからじゃない。僕が優しいからだよ」

 この先は聞かなくてもいいだろう。咲子はスカートのポケットからシースを取り出した。この先はどうせ、銃を向けたあの『嘘吐うそつき』が彼女を撃つか、銃を抜いた彼女が『嘘吐うそつき』を撃つかだ。

 咲子はシースを開け、中から奇妙な刀身のナイフを取り出した。その切っ先を、躊躇いなく自分の喉へと向ける。いつも包丁でやっている時と同じように。

 すぐに腕を動かし、ぐっと、刃先を気管に押し込んだ。

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