第5話 噂話
ただ教室に入るというだけでこんなに緊張するのは、昨日の記憶が未だに薄れてくれないからだろう。だが、人間は学ぶ生き物。というわけでしっかりノックを響かせ、美術室前で返事を待つ。……が。
「まだ来てないのかな……」
圧倒的無反応。だだっ広い廊下にノック音が反響するだけで、答える声はどこからも聞こえてこない。しかしながらドアは施錠されていないようで、そういうことなら先に入って待っておこうと中に入ると――
「――おっと」
そういえば、ノックしても聞こえるとは限らないと言っていた。ただ、実際に間近で見ると、神秘的と言っても差し支えない光景に思わず息を飲むしかない。
結論から言って、字城は既に美術室にいた。本来、それなら返事くらいしろよと思うところだが、そんな気持ちは一切湧いてこなかった。
字城とわは天才で、実績もあって、将来を嘱望されている。その情報は初めから持っており、昨日この目で確かめた。だが、特別にすごいものというのは、何度見ても色褪せないらしい。
「…………あ、ほんとに来た」
「ごめん、邪魔しちゃった?」
「うん」
「あはは……」
ストレートな邪魔もの扱いに苦笑。しかし、怒る気にはなれない。だって、今の俺は本当に邪魔だったんだから。
「油絵ってやつ?」
床に新聞紙を敷き詰め、何色かの絵の具が用意されたパレットを片手に、字城は立っている。キャンバスには筆の触れた後があり、なにかを描き始める前段階のようだ。
その姿はまるで宗教画のようで、何人も立ち入れない神聖な空気感を醸し出していた。うっすら差しこむ西日と相まって、大作映画のラストシーンのようにも見える。とにかく、絵を描く彼女自身が画になっている。さながらマトリョーシカだ。
「感覚の調整。今日はあんまり描く気分じゃないから」
「調整……?」
荷物を邪魔にならない場所において、訝りながら近くでキャンバスを凝視。横一列に赤色が並んでいるが、こうするとなにかいいことでもあるのだろうか。
「森谷、目、悪いね」
無表情に言い放ち、字城は両端を指さした。「こっちの方が明るくて、こっちの方が暗い感じ」そんなこと言われてもさっぱりわからない。俺の目には、両方同じ赤に映っている。
「ん、ん~~~?」
「油絵、重ね塗りするから。ちょっとの違いで気持ち悪くなる」
なおもぺたぺたと筆をふるう字城。教えてもらっているところ悪いが、素人目に違いなんてわからない。ただ、その繊細な色覚が今の彼女の評価につながっているのは確かだ。
「すごいこだわり」
「こだわりっていうか、出来上がりが気持ち悪いとむかむかするから」
「それをこだわりって言うんじゃない?」
「そうかな。わかんない」
美術室にはオイル特有の匂いが充満しつつあって、それが意外にも心地よかった。字城は淡々と作業を続けていて、これ以上話しかけるのは気が引ける。なのでリュックからこの前仕入れた文庫本を取り出し、椅子に腰かけてページをめくり始めた。
すると、意外にも字城の方から声がかかって。
「森谷、部活やってないの?」
「帰宅部だよ。中学の頃から筋金入りの」
「暇人」
「みんなそう思って仕事押し付けてくるから、かえって忙しいんだこれが」
「その割にはくつろいでるけど」
「字城さんを口実に、束の間の自由を満喫中」
彼女との共謀により、これから一ヵ月は安泰。ゆっくり本でも読んで、のんびりさせてもらおう。……ただ、字城は俺の物言いに不服な点がありそうで、腕を組んでじっとこちらを見てくる。
「森谷、美術部の話、聞いてないの?」
美術部の話、とは。おそらく、校内に字城の名を一躍広めた噂話のことを指している。元から有名だった彼女の認知度をさらに押し上げた、一時期におけるトレンド。
我が物顔で大手を振って美術室を独占していることからわかる通り、字城は美術部に籍を置いている。まずもって、そこから驚きではあった。公立普通科高校のなんの変哲もない美術部に、世界から注目されている字城が加入する。まさか彼女ほどの人物が個人の制作拠点を持っていないわけもなく、であればどうして、と、誰もが頭に疑問符を浮かべた。
我が校に部活動への参加義務がないのは俺が帰宅部を貫いていることからも明らかだが、その状態で部活を始めるとなったら、大なり小なり目的が存在することになる。しかし、部員間の切磋琢磨によるスキルアップなどは考えられない。なぜなら、字城とわはそんな次元にいないから。憶測が飛び交ったものの、事実は依然わかっていない。彼女のみぞ知るところだ。
「噂は聞きかじったけど、当事者じゃないからなんとも」
「合ってるよ。みんな、いなくなった」
一年前の段階で十名ほどが在籍していた美術部だが、現時点での部員数はなんと驚愕の一人。いつの間にか、ここは字城一人の居場所になってしまった。しかも、その理由というのがまた強烈で。
「……頼まれて、一枚描いただけなのに」
せっかく字城ほどの人材を迎え入れたのだからと、当時の部長が実演によるレクチャーを頼んだらしい。そして、彼女はそれを断らなかった。断らなかったせいで、美術部は実質的な崩壊への道を歩んだ。
時として、眩し過ぎる才能は凡人の心を冷たく侵す。字城が手遊び感覚で完成させた一枚の風景画を見た部員のほとんどが、その週の内に部を去ったという。先陣を切ったのが頼み込んだ元部長というのだから皮肉なもので、しかもその元部長、本来は美術の道を志していたらしく、美大進学に十分な実績も残していたようだ。……が、昨年度の進学実績に美術系の大学は記されていなかった。つまりは、そういうことである。
「あれから、会う人みんなそのことばっかり」
「俺にも聞かれると思ってた?」
「昨日、確実に」
マジか、事実だったか。いくらなんでも眉唾だろうと軽んじていたが、本人が辟易した口調で語るのなら間違いない。そんな嘘みたいな現実が、ほんの一年前にあった。それはまたなんとも、運がなかったと言わざるを得ない。字城も、辞めていった美術部の面々も。
「じゃあ、字城さんが冷たい人だとか怖い人だとか噂されてるのは」
「……答えてたよ、最初はちゃんと。でも、繰り返してたら面倒になって」
「今度はそこだけ切り取られて拡散されたってわけか」
この二日で、噂されているような人物でないのは十分理解できている。少々ぶっきらぼうなのが元の性格なのか、それともこの一年で擦れた結果なのかまでは現状判断がつかないけれど。
「一個質問いい?」
「なに」
「字城さんは、なんで美術部に?」
「…………」
解決されていない疑問をぶつけると、字城はしばし口ごもった。それは答えを用意しているというより、どうにか言葉を選ぼうとしているときの間に思えて。
「別に。気まぐれ」
「そう」
本人がそう言うなら、そうなのだろう。いちいち疑っても仕方ない。彼女が詮索を好まない性質なのは、直前の話からも明らかだ。……だが、それが勉強が手につかなくなった理由と関与しているのは、想像に難くない。
「森谷は」
「ん」
「見ても平気なんだ、私の絵」
「平気って?」
「……来るわけないって思ってた」
昨日、俺は字城の息遣いが感じられる距離からまじまじと、その若く瑞々しい才能が弾ける瞬間を目撃していた。紡がれる線は一本一本に命があるようで、そのどれもが独創的。……確かに、自身が同じ道を歩む人間だったら、絶望して筆を置くのもやぶさかではなかったと思う。実際に、彼女はそうやって人から疎まれてきたのだろう。他ならない、自分自身の才能が祟って。
だが、
「俺は、また見たいって思ったけどな」
「なんで?」
「モナリザとか、ひまわりとか、誰でも知ってる名画ってあるじゃん。けど、その制作背景を知ってる人間なんて現代にいないわけ。実はミスがあったとか、ここを描くときに丁度絵の具が底を尽きたとか、そういう生っぽい事情ね。……字城さんのこと見てたらそういう歴史に残らない裏側が知れそうで、結構わくわくする」
「変態」
「なんで?!」
「森谷、ミーハー過ぎ」
言って、字城は笑った。程よく口角の上がった、年相応の少女の微笑みだった。そこに噂で聞くような冷血人間の面影はなくて、やはり人物評価というのは自分の目で見てなんぼだなと再確認。
「……それなら、ちゃんと見ときなよ。本なんか読んでないで」
「え、でも、今日は調整って」
「変わった、気分」
「ミーハーもたまには仕事するもんだな」
「なに」
「なんでも」
家に帰ってからゆっくり読める本と、この場でしか見られない字城の手腕。どちらの優先順位が高いかなど、問うまでもなく明らかだ。それにしても、彼女は意外と現金な性格をしているらしい。誰かに褒められた経験なんて、数えきれないほどあるだろうに。
結局、字城の単独公演は完全下校時刻ぎりぎりまで続いた。ただ一人その光景を眺めるのを許された俺は、世界でも指折りの幸運を持っているのかもしれない。
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