神隠しにあってしまいました

克全

第1話:神隠し

 早朝の伏見稲荷大社の雰囲気はとても神々しくて、身が引き締まります。

 特に二度も医学部受験に失敗した今の私は、迷いを断ち切る必要があります。

 歴史小説家になりたい気持ちを抑えて、勉強に専念しなければいけません。

 祖父や父の理想が分からない訳ではないのです。

 特に叔父達が金儲けに走ってしまった今では、家で働く鍼灸師達を守るためにも、私が医師免許を取らなければいけないのです。


 祖父も父も、医師免許さえとれば、後は好きにしていいと言ってくれています。

 名目だけの院長でもいい、タレント医師でも作家医師でも構わないと言います。

 障害がある真面目な鍼灸師達に、同意書を書いてあげられる資格さえあればいいのです。


 家で働く障害のある鍼灸師達を、雇い続けられる資格さえすればいいのです。

 祖父と父はそう言ってくれているのですが、私にはそれが小狡いように思えてしまいます。

 いえ、これは全部言い訳にすぎませんね。


 ようは私の頭が悪いだけなのです。

 二度も医学部受験に失敗している事の言い訳に、祖父や父のやり方が小狡いと難癖をつけているだけです。

 そんな事を口にしていいのは、医学部受験に合格してからです。


 そんな事を想いながら、鳥居の林立する幻想的な伏見稲荷大社の参道を登っていると、赤い着物を着た童女と目が合いました。

 京都ではこんな幼い子が普通に着物を着ているのかと少々驚いてしまいました。

 こんな事を言ってはいけないのかもしれませんが、伏見稲荷大社に相応しい、とても愛らしい童女です。


 おかしなものですね。

 伏見稲荷大社の雰囲気に影響されてしまったのか、自然と童女という言葉が思い浮かんでしまいました。

 普通なら、幼女とか子供という言葉が思い浮かぶはずなのに。

 そんな童女があまりに魅力的で、瞳に魅入られてしまいそうになります。


 にっこりとほほ笑んだ童女に誘われるように、階段を登ってしまいます。

 童女は参道の真ん中は歩きません。

 それどころか鳥居の外を歩きさえするのです。

 中、右、左、中、左、中、右、中、私も童女を真似て歩いてしまいます。

 急に朝霧が立ち込めてきて、童女と朱色の鳥居しか見えなくなってしまいました。


 眼が眩みそうなくらい激しい光に襲われてしまいました。

 目の奥どころか頭まで痛くなるくらい激しい光です。

 思わずその場にしゃがみ込んでしまいました。

 馬鹿げた考えですが、どこかの国が核攻撃をしてきたのかと思ってしまいました。

 本当なら笑いだしたいところなのですが、頭が痛すぎて笑う事もできません。


「殿、屋敷に避難してください。

 貴様何者だ、どこから現れた!」


「止めよ、久左衛門。

 馬鹿な事を申すでない。

 お前達も刀を収めろ。

 どう考えても御稲荷様の御使いではないか。

 無礼な事をするでない」


 先程の光のせいで、まだ目を開けられません。

 でも耳は無事なので、誰かが怒鳴っているのが聞こえます。

 しかも刀を抜くなとか、とんでもない事を言っています。

 京都の暴力団員でもいるのでしょうか。

 先程の光を他の組の攻撃だとでも誤解したのでしょうか。


「神使様、家臣の無礼を御詫びさせていただきます」


「殿」


「黙れ、無礼者。

 神使様に失礼であろう」


 とんでもないことになってしまいました。

 私がやったことではないのに、さっきの光が神使の御業だと勘違いされています。

 私は神使ではないと言いたいですが、言えば何をされるか分かりません。

 私はこのまましゃがみ込んでいますから、さっさとどこかに行ってください。


「神使様、どうか我が屋敷のお立ち寄りください」


 とんでもない事を言わないでください。

 何が哀しくて暴力団員の家に行かなければいけないのですか。

 もしかして、今までの事は全部演技だったのでしょうか。

 私を攫うために演技していたのでしょうか。

 だとしたら絶対に立ち上がるわけにはいきません。


「我が田沼家をこれほど繫栄させてくださった御稲荷様の神使様を、なんの歓待もせずに御返しするわけには参りません。

 それに何やら体調がよろしくないようにお見掛けいたします。

 どうぞ我が屋敷で御休みください」


「殿、いくらなんでもそれは……」


「黙れ久左衛門。

 これ以上神使様に無礼な口を利く事は許さんぞ。

 余の護衛は虎太郎達がいれば十分じゃ。

 久左衛門は屋敷に戻って神使様を歓待する準備を致せ」


 殿とか田沼家とか久左衛門とか、なんか怖い言葉が耳に入ってきます。

 母のような歴史小説家になりたくて、医学部に入るための受験勉強もせずに、戦国時代や江戸時代の資料を読み漁っていました。

 母親が処女作に書いた田沼意次が大好きで、いずれは母を超える田沼意次が書きたくて、貪るように資料を読んでいました。


「あの、御名前を教えてくださいますか」


「おお、未だに名乗りもせずに失礼いたしました。

 手前は田沼家の当主を務めさせていただいております、主殿頭意次と申します」


「殿、やはりおかしゅうございます。

 稲荷様の神使様なら殿の名前くらい知っていて当然でございます」


 怖い怖い怖い怖い、若い男の言葉に怒りと猜疑が含まれています。

 私の事を疑っているのは明らかです。

 まだ下を向いたままなので、断言はできませんが、これは神隠しです。

 ラノベやSFならタイムスリップというのでしょうが、歴史時代小説なら神隠しと言われる現象に遭遇したのです。


 いえいえいえいえ、そんなことはありません。

 私のような平凡な人間が、神隠しの遭遇するなんてありえません。

 恐らく私は、先程の激しい光のせいで昏倒しているのです。

 昏倒して夢を見てしまっているのです。

 夢だからこそ、一番望んでいた田沼時代の事を思い浮かべているのです。


「殿、いい加減御諦めください。

 神使様には神使様の御役目があるのでしょう。

 ここまで殿が下手に出てお誘いしても、顔も上げられないのです。

 我々がここにいては、神仏の世界にも帰れないのかもしれません。

 どうか屋敷の御戻りください」


 私がずっと黙って下を向いているのが気に喰わないのでしょう。

 若い男が、明らかに不機嫌だと分かる声色で、田沼意次に話しかけています。

 そうです、そうしてくれれば私も安心です。

 夢だと分かっていても、周りに田沼意次がいるのは緊張してしまいます。

 早くどこかに行ってくれた方が、夢が覚めてくれるかもしれません。


「虎太郎は黙っておれ。

 これ以上ひと言も口をきくな。

 これは主命である」


「はっ、申し訳ありません」


 若い男の声に明らかな緊張と驚きが感じられます。

 普段の田沼意次が、家臣に強い口調で命じることがないのが、これで分かります。

 でもこれも私の願望なのでしょうね。

 自分が書きたいと思っている、田沼意次像に近い人物の夢を見ているのでしょう。

 本当の私は身勝手な性格なのですね。


「殿、御待たせいたしました。

 屋敷の方は急いで歓待の用意をさせております。

 ただ我々だけが用意を整えるのでは神使様に失礼かと思い、身の回りの御世話をする奥女中を連れて参りました」


「おお、流石久左衛門だ。

 確かに神使様も、人間から不意に招待されても御困りになるだろう。

 我らには分からぬ身嗜みもあろう。

 お登勢、くれぐれも神使様に失礼のないようにな」

 

「はい、御任せくださいませ」


 今度は明らかに女性とわかる声がして、少し安心できました。

 でも、夢は思い通りにならないものですね。

 目覚めたいのに全然目覚められません。

 それにしても、お登勢とは笑ってしまいますね。

 ここで奥女中に寺田屋の女将の名前が夢にでてくるなんて、私の願望がてんこ盛りです。


「神使様、どうぞこちらにおいで下さい。

 もしよろしければ、湯殿に入られてはいかがでしょうか。

 御着替えも御用意させていただいております。

 その間に御酒と御膳の用意も整います」


 きゅるるとお腹が鳴るのが自分でも分かりました。

 夢の中でもこれほど御腹が減るのかと驚いてしまいます。

 いえ、夢の中だからこそ御腹が減るのかもしれません。

 早朝に御参りに来てしまったので、まだ朝食を食べていないのです。

 激しい光に昏倒してしまってから、時間が経ってるのでしょうか。


「では何か食べさせてください」


 私は思い切って目を開けて声をかけました。

 目の前にはまるで江戸時代のような光景が広がっています。

 母の書いた小説の挿絵のような光景です。

 明らかに田沼意次であろう、堂々とした殿様と若侍達がいます。

 中に一人田沼意次と同年配の侍がいますが、この人が供頭なのでしょう。


「では、こちらにおいで下さい」


 この女性がお登勢と呼ばれていた方でしょうか。

 私が想像していた江戸時代の中年女性そのものです。

 見た目と雰囲気で、気丈で気風の好い女親分のような方だと分かります。

 夢なのだから、私の想い通りの女性で当然なのでしょうね。

 でも、微妙に私の理想とは違う所があります。


「こちらにおいでください」


 いつの間にかお登勢さんの言われる通り歩いています。

 追い詰められて度胸が据わったでしょう。

 母が私に言っていた通り、普段は臆病でうじうじした性格なのに、追い詰められてどうしようもなくなったら度胸が据わるのです。

 本当に誰の役にも立たない性格に、自分で自分の事を笑ってしまいます。


「今急いで湯殿を整えております。

 それまでの間、御酒を御召し上がりになられますか」


「いえ、御酒はいりません。

 御茶を頂ければそれで結構です」


 夢の中とは言え、私はまだ未成年ですから、御酒を飲むわけにはいきません。

 ですがこの時代の人から見れば、私は十分に成人なのでしょうね。

 それに、この時代の日本酒は三倍に薄められていたはずです。

 それとも、大名家なら薄められていない原酒を飲んでいたのでしょうか。

 まあ、夢なので私の願望や恐れが現れるのでしょう。


「はい、直ぐに御用意させていただきます。

 誰かある、急いで御茶と御菓子を用意しなさい」


 お登勢が他の年若い奥女中を呼んで、細々とした事を命じています。

 お登勢は奥を取り締まっているのかもしれませんね。

 これは私の大奥の知識を反映しているのでしょうか。

 それよりも問題なのは、私が大名家の湯殿をどう思っているかですね。

 江戸の内風呂は鉄砲風呂が主流で、上方は五右衛門風呂だったはずです。


「神使様御口にあいますかどうか分かりませんが、どうぞ御食べください」


 私が色々と考えている間に、お登勢が御茶と御菓子を用意してくれました。

 抹茶ではなくほうじ茶なのでしょうか。

 蓋のついた立派な茶器が木の皿に乗せられています。

 こんな時に自分の語彙のなさに愕然としてしまいます。

 小説家になりたいと言いながら、ちゃんとした名称が分からないのですから。


「私はこの時代の行儀作法を知りません。

 不躾ない態度で飲み食いしても笑って許してください」


 なんと情けない事でしょうか。

 歴史時代小説家になりたいと言っているのに、江戸時代の食事の作法すらわからないのですから、笑ってしまいますね。

 それでも食べる前に謝る事で、多少は許されるかもしれません。

 それにもう空腹が限界を超えてしまっていて、我慢が出来ません。


 大口を開けないようにして、背筋を伸ばして、顔を食べ物に近づけるのではなく、食べ物の方を口に持ってくるようにするくらいはできます。

 美味しい!

 あまりの美味しさに扁桃腺の辺りが痛くなります。

 こんな事は子供の頃以来です。


「とても美味しいですわ」


「それはようございました」


 お登勢さんが満面の笑みでこたえてくれます。

 彼女がいなければ、ぱくぱくと一気に食べてしまいたいところです。

 甘すぎない上品なこし餡の饅頭です。

 私の乏しい知識では、利休饅頭なのか薄皮饅頭なのかの判断もつきません。

 空腹過ぎて、お登勢の視線を気にしながらも、直ぐに食べてしまいました。


「食事の用意もさせておりますが、もう少し御菓子をお持ちいたしましょうか」


 思わず、もっとくださいと口にしそうになってしまいました。

 ですがその言葉をぐっとこらえます。

 夢とはいえこれは絶好の機会なのです。

 夢だからこそ私の不安と願望が現れています。

 母が教えてくれたように、自分が望む物語を知る絶好の機会なのです。


「いえ、せっかく田沼お」


 いけません、いけません。

 親や主君しか口にしてはいけない諱を、私が口にするわけにはいきません。

 私の事を神使様だと思っている田沼意次は怒らないでしょうが、護衛についている若侍は別です。

 諱を口にした途端に斬られてしまい、目が覚めてしまったら、自分の深層心理を知ることが出来なくなってしまいます。


「田沼様と御食事をしながら御話ができるのですから、御菓子はこれくらいにさせていただきます」


「さようでございますか。

 確かに御食事前の饅頭は重いかもしれませんね。

 では井筒屋の羽衣煎餅はいかがですか。

 あれなら御食事に影響なく食べることができると思います」


 井筒屋の羽衣煎餅。

 いつか食べたいと思っていた、時代小説に出てくる銘菓です。

 どうせ夢の中です、食べさせてもらいましょう。


「そうですか、だったら食べさせていただきましょう」


「はい、そうしてくださいませ。

 ゆっくりと食べていただいている間に、湯殿の準備をさせていただきます」

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