分からない彼女 2

 ──僕は気づいたら自分の部屋に居て、薄暗い中でPCを覗き込んでいた。画面と僕の顔は数センチの距離。もうそこまでしないと見えないのだ。なぜか眼鏡はなく視界いっぱいに画面の細かなマスが広がって、青白い光がそのマスの内側から膨らむように僕の目を灼く。眩しくて目がくらむほどだが仕方がない、僕は字が見えない。

『視神経の表面は、電気的な活動をより効果的に行うために、ミエリンと呼ばれる構造物で覆われています』

 必死に字を追うと同時、医師の声が降ってきた。ミエリンって何だか駄洒落みたいな名前だな、と思った途端に、膨張したマスの1つひとつが彼女と同じ顔の紙で作ったみたいなキャラクターになっていく。彼女がどんどん湧いて出鱈目に動き回る。彼女たちはぴょん、と飛んで僕の目に入っていく。いつのまにか僕の目の中は彼女たちでいっぱいになっていった。彼女たちは薄っぺらで棒のような手足で、僕の視神経に入り込んで周りを槍のような物で守っている。青いワンピースの彼女たちが僕の視神経に貼り付くようにして笑い、さざめき合う。

『しかし何らかの原因をきっかけに、ミエリンが破壊されてしまうんです』

『てか、案件の担当替えはこっちでしとくわ』

 再び降る、歯切れの悪い声。すると彼女の1人が「キャアァー」とか細い悲鳴を上げながら、切り裂かれたように消えた。するとまた1人、また1人、また、また、彼女が消える、消える……。キャアァキャアァキャアァと連続して上がる悲鳴と次々に消えて行く彼女に、僕は耐えられなくなってPCから目を離した。途端痛い、目が痛い、痛い痛い、あぁ真っ暗だもう何も見えない!

『ミエリンがいなくなると、脳が障害を認めてしまい、視神経に炎症が生じるんです』

『満足にPC画面を見つめることも出来ないんじゃ在宅も出来ないし、仕方ないよなぁ』

 声はぐわんぐわんと反響して何度もリフレインする。目を閉じているのか開けているのか分からず、しかし真っ暗な視界に絶望しては彼女を探した。どこだ、ひとりもいないなんてどこだ、痛いあぁぁ痛い助けてくれ、助けてくれ……!

『失明の恐れもある症状に移行していくこともあります』

ブツッ、と切れた電話――。


「三枝さん、起きて下さい」

 ぐわん、と頭が一回転した感覚にギョッと目を開けた。僕を呼ぶ声が数瞬遅れて鼓膜に届き、視界を埋めるような白いマスにピントが合ったとき、僕は「わぁ!」と叫んだ。

 夢なのか、現実なのか……!? あの悲鳴と『失明の恐れもある』と言う声が、まだ頭のどこかでこだまして、目の裏側を刺すようだった。耳に残る上司の軽薄な声が、嫌な汗を分泌させる。

「大丈夫ですか」

 その高く柔らかな声に、僕はキツく瞑り直した目をおそるおそる開けた。今度は想像した通りの彼女の黒と肌色とマスクの輪郭が視界にあり、僕はハァ、と安堵した。さっき見たと思った白いマスは、不織布マスクの模様だったようだ。呼吸の度に額にかいた汗が冷えていき、周囲の振動や音に、まだ電車に乗っていたことを思い出した。

「すみません、居眠りを……」

「三枝さん、少しうなされてました。もうすぐ着くみたいです。具合、大丈夫ですか」

「大丈夫です、すみません、勝手にびっくりしてしまって……」

 どうやら随分長く寝ていたらしい、と分かり未だ止まない動悸と気恥ずかしさに浅く息を吐いた。シートとの間に酷く汗をかいており、さりげなく座り直したとき羽織ったシャツの胸ポケットでカチャ、と音がして、眼鏡の存在を思い出した。

 「あと5分くらいで着きます」の声に、急いで眼鏡をかける。窓の外にはビルや高速道路が上も下もなく流れるように映り込んで来て、僕はすぐ目を伏せた。軽い吐き気を堪えると、向かいに座る彼女の脚がやはり細すぎて視線を彷徨わせることになった。つきり、と目が痛んだ。

「三枝さん。もしかして目の調子、良くないですか」と彼女の目が不安に翳った。

 僕は「いえ、大丈夫です」と答え、ちらりと外を見て「空、晴れてますね」と無理に笑った。さきほどの夢のせいか目を動かす度に痛みがあるのだ。しかしここでそれを話しても仕方がない。

 彼女が僕の嘘に眉を緩ませたとき、『まもなく終点、海浜公園駅、海浜公園駅です』とアナウンスが流れた。それを聞いた彼女が子どものように「あっ」と期待を漏らしたが、すぐに再び眉を寄せた。両手を組んで、まるで祈るような格好で身を縮め始める。ますます細く小さく見える彼女に、僕は彼女こそ具合が悪いのではないか、と声をかけた。「あやかさん」丁度、彼女の顔をわずか見上げる位置だ。

「……三枝さん」

「どうしました、あやかさんこそ何だか具合が」

 彼女は黒く長い睫毛を震わせた。キキィ、と電車がスピードを緩めて軋む音が僕の言葉を遮った。慣性で彼女の方に体が持って行かれそうになるのを堪える。

『終点、海浜公園駅、海浜公園駅です。降り口は左側です。お降りの際は足元に十分お気を付け下さい』

 いつの間にか通路に人が溢れているのを横目に見て、僕は立ち上がった。

「降りましょう、あやかさん。着きましたよ」

 彼女はわずかに肯いた。僕たちは一緒に電車を降りた。


 平日とは言え、駅はそれなりに混雑していた。僕は人波に乗ってホームを歩き、すぐ彼女と離れてしまった。後ろにピンク色の彼女がいるのを何度か確認しながら改札を目指した。駅の出口は一つなので、迷うことはない。僕は人の動きに酔うような吐き気を覚えて徐々に足を速めた。階段を上がり、ネモフィラやチューリップ、ナノハナの大きく引き伸ばされた壁面を飾る写真に目を奪われる。一瞬ちくり、としてやはり目の調子が悪いのか、と汗を滲ませる。眼鏡がいけなかったか、それとも出歩いたからか。

 僕は出来るだけ真っ直ぐ見るようにし、改札を抜け一度眼鏡を外すとツボを押した。気休めでもしないだけマシ、とグイグイ押し、眼鏡を着けると振り返った。

「あれ?」

 人はすでにまばらで、改札を通るための列も終わりが見えている。しかし、彼女の姿はどこにもなく、僕は周囲を見回した。駅を出て行こうとする背中の群にもいない。改札前のトイレだろうか、と少し待つか、と待合室で寄りかかった。ボディバッグからお茶のペットボトルを出し、飲む。ぬるさがまずかったが、喉を鳴らして飲んだ。キャップを回しながら再び周囲を見回す、しかしやはり見当たらない。今度は電車に乗ろうとする人の波が生まれていて、背を向ける人ばかりだった。僕は嫌な予感を覚え始めた。

 もしかしてもう先に行ったとか、いやでも彼女に限ってそんなこと、と内心首を振ったものの、そこで僕の頭は急激に冷えた。

 彼女に限って?……僕は彼女の何を知っているのか。

『あぁ今日私、ピンクでしたね』素っ気ない声を思い出す。

『私にとって、青と黄色以外は、何色でもありません』頑なにこちらを向かない横顔。青と黄色?

 もしかして僕はあのとき、彼女の素顔を見たんじゃないだろうか。

 あのとき、彼女はどんな顔をしていた? ただぼやけた白い肌色だけが浮かぶ。彼女のあの黒い睫毛や眉はどうなっていた? ダメだ、僕は眼鏡をしていなかった、見えていなかった、何も。もしかして酷く悲しませたのだろうか、怒らせたのだろうか。


 よく分からないまま衝動的に駆けた。不安が胸を詰まらせた。無事ならいい、もしかして先に行ったのかもしれない。駅の階段を駆け下りた、いない。直通バスに乗ってしまったのだろうか。バス停まで走った、いない。すでに電車時間に合わせたバスは行ってしまったようで、バス停には誰も居なかった。彼女も乗っていただろうか、いや、もしかしたら具合が悪くなって本当にトイレに? もしそうなら……。

 僕は白いタイルの床の上を駆けて、再び階段を駆け上った。息が切れて、眼鏡が鼻の上でカタカタと鳴る。汗で鼻に当たる部分がピリ、と痛い。苛立ちに外してしまいたい、と思ったがこれがなければ、彼女とすれ違っても見えないかもしれない、と我慢する。窓口に飛びつき、駅員の怪訝な顔を見上げた。藍色の制服の首から下が欠けて、ネームの名前が分からない。

「す、すみま、せん……ピンクの……服の、女性、を……」

「あぁ、お知り合いですか」

 僕は呼吸が苦しくて下がりかけていた顔を「えっ」と上げた。奥から心配そうな顔をした駅員が僕を見えていた。

「ホームにうずくまっておられて、声はお掛けしたのですが……乗客の女性がベンチまで移動を手伝って下さって、今も」

「すみません! ホームですね! あ、入場券……」

「いえ、緊急時は結構です。顔を真っ青にされてましたから、お早く」

「ありがとうございます!」

 僕はそのまま窓口の前から改札を抜けて、ホームへ降りる階段を下った。すぐに、彼女は見つかった。ベンチに項垂れて座っていた。見つけた途端、安心して脚が止まった。階段の半ばで、僕は手すりに体重を預けながら息を調えた。誰もいない階段にはっはっ、と荒い呼吸がわずか響いた。

 遠くからでも彼女は全く動く様子がなくて、ただピンクの裾がホームを抜ける風にはためいていた。白い、折れそうな脚が彼女を辛うじて支えているようだった。汗を拭いながら、僕はコンクリのホームを進んだ。

「……あやかさん、大丈夫ですか」

 ビク、と背を揺らし、彼女は酷く緩慢に顔を上げた。その目が僕の目を捉えるまで、彼女の長い黒い睫毛に宿る水分や頬に張り付いた髪の1本1本に、僕は自分を責めた。明らかに、電車を降りる直前の態度には不安が見えていたのに、はっきりと見えていたのに。

「すみませんでした、あやかさん……ひとりで先に行ってしまって」

 あぁ、と新しい涙を流す彼女に、僕はどうしていいか分からずただ立ちすくんだ。風が彼女の後ろ髪を攫うように吹く。汗だくの僕には心地いい風だが彼女には冷たいかもしれない、とスニーカーを擦ってゆっくり隣に腰掛けた。

「あやかさん、ここ、風が寒くないですか、とりあえず移動しませんか」

 彼女は、動かない。目を閉じ、頬を隠すようにして泣いている。僕は見られたくないのか、と眼鏡を外した。鼻に溜まった汗もついでに拭った。

「……あやかさん、僕、何も見えませんから、泣いたままでいいですから行きませんか。ネモフィラ、見に」

 頬の手が外れたようだった。黒い縁取りの目がこちらを向いたような気配。

「さぁ行きましょう」

 僕は手を差し出した。もしダメなら、勝手に彼女の手を取ってしまおうと思っていた。駅員の言う通り、酷い顔色だったからだ。彼女は本当にゆっくりと、しかし確実に肌色を動かして僕の手にその手を重ねた。涙で濡れたままのしっとりとした、冷えた指を僕はそっと握った。

「行きましょう」

 僕たちは恐らくふらつきながら、階段を上り、改札を抜け、再び階段を降りた。ぼやけて全体が白い建物の中では、どこを歩いているか分からない。それでも、僕は1度通った記憶を頼りに彼女の手を引いた。振り返る余裕はなかったが、彼女は立ち止まることなくついて来た。


 バス停前のベンチに僕は腰掛けくん、と彼女の手を引いた。心得たように隣に腰を下ろす彼女と、何とか数十メートルの距離をエスコート出来たことに安堵し、僕は深く息を吐いた。「あぁ良かった、転ばないかと心配しました」と冗談めかして笑い、手を離した。緊張と集中で、酷い手汗をかいていた。

「……すみませんでした」

 消え入りそうな謝罪。ホームの風から逃げてきたはずなのに、この場所も陽が当たらないからか少し冷えるようだ。背中の汗が少しずつ熱を奪って、僕は思わず背筋を伸ばした。

「ちょっと、人混みが、それから初めての場所は怖くて……」

「そう、だったんですか。すみません、僕が隣を歩けば良かったんですね」

 彼女が酷く痩せているのは、何か精神的な事情があるのだろう、と思ってはいた。僕も電車を降りるときは目の痛みに平常を失い、早く改札を抜けようと必死で、彼女を意図的に置いてけぼりにした自覚があった。恩返しのつもりが辛い思いをさせてしまった、と苦い思いが広がった。

「もう、大丈夫、です。こちらこそすみません、ご迷惑をおかけしました。三枝さんも見えないのに」

 彼女は頭を下げたようだ。僕は慌てて言い訳をする。

「いえ、実は少し目が痛くて、早く改札を抜けようとしてしまって……眼鏡は極力外した方がいいようです……あの、もう、落ち着きましたか」

 彼女は肯いた。はっきりとした動作に心底安心した。僕は「あやかさん、時刻表を見てもらえますか、僕全然見えなくて」と、安易に頼んだ。少し体を動かした方が、気持ちが落ち着くだろう、と勝手な思い込みで言った。

 「分かりました」といくらかしっかりした声が聞こえたので、僕は目を離しスマホを取り出すと目を近づけた。

 「ぁ……」かすかに声を聞いたような気がして、僕は彼女のピンク色を探した。

「あやかさん?」

「ごめんなさい、三枝さん、私……よく分かりません」

「え? 時間がですか?」

 僕は何事かと眼鏡を掛けて立ち上がった。突然見える世界にくらり、としたが、顔をしかめつつ踏み出す。彼女は時刻表の前に立ち、再び色をなくしていた。僕はその隣に立ち、淡いピンク色に白字で書かれた時間を確認した。あと五分もなかった。

「あぁ、もう少しで来るみたいですよ。ほら、ここ」

 僕は指でその時間を指差した。そ、と僕の腕に彼女の手が触れた。「三枝さん、私、分からないんです」と、かがんだ僕を彼女が見上げた。至近距離で彼女の目がぐしゃり、と歪んだ。

「わ、私」

「あやかさん?」

「色覚異常なんです……時刻表、真っ白にしか見えません」

 ぎゅ、と掴まれた腕に爪が食い込んで、痛かった。

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