明煌

1 太子殿

 太子殿に戻ってからも、明煌めいこうは自分がしてしまったことをどうすればいいのか分からず、書斎の椅子に座って考え込んでいた。


…人を傷つけてしまった。あの宮女は確か、母妃の宮殿にいた者だ。


「殿下」

 そう呼びかけられて顔を上げると、いつも静かな口調の月桂げっけいが、さらに静かな声でこう言った。

「ご心配には及びません。あの者は菖妃しょうきさま付きの宮女です。殿下にとって最善の方法で事態を収拾してくださるはずです」

 父王の正妻である明煌の母・菖妃は、宮殿の女人に関するすべての管理権限を持っている。王の側室やこれから輿入れする明煌の妻だけでなく、王宮や側室に使える宮女の管理も任されていた。


「それは、あの者にとっても最善か?」

 曳きは強くなかったが、あそこまで飛んだ以上、多分、彼女の肩に相当深く刺さったはずだ。

 もし貫通でもしていたら、矢じりのついた矢を抜くことは、傷を広げることになる。

 普通の矢なら途中で折って抜き取ることも可能だが、じかに手にしたものだけが分かる、矢の太さ、硬さからして、多分折ることは無理だろう。


「月桂、誰かに様子を見に行かせてくれないか? このまま何もしないのは人の道にもとるような気がする」

 少年から青年へと成長しつつある皇太子の顔に、疲労以上に後悔の色が浮かんでいる。

「分かりました」

 月桂は太子殿を出ていき、誰かに指示を出して戻ってきた。

「様子が分かり次第、お伝えします。殿下は少し休息なさってください」

 そう言うと、後ろで控えていた宮女に建物の奥にある寝室へ導くよう合図した。


 寝台に横になったところで眠れるはずがない、と思っていたものの、謁見の式の緊張からか、夕飯の時間までうとうとしてしまった。

 宮女に起こされて政務室へ戻ると

「殿下、先ほどの者ですが…」

 月桂がいつものように、明煌が椅子に座るのを待って言った。


「傷は浅くはありませんが、命に別状はなく、菖妃さまの計らいで、回復するまで内医署ないいしょとどめられるそうです」

 王宮内の医師が待機する医署は、王族だけを見る高医署こういしょと、王宮内部の者が病気や怪我をしたときに手当をする内医署に分かれている。

 内医署は薬房と、怪我や病気の者が数日入所できる施設もあった。


 そうは言ってもあの傷では、現場に復帰するまでに相当な日数がかかるだろう。

「そのうち見舞いに行くことはできるか?」

 月桂は少しの間考え、こう言った。

「何事も、菖妃さまのご判断によるでしょう。いずれにしてもすぐは行けません。

 様子を見て、菖妃さまにお聞きになってからにしてください」

「…分かった」


 生まれた時から皇太子で、まだ十六歳の明煌は、自分が周りから尊く扱われ、この国では唯一無二の存在であるにも関わらず、自分の意思だけで物事を動かすことができるのは、この太子殿の中だけ、ということをよく知っていた。

 そして、五歳年上の月桂が言うことに、間違っていたことはなかった。


 頼静の一団が到着したことで、宮殿の中は元服の儀と婚姻の儀を迎えるための準備が始まった。

 最初は肩に矢を受けた宮女のことが気がかりだった明煌も、どちらも自身のために行われる式であるため、その流れに立ち止まることはできず、両方の式の衣類合わせや、式の手順を覚えることに没頭することになった。


 元服の儀は、王宮の政務が行われる政所まつりどころで行われる。

 王族はもちろん、国の政務を司る大臣や軍人、頼静の代表も参列し、奥に長い政所がいっぱいになることが予想された。

 式は父王が、正式な皇太子が誕生したことを国の内外に宣言し、今は降ろしている明煌の髪を結い、冠をつける。

 その後、全員の前で、皇太子としてこれからの決意を読み上げなければならない。

 当日の作法の手順は先導役がついて教えてくれるし、文章も歴代の皇太子が読み上げたものとほぼ同じように作られていて、読めば良いだけになっていた。


 しかし、元服の儀独特のお辞儀の仕方や、相手の順序など、最低限覚えておかなければならないことも多かった。

 明煌はいつの間にか、傷を負った宮女のことを忘れてしまった。

 そして、不思議なことに、周りの誰もがそのことについて触れようとしなかった。

 それが、母妃の意思だったことを知ったのは、ずいぶん後になってからだった。

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